中学校の日本史は、川上大麓先生だったと思います。強烈な印象があるいい先生でしたが、授業内容は頭に残っていません。高校は工学系大学の付属校だったせいか、日本史の授業を受けた記憶がありません。暗記科目である「社会」はとても嫌いでした。
ガイドの仕事をするため日本史を再勉強し、「もう一度読む山川日本史」は興味を持って取り組むことが出来ました。外国人に日本について説明する中で、七世紀から八世紀にかけて、中央集権国家、律令国家になり「天皇」の名称が使われ始めたこと。律令国家となるための仕組みが、六世紀に仏教とともに中国からもたらされたことがこの国のキーポイントであると理解しました。様々異論もあると思いますが、工学士のにわか学問とお聞き流しください。
これまでいくつかの川沿いに歩き、次のターゲットを野川・仙川に狙いをつけて、二子玉川からさかのぼるルートを考えていました。長くサイクリングコース(歩行者も利用可)があり川沿いを歩けるのですが、ちょっと面白みに欠けるなぁ。源流がある日立中央研究所は、年二回公開されているけれどその時は混むだろうし下見が出来ないし。などと考えながらネットで見つけたのが、「東京文化財ウォーク」の「府中・国分寺をあるいてみませんか」というパンフレット。このパンフレットから引用します。
飛鳥・奈良の古代国家は、全国を五畿七道に区分し、60余国を配置しました。武蔵国は、現在の埼玉県、東京都と神奈川県の一部を含む「大国」で、多磨郡、豊島郡、足立郡など21郡からなり、国府は現在の東京都府中市に置かれました。
武蔵国は、当初「東山道」に属し、上野国新田駅付近から分岐した古代官道「東山道武蔵路」が府中の国府へと整備されました。国府の北約2㎞には東山道武蔵路の東西に国分寺僧寺・尼寺が建立されました。国分寺は天平13年(741)の「国分寺造営の詔」により全国に建立された官寺で、武蔵国全域の協力の下に建設された大寺院です。
このように、府中、国分寺周辺は、奈良平安時代の中心地域として多くの遺跡が残っています。
また、この場所は多摩川の府中崖線、国分寺崖線に沿っているため湧水も豊富で、縄文時代や古墳時代などの遺跡も数多くあります。府中国府の西側には全国最大の上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」などの有力古墳も築かれています。
飛鳥・奈良時代の歴史を感じ、野川・仙川源流となるの国分寺崖線を巡るコースを、野川・仙川を歩く前の基調ウォーキングにしたいと思います。
写真:ラグビーのまち府中
写真:馬場大門のケヤキ並木
パンフレットから引用します。
馬場大門のケヤキ並木は、大國魂神社の北に延びる参道に所在し、大國魂神社の大鳥居から約600m 続きます。大正13年(1924)に全国で2番目に指定された由緒ある天然記念物です。指定当時は幹周3m以上の巨木が60本以上も整然と並び、その間にイヌシデ、コナラ、スギなどを交えた壮観な様相を呈していました。
このケヤキ並木は徳川家康が大國魂神社に2条の馬場と並木を寄進したことが始まりといわれ、「馬場」の地名はこの寄進に由来したといわれています。幕末までは馬市も開催されていました。
大鳥居から北に向かってケヤキ並木を歩いていくと、右側の歩道に源義家像が見えてきます。これは、平成4年に建てられたものですが、初めてケヤキが植えられたのは、平安時代に前九年の役の戦勝祈願成就のお礼として源義家が並木を寄進したという伝承に由来しています。
更に歩いていくと、京王線府中駅に差し掛かります。江戸時代には、ケヤキ並木周辺は宿場のある甲州街道周辺と比べ人通りが少なかったようですが、明治以降、甲州街道・市中心部・鉄道を結ぶ通りとして発展しました。現在は沿道に商業施設が建ち並び、市の中心地となっています。このため、交通量の増加・市街地化・老木化などによりケヤキ並木の維持が難しくなってきています。地元では、60年近くにわたりケヤキ並木の保全や環境整備を行っています。
写真:大國魂神社
本殿には、中央の中殿に大國魂大神等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11 年(1606)の古図からもそのことが分かります。
現存する大國魂神社本殿は、正保3年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。
寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。
多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。
写真:武蔵国府跡
武蔵国府跡は、奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地です。建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されています。
古代国府に関する文献は少ないため、研究には考古学的手法が欠かせません。府中市では、昭和50年以来、継続的に発掘調査を行ってきました。その成果の一つとして、国衙(国司が政を行った役所)の所在場所の判明がありました。この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われた地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土しています。
また、調査により、国府全体の様子が徐々に明らかになってきています。国衙付近の東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に竪穴建物が密集しており、この範囲に国衙に関連した空間が広がっていたことが推測されます。一部では、東西・南北に直線に延びる道路や道路に沿って建設された建物の遺構などが発見され、一定の都市計画があったことが分かりました。これまでに都から赴任した国司の館跡、役所と推測される建物跡、井戸や鍛冶工房を備えた住居跡などが見つかっています。
また、硯や木簡を削る小刀などの役所で使う文房具を始め、土器や鉄製品などの生活道具、施設の名称や人名の書かれた土器などが出土し、そこに住んでいた人々の様子まで分かるようになったのです。
写真:大國魂神社境内にある摂社
境内にはいくつかこのような摂社があります。
写真:府中高札場
再びパンフレットから引用します。
府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
以前は街道に面して建っていましたが、昭和40年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。
写真:中久本店
武蔵府中の地酒、野口酒造店「国府鶴」がこちらで買えます。
写真:東芝府中事業所
高札場からしばらく、府中街道を北へ向かいます。武蔵野線の線路が見えてくるとその奥は東芝府中事業所。エレベーター研究棟がそびえたっています。
写真:府中刑務所
ずっと壁が続き尋常ではないと思っていたのですが、三億円事件の府中刑務所でした。飛鳥・奈良時代の律令国家からの流れを継いだ現代法治国家日本をある意味象徴する施設ですね。
写真:武蔵国分尼寺跡
武蔵国分尼寺跡、武蔵国分僧寺跡、東山道武蔵路跡の順で巡っているのですが、パンフレットの記述がまとまっているので、まとめて引用します。
国分寺を歩こう
武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇による「国分寺建立詔」により全国に建立されたものです。武蔵国分寺は、出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に創建されたと考えられます。
国分寺は全国60余国に建立されましたが、所在地が不明な国もあり、また、同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明され保存されているのは大変貴重です。国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。
承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。
詔などでは、国分寺は清らかな良い場所を選んで造営するよう定められました。武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。この国分寺にあるような崖線のことを日本の古語で「ハケ」と呼び、大岡昇平『武蔵野夫人』は、この「ハケ」を舞台とした小説です。
武蔵国分寺跡、附東山道武蔵路跡
武蔵国は、はるか奈良の都に東山道とその支路とでつながっていました。東山道は、近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。武蔵国府へは、上野国新田駅(群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。その道上、国府2km手前に、武蔵国分寺(僧寺と尼寺)が作られました。
武蔵国分寺の創建年代について、正確な記録は残っていませんが、出土した文字瓦や漆紙文書などの年代観、瓦型式などから、天平宝字年間に完成したと考えられています(第Ⅰ期)。その発展は、9世紀の七重塔炎上後の再建とそれにあわせた主要建物の改修・整備拡充期(第Ⅱ期)、10~11世紀にかけての制度崩壊やそれに伴う衰退期(第Ⅲ期)と、大きく3期に区分し、捉えることができます。
僧寺は、官道「東山道武蔵路」の東側に建立されました。「中枢部」「伽藍地」「寺院地」の三重の区画から成ります。伽藍配置は、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、塔が回廊外に置かれる東大寺式です。
尼寺は、官道「東山道武蔵路」の西側に建立されました。塔はなく、「中枢部」と「伽藍地」の二重の区画から成ります。中枢部の建物としては、金堂と中門、尼坊を確認しています。
現在、国分寺市は発掘調査の成果をもとに、復元・整備事業を進めています。平成25、26年度には講堂の基壇を復元し、そこに建物の跡を平面表示しました。基壇とは、周囲より一段高く盛られた建物の土台のことですが、側面は瓦で装飾されていたことが分かっています。復元するに当たって、古代の瓦を再現・製作し、部分的に本物の瓦や市民の手作りによる瓦も埋め込みました。今後は、中門、鐘楼、金堂について、復元・整備を進めていく予定です。
国分寺四小入口交差点を北へ渡り、JR西国分寺駅へ向かうと、車道より3倍近い幅を持つ歩道が現れます。これは、幅12mで真っすぐ造られた官道「東山道武蔵路」を復元・表示したものです。古代道路の大きさを体感しながら、歩いてみてください。
写真:武蔵国分僧寺跡
工事がお休みならユンボもどけておいてくれるとよかったのに。
写真:国分寺
写真:おたかの道
写真:真姿の池湧水群
真姿の池湧水群
国分寺崖線下には、湧水点がいくつも見られますが、その一つが、真姿の池とその周辺の「真姿の池湧水群」です。周辺にはケヤキ、スギなどが多く見られ、国分寺崖線の雑木林景観がよく残されています。かつては飲用水としても利用されていました。
「真姿の池」の名はこの地の伝説が由来となっています。嘉祥元年(848)、皮膚の病に苦しむ玉造小町という女性がいました。小町は、国分寺を訪れ、病気平癒を願い参詣しました。お参りを始めて21日目、一人の童子が小町を池に案内し、この水で身を清めるようにと言い残しました。言われたとおりにすると、病は治り、小町は元の美しい姿を取り戻しました。小町の元の姿(真姿)を映したことから、人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。
現在、池には祠があり、弁財天が祀られています。祠の中にはヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されており、病気治癒、安産祈願などのために訪れる人もいます。12年に一度、御本尊の開帳を行っており、平成25年に開帳されました。
真姿の池周辺は、手入れの行き届いた雑木林に囲まれ、市街地の中にありながら美しい景観が好く残っており、環境省の「名水百選」、東京都の「東京の名湧水57選」にも選ばれています。
写真:国分寺史跡めぐり
写真:東山道武蔵路跡
写真:遺構再生展示施設
これまでのウォーキングで江戸時代の痕跡はいくつも見てきました。我が家の前の道は鎌倉時代からあるといわれていますし、区内東山貝塚は縄文時代の遺構です。代官山には古墳時代の円形古墳があります。
しかし飛鳥・奈良時代となると、古墳時代とは違った味わいを感じます。日本の統一を保つため、仏教を基本とした律と令を定め、官営の寺を建立したまさに「日本のあけぼの」を垣間見た気がしました。日本史では縄文時代、弥生時代から邪馬台国建国が「日本のあけぼの」とされていますが、中央集権国家、律令国家の基礎を気づいた飛鳥・奈良時代に初めて「日本」という概念が生まれたように思います。
会員の皆さんと実際にこのコースを歩き、感想を伺うのが楽しみです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
ガイドの仕事をするため日本史を再勉強し、「もう一度読む山川日本史」は興味を持って取り組むことが出来ました。外国人に日本について説明する中で、七世紀から八世紀にかけて、中央集権国家、律令国家になり「天皇」の名称が使われ始めたこと。律令国家となるための仕組みが、六世紀に仏教とともに中国からもたらされたことがこの国のキーポイントであると理解しました。様々異論もあると思いますが、工学士のにわか学問とお聞き流しください。
これまでいくつかの川沿いに歩き、次のターゲットを野川・仙川に狙いをつけて、二子玉川からさかのぼるルートを考えていました。長くサイクリングコース(歩行者も利用可)があり川沿いを歩けるのですが、ちょっと面白みに欠けるなぁ。源流がある日立中央研究所は、年二回公開されているけれどその時は混むだろうし下見が出来ないし。などと考えながらネットで見つけたのが、「東京文化財ウォーク」の「府中・国分寺をあるいてみませんか」というパンフレット。このパンフレットから引用します。
飛鳥・奈良の古代国家は、全国を五畿七道に区分し、60余国を配置しました。武蔵国は、現在の埼玉県、東京都と神奈川県の一部を含む「大国」で、多磨郡、豊島郡、足立郡など21郡からなり、国府は現在の東京都府中市に置かれました。
武蔵国は、当初「東山道」に属し、上野国新田駅付近から分岐した古代官道「東山道武蔵路」が府中の国府へと整備されました。国府の北約2㎞には東山道武蔵路の東西に国分寺僧寺・尼寺が建立されました。国分寺は天平13年(741)の「国分寺造営の詔」により全国に建立された官寺で、武蔵国全域の協力の下に建設された大寺院です。
このように、府中、国分寺周辺は、奈良平安時代の中心地域として多くの遺跡が残っています。
また、この場所は多摩川の府中崖線、国分寺崖線に沿っているため湧水も豊富で、縄文時代や古墳時代などの遺跡も数多くあります。府中国府の西側には全国最大の上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」などの有力古墳も築かれています。
飛鳥・奈良時代の歴史を感じ、野川・仙川源流となるの国分寺崖線を巡るコースを、野川・仙川を歩く前の基調ウォーキングにしたいと思います。
写真:ラグビーのまち府中
写真:馬場大門のケヤキ並木
パンフレットから引用します。
馬場大門のケヤキ並木は、大國魂神社の北に延びる参道に所在し、大國魂神社の大鳥居から約600m 続きます。大正13年(1924)に全国で2番目に指定された由緒ある天然記念物です。指定当時は幹周3m以上の巨木が60本以上も整然と並び、その間にイヌシデ、コナラ、スギなどを交えた壮観な様相を呈していました。
このケヤキ並木は徳川家康が大國魂神社に2条の馬場と並木を寄進したことが始まりといわれ、「馬場」の地名はこの寄進に由来したといわれています。幕末までは馬市も開催されていました。
大鳥居から北に向かってケヤキ並木を歩いていくと、右側の歩道に源義家像が見えてきます。これは、平成4年に建てられたものですが、初めてケヤキが植えられたのは、平安時代に前九年の役の戦勝祈願成就のお礼として源義家が並木を寄進したという伝承に由来しています。
更に歩いていくと、京王線府中駅に差し掛かります。江戸時代には、ケヤキ並木周辺は宿場のある甲州街道周辺と比べ人通りが少なかったようですが、明治以降、甲州街道・市中心部・鉄道を結ぶ通りとして発展しました。現在は沿道に商業施設が建ち並び、市の中心地となっています。このため、交通量の増加・市街地化・老木化などによりケヤキ並木の維持が難しくなってきています。地元では、60年近くにわたりケヤキ並木の保全や環境整備を行っています。
写真:大國魂神社
本殿には、中央の中殿に大國魂大神等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11 年(1606)の古図からもそのことが分かります。
現存する大國魂神社本殿は、正保3年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。
寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。
多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。
写真:武蔵国府跡
武蔵国府跡は、奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地です。建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されています。
古代国府に関する文献は少ないため、研究には考古学的手法が欠かせません。府中市では、昭和50年以来、継続的に発掘調査を行ってきました。その成果の一つとして、国衙(国司が政を行った役所)の所在場所の判明がありました。この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われた地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土しています。
また、調査により、国府全体の様子が徐々に明らかになってきています。国衙付近の東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に竪穴建物が密集しており、この範囲に国衙に関連した空間が広がっていたことが推測されます。一部では、東西・南北に直線に延びる道路や道路に沿って建設された建物の遺構などが発見され、一定の都市計画があったことが分かりました。これまでに都から赴任した国司の館跡、役所と推測される建物跡、井戸や鍛冶工房を備えた住居跡などが見つかっています。
また、硯や木簡を削る小刀などの役所で使う文房具を始め、土器や鉄製品などの生活道具、施設の名称や人名の書かれた土器などが出土し、そこに住んでいた人々の様子まで分かるようになったのです。
写真:大國魂神社境内にある摂社
境内にはいくつかこのような摂社があります。
写真:府中高札場
再びパンフレットから引用します。
府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
以前は街道に面して建っていましたが、昭和40年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。
写真:中久本店
武蔵府中の地酒、野口酒造店「国府鶴」がこちらで買えます。
写真:東芝府中事業所
高札場からしばらく、府中街道を北へ向かいます。武蔵野線の線路が見えてくるとその奥は東芝府中事業所。エレベーター研究棟がそびえたっています。
写真:府中刑務所
ずっと壁が続き尋常ではないと思っていたのですが、三億円事件の府中刑務所でした。飛鳥・奈良時代の律令国家からの流れを継いだ現代法治国家日本をある意味象徴する施設ですね。
写真:武蔵国分尼寺跡
武蔵国分尼寺跡、武蔵国分僧寺跡、東山道武蔵路跡の順で巡っているのですが、パンフレットの記述がまとまっているので、まとめて引用します。
国分寺を歩こう
武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇による「国分寺建立詔」により全国に建立されたものです。武蔵国分寺は、出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に創建されたと考えられます。
国分寺は全国60余国に建立されましたが、所在地が不明な国もあり、また、同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明され保存されているのは大変貴重です。国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。
承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。
詔などでは、国分寺は清らかな良い場所を選んで造営するよう定められました。武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。この国分寺にあるような崖線のことを日本の古語で「ハケ」と呼び、大岡昇平『武蔵野夫人』は、この「ハケ」を舞台とした小説です。
武蔵国分寺跡、附東山道武蔵路跡
武蔵国は、はるか奈良の都に東山道とその支路とでつながっていました。東山道は、近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。武蔵国府へは、上野国新田駅(群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。その道上、国府2km手前に、武蔵国分寺(僧寺と尼寺)が作られました。
武蔵国分寺の創建年代について、正確な記録は残っていませんが、出土した文字瓦や漆紙文書などの年代観、瓦型式などから、天平宝字年間に完成したと考えられています(第Ⅰ期)。その発展は、9世紀の七重塔炎上後の再建とそれにあわせた主要建物の改修・整備拡充期(第Ⅱ期)、10~11世紀にかけての制度崩壊やそれに伴う衰退期(第Ⅲ期)と、大きく3期に区分し、捉えることができます。
僧寺は、官道「東山道武蔵路」の東側に建立されました。「中枢部」「伽藍地」「寺院地」の三重の区画から成ります。伽藍配置は、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、塔が回廊外に置かれる東大寺式です。
尼寺は、官道「東山道武蔵路」の西側に建立されました。塔はなく、「中枢部」と「伽藍地」の二重の区画から成ります。中枢部の建物としては、金堂と中門、尼坊を確認しています。
現在、国分寺市は発掘調査の成果をもとに、復元・整備事業を進めています。平成25、26年度には講堂の基壇を復元し、そこに建物の跡を平面表示しました。基壇とは、周囲より一段高く盛られた建物の土台のことですが、側面は瓦で装飾されていたことが分かっています。復元するに当たって、古代の瓦を再現・製作し、部分的に本物の瓦や市民の手作りによる瓦も埋め込みました。今後は、中門、鐘楼、金堂について、復元・整備を進めていく予定です。
国分寺四小入口交差点を北へ渡り、JR西国分寺駅へ向かうと、車道より3倍近い幅を持つ歩道が現れます。これは、幅12mで真っすぐ造られた官道「東山道武蔵路」を復元・表示したものです。古代道路の大きさを体感しながら、歩いてみてください。
写真:武蔵国分僧寺跡
工事がお休みならユンボもどけておいてくれるとよかったのに。
写真:国分寺
写真:おたかの道
写真:真姿の池湧水群
真姿の池湧水群
国分寺崖線下には、湧水点がいくつも見られますが、その一つが、真姿の池とその周辺の「真姿の池湧水群」です。周辺にはケヤキ、スギなどが多く見られ、国分寺崖線の雑木林景観がよく残されています。かつては飲用水としても利用されていました。
「真姿の池」の名はこの地の伝説が由来となっています。嘉祥元年(848)、皮膚の病に苦しむ玉造小町という女性がいました。小町は、国分寺を訪れ、病気平癒を願い参詣しました。お参りを始めて21日目、一人の童子が小町を池に案内し、この水で身を清めるようにと言い残しました。言われたとおりにすると、病は治り、小町は元の美しい姿を取り戻しました。小町の元の姿(真姿)を映したことから、人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。
現在、池には祠があり、弁財天が祀られています。祠の中にはヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されており、病気治癒、安産祈願などのために訪れる人もいます。12年に一度、御本尊の開帳を行っており、平成25年に開帳されました。
真姿の池周辺は、手入れの行き届いた雑木林に囲まれ、市街地の中にありながら美しい景観が好く残っており、環境省の「名水百選」、東京都の「東京の名湧水57選」にも選ばれています。
写真:国分寺史跡めぐり
写真:東山道武蔵路跡
写真:遺構再生展示施設
これまでのウォーキングで江戸時代の痕跡はいくつも見てきました。我が家の前の道は鎌倉時代からあるといわれていますし、区内東山貝塚は縄文時代の遺構です。代官山には古墳時代の円形古墳があります。
しかし飛鳥・奈良時代となると、古墳時代とは違った味わいを感じます。日本の統一を保つため、仏教を基本とした律と令を定め、官営の寺を建立したまさに「日本のあけぼの」を垣間見た気がしました。日本史では縄文時代、弥生時代から邪馬台国建国が「日本のあけぼの」とされていますが、中央集権国家、律令国家の基礎を気づいた飛鳥・奈良時代に初めて「日本」という概念が生まれたように思います。
会員の皆さんと実際にこのコースを歩き、感想を伺うのが楽しみです。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール