目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】府中、国分寺、律令国家のあけぼのコース

2017-12-31 16:16:41 | ウォーキング
中学校の日本史は、川上大麓先生だったと思います。強烈な印象があるいい先生でしたが、授業内容は頭に残っていません。高校は工学系大学の付属校だったせいか、日本史の授業を受けた記憶がありません。暗記科目である「社会」はとても嫌いでした。
ガイドの仕事をするため日本史を再勉強し、「もう一度読む山川日本史」は興味を持って取り組むことが出来ました。外国人に日本について説明する中で、七世紀から八世紀にかけて、中央集権国家、律令国家になり「天皇」の名称が使われ始めたこと。律令国家となるための仕組みが、六世紀に仏教とともに中国からもたらされたことがこの国のキーポイントであると理解しました。様々異論もあると思いますが、工学士のにわか学問とお聞き流しください。

これまでいくつかの川沿いに歩き、次のターゲットを野川・仙川に狙いをつけて、二子玉川からさかのぼるルートを考えていました。長くサイクリングコース(歩行者も利用可)があり川沿いを歩けるのですが、ちょっと面白みに欠けるなぁ。源流がある日立中央研究所は、年二回公開されているけれどその時は混むだろうし下見が出来ないし。などと考えながらネットで見つけたのが、「東京文化財ウォーク」の「府中・国分寺をあるいてみませんか」というパンフレット。このパンフレットから引用します。
 飛鳥・奈良の古代国家は、全国を五畿七道に区分し、60余国を配置しました。武蔵国は、現在の埼玉県、東京都と神奈川県の一部を含む「大国」で、多磨郡、豊島郡、足立郡など21郡からなり、国府は現在の東京都府中市に置かれました。
 武蔵国は、当初「東山道」に属し、上野国新田駅付近から分岐した古代官道「東山道武蔵路」が府中の国府へと整備されました。国府の北約2㎞には東山道武蔵路の東西に国分寺僧寺・尼寺が建立されました。国分寺は天平13年(741)の「国分寺造営の詔」により全国に建立された官寺で、武蔵国全域の協力の下に建設された大寺院です。
 このように、府中、国分寺周辺は、奈良平安時代の中心地域として多くの遺跡が残っています。
 また、この場所は多摩川の府中崖線、国分寺崖線に沿っているため湧水も豊富で、縄文時代や古墳時代などの遺跡も数多くあります。府中国府の西側には全国最大の上円下方墳である「武蔵府中熊野神社古墳」などの有力古墳も築かれています。

飛鳥・奈良時代の歴史を感じ、野川・仙川源流となるの国分寺崖線を巡るコースを、野川・仙川を歩く前の基調ウォーキングにしたいと思います。


写真:ラグビーのまち府中



写真:馬場大門のケヤキ並木
パンフレットから引用します。
 馬場大門のケヤキ並木は、大國魂神社の北に延びる参道に所在し、大國魂神社の大鳥居から約600m 続きます。大正13年(1924)に全国で2番目に指定された由緒ある天然記念物です。指定当時は幹周3m以上の巨木が60本以上も整然と並び、その間にイヌシデ、コナラ、スギなどを交えた壮観な様相を呈していました。
 このケヤキ並木は徳川家康が大國魂神社に2条の馬場と並木を寄進したことが始まりといわれ、「馬場」の地名はこの寄進に由来したといわれています。幕末までは馬市も開催されていました。
 大鳥居から北に向かってケヤキ並木を歩いていくと、右側の歩道に源義家像が見えてきます。これは、平成4年に建てられたものですが、初めてケヤキが植えられたのは、平安時代に前九年の役の戦勝祈願成就のお礼として源義家が並木を寄進したという伝承に由来しています。
 更に歩いていくと、京王線府中駅に差し掛かります。江戸時代には、ケヤキ並木周辺は宿場のある甲州街道周辺と比べ人通りが少なかったようですが、明治以降、甲州街道・市中心部・鉄道を結ぶ通りとして発展しました。現在は沿道に商業施設が建ち並び、市の中心地となっています。このため、交通量の増加・市街地化・老木化などによりケヤキ並木の維持が難しくなってきています。地元では、60年近くにわたりケヤキ並木の保全や環境整備を行っています。









写真:大國魂神社
 本殿には、中央の中殿に大國魂大神等が、東殿・西殿にそれぞれ3柱ずつが祀られています。古くは、それぞれ独立した社殿が3棟建っていたようで、慶長11 年(1606)の古図からもそのことが分かります。
 現存する大國魂神社本殿は、正保3年(1646)の火事により社殿等をほとんど失った後、徳川4代将軍家綱の再建の命により、寛文7年(1667)に完成したものです。三間社流造の社殿3棟分を隙間なく横に連結した九間社流造という特異かつ希少な形式で、1棟ごとに3社を合わせ祭る相殿造となっています。桁行は約14mあり、棟高も約9mと高く、玉垣で囲まれた本殿は朱漆塗りで、玉垣内に敷き詰められた白玉石に映えます。屋根はもとは檜皮葺でしたが、幕末に銅板葺に変更されています。
 寛文7年の棟札と祈祷札も現存し、祈祷札には家綱の名も記されています。
 多摩地域における公儀普請の作例としても貴重です。



写真:武蔵国府跡
 武蔵国府跡は、奈良平安時代の武蔵国府の中心地にあたる国衙の跡地です。建物跡の一部が復元され、見学施設として開放されています。
 古代国府に関する文献は少ないため、研究には考古学的手法が欠かせません。府中市では、昭和50年以来、継続的に発掘調査を行ってきました。その成果の一つとして、国衙(国司が政を行った役所)の所在場所の判明がありました。この武蔵国府跡を中心に、南北約300m、東西約200mの大規模な区画溝に囲われた地域には、整然と並んだ大型の建物群の跡が発見され、瓦などの特徴的な遺物が出土しています。
 また、調査により、国府全体の様子が徐々に明らかになってきています。国衙付近の東西約2.2㎞、南北約1.8㎞の範囲に竪穴建物が密集しており、この範囲に国衙に関連した空間が広がっていたことが推測されます。一部では、東西・南北に直線に延びる道路や道路に沿って建設された建物の遺構などが発見され、一定の都市計画があったことが分かりました。これまでに都から赴任した国司の館跡、役所と推測される建物跡、井戸や鍛冶工房を備えた住居跡などが見つかっています。
 また、硯や木簡を削る小刀などの役所で使う文房具を始め、土器や鉄製品などの生活道具、施設の名称や人名の書かれた土器などが出土し、そこに住んでいた人々の様子まで分かるようになったのです。




写真:大國魂神社境内にある摂社
境内にはいくつかこのような摂社があります。



写真:府中高札場
再びパンフレットから引用します。
 府中高札場は、旧甲州街道と府中街道の交差するかつての府中宿の中心地に位置します。高札場とは、江戸時代に幕府の政策や禁止令などを墨で書いた板の札(高札)を掲示する施設です。村や宿場などの中心地に設けられ、幕府の威光を示す重要な役割を果たしていました。
 府中高札場は往来の多い宿場にあったため、他の村よりも多くの高札が掲げられました。天保9年(1838)には10 枚の札が掲げられたことが記録に残っています。その内容は、親兄弟仲良く暮らすように、といった生活態度のことや、宿場駄賃などの生活に密着した内容、切支丹禁止や鉄砲禁止といった幕府の基本政策など内容は多岐にわたっていました。
 以前は街道に面して建っていましたが、昭和40年(1965)、自動車事故があったため、交通事情に配慮し、交差点に対して斜めに付け替えられました。現在では、当時の姿をとどめる高札場は少なく、この高札場は非常に貴重です。



写真:中久本店
武蔵府中の地酒、野口酒造店「国府鶴」がこちらで買えます。


写真:東芝府中事業所
高札場からしばらく、府中街道を北へ向かいます。武蔵野線の線路が見えてくるとその奥は東芝府中事業所。エレベーター研究棟がそびえたっています。


写真:府中刑務所
ずっと壁が続き尋常ではないと思っていたのですが、三億円事件の府中刑務所でした。飛鳥・奈良時代の律令国家からの流れを継いだ現代法治国家日本をある意味象徴する施設ですね。






写真:武蔵国分尼寺跡
武蔵国分尼寺跡、武蔵国分僧寺跡、東山道武蔵路跡の順で巡っているのですが、パンフレットの記述がまとまっているので、まとめて引用します。
国分寺を歩こう
 武蔵国分寺は、府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に「僧寺」と「尼寺」が建立されました。国分寺は、天平13年(741)、聖武天皇による「国分寺建立詔」により全国に建立されたものです。武蔵国分寺は、出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に創建されたと考えられます。
 国分寺は全国60余国に建立されましたが、所在地が不明な国もあり、また、同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明され保存されているのは大変貴重です。国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったと思われます。
 承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記されていますが、10世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していきます。新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられています。
 詔などでは、国分寺は清らかな良い場所を選んで造営するよう定められました。武蔵国分寺の地は、現在も国分寺が法燈を受け継いでいるとともに、国分寺崖線の湧水や緑に恵まれた良好な地であることも重要です。この国分寺にあるような崖線のことを日本の古語で「ハケ」と呼び、大岡昇平『武蔵野夫人』は、この「ハケ」を舞台とした小説です。


武蔵国分寺跡、附東山道武蔵路跡
 武蔵国は、はるか奈良の都に東山道とその支路とでつながっていました。東山道は、近江、美濃、信濃、上野などの国を通り、出羽、陸奥へ至ります。武蔵国府へは、上野国新田駅(群馬県太田市)付近で分岐し、そこから南下します。その道上、国府2km手前に、武蔵国分寺(僧寺と尼寺)が作られました。
 武蔵国分寺の創建年代について、正確な記録は残っていませんが、出土した文字瓦や漆紙文書などの年代観、瓦型式などから、天平宝字年間に完成したと考えられています(第Ⅰ期)。その発展は、9世紀の七重塔炎上後の再建とそれにあわせた主要建物の改修・整備拡充期(第Ⅱ期)、10~11世紀にかけての制度崩壊やそれに伴う衰退期(第Ⅲ期)と、大きく3期に区分し、捉えることができます。
 僧寺は、官道「東山道武蔵路」の東側に建立されました。「中枢部」「伽藍地」「寺院地」の三重の区画から成ります。伽藍配置は、南門、中門、金堂、講堂が一直線に並び、塔が回廊外に置かれる東大寺式です。
 尼寺は、官道「東山道武蔵路」の西側に建立されました。塔はなく、「中枢部」と「伽藍地」の二重の区画から成ります。中枢部の建物としては、金堂と中門、尼坊を確認しています。
 現在、国分寺市は発掘調査の成果をもとに、復元・整備事業を進めています。平成25、26年度には講堂の基壇を復元し、そこに建物の跡を平面表示しました。基壇とは、周囲より一段高く盛られた建物の土台のことですが、側面は瓦で装飾されていたことが分かっています。復元するに当たって、古代の瓦を再現・製作し、部分的に本物の瓦や市民の手作りによる瓦も埋め込みました。今後は、中門、鐘楼、金堂について、復元・整備を進めていく予定です。
 国分寺四小入口交差点を北へ渡り、JR西国分寺駅へ向かうと、車道より3倍近い幅を持つ歩道が現れます。これは、幅12mで真っすぐ造られた官道「東山道武蔵路」を復元・表示したものです。古代道路の大きさを体感しながら、歩いてみてください。








写真:武蔵国分僧寺跡
工事がお休みならユンボもどけておいてくれるとよかったのに。





写真:国分寺



写真:おたかの道



写真:真姿の池湧水群
真姿の池湧水群
 国分寺崖線下には、湧水点がいくつも見られますが、その一つが、真姿の池とその周辺の「真姿の池湧水群」です。周辺にはケヤキ、スギなどが多く見られ、国分寺崖線の雑木林景観がよく残されています。かつては飲用水としても利用されていました。
 「真姿の池」の名はこの地の伝説が由来となっています。嘉祥元年(848)、皮膚の病に苦しむ玉造小町という女性がいました。小町は、国分寺を訪れ、病気平癒を願い参詣しました。お参りを始めて21日目、一人の童子が小町を池に案内し、この水で身を清めるようにと言い残しました。言われたとおりにすると、病は治り、小町は元の美しい姿を取り戻しました。小町の元の姿(真姿)を映したことから、人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになりました。
 現在、池には祠があり、弁財天が祀られています。祠の中にはヘビが描かれた絵馬がたくさん奉納されており、病気治癒、安産祈願などのために訪れる人もいます。12年に一度、御本尊の開帳を行っており、平成25年に開帳されました。
 真姿の池周辺は、手入れの行き届いた雑木林に囲まれ、市街地の中にありながら美しい景観が好く残っており、環境省の「名水百選」、東京都の「東京の名湧水57選」にも選ばれています。



写真:国分寺史跡めぐり

写真:東山道武蔵路跡


写真:遺構再生展示施設
これまでのウォーキングで江戸時代の痕跡はいくつも見てきました。我が家の前の道は鎌倉時代からあるといわれていますし、区内東山貝塚は縄文時代の遺構です。代官山には古墳時代の円形古墳があります。
しかし飛鳥・奈良時代となると、古墳時代とは違った味わいを感じます。日本の統一を保つため、仏教を基本とした律と令を定め、官営の寺を建立したまさに「日本のあけぼの」を垣間見た気がしました。日本史では縄文時代、弥生時代から邪馬台国建国が「日本のあけぼの」とされていますが、中央集権国家、律令国家の基礎を気づいた飛鳥・奈良時代に初めて「日本」という概念が生まれたように思います。

会員の皆さんと実際にこのコースを歩き、感想を伺うのが楽しみです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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明治神宮新宿都庁コース 5.4km

2017-12-28 10:48:47 | ウォーキング
年内最後のウォーキングを迎えました。この日のコースは駒場東大前駅に集合して、都庁を目指します。曇りという予報に反して午後から晴れ間が広がってきました。



写真:東大正門前のバラ園
駅に集合し、東京大学教養学部正門の前をお借りしてストレッチをします。バラ園ではまだきれいに咲いているバラがありました。



写真:一号館
旧制一高の本館で、現在は都の重要文化財に指定されています。正面の時計はいつも写真に撮っているのですが、側面にも時計があったのですね。確認していませんが、四面に時計があるのだと思います。


写真:いちょう並木
ひと月前は真っ黄色だった並木も、すっかり葉を落としました。


写真:首都高の排気口

写真:ゴールドウィンの本社
首都高中高環状線山手トンネル(全長18,200m)は日本で一番長い道路トンネルで、ノルウェーのラルダールトンネル(全長24,510m)に次いで世界で二番目に長い道路トンネルです。トンネル内の排気ガスを含んだ空気は、フィルターで浄化され排出されるため、大気汚染の心配はないようです。建設が始まる前は「大原交差点並みに大気汚染がひどくなる」と言われていましたが、フェイクニュースでしたね。ゴールドウィンの本社は山手通り沿い、渋谷区松濤にあります。


写真:鍋島松濤公園

写真:NHK放送センター

写真:建設工事中の渋谷区役所・公会堂

写真:どーもくん

写真:青の洞窟イルミネーション会場
松濤の街を抜けて井の頭通りに出ると、放送センターがあり、坂の途中には二・二六事件慰霊碑があります。この場所には帝国陸軍の刑務所があり北一輝等が銃殺刑になった場所です。跡地には渋谷区役所が建ち、現在渋谷公会堂とともに建替え中です。


写真:代々木第一体育館


写真:ハナミズキ
代々木第一体育館をWikipediaから引用してみましょう。
1964年(昭和39年)の東京オリンピックの開催に備えて建設された国立代々木競技場は、同大会のサブ会場として使用されたもので、メインアリーナとなる第一体育館(本館、または「代々木オリンピックプール」ともいう)では競泳競技が、第二体育館(別館)ではバスケットボール競技が開かれた。
ハナミズキの碑では撮っているときには気が付かないのですが、撮影している自分の姿が丸々映っていました。


写真:代々木第二体育館とNHK

写真:代々木競技場の石畳
この石畳はオリンピックを機に大量に廃線になった都電の敷石を再利用したものです。調べていると面白い記述が“http://joun.blog.so-net.ne.jp/2010-08-10”にあったので、そちらも引用してみましょう。
さて国立代々木競技場はランドマークとしてどのような意味を持っているのでしょうか。
実は 第一体育館と第二体育館の間にある石畳の歩道は東西の軸線になっていて かつ第一体育館の中央でその東西の軸線に直行する軸線が明治神宮の本殿にむかうように第一体育館が建てられています。
つまり第一体育館の二本の支柱は言ってみれば鳥居なのであってオリンピックでの日本人の活躍もそのおかげだったのかもしれません。
まあ見方によっては東京オリンピックも明治神宮拝殿前で行われる土俵入りと同じように奉納の意味もあったのかもしれません。

面白い見方ですね。


写真:南参道

写真:一の鳥居

写真:酒樽

写真:ブルゴーニュワイン
明治神宮南参道、北参道には左右に石畳の通路が出来てバリアフリーになりました。車いすやバギーの通行のために作られたものと思いますが、歩きやすいため多くの人が石畳の上を歩いています。玉砂利の上を歩くことは心身の汚れを落とすといわれているので、参拝者は本来玉砂利の上を歩くべきなのです。酒樽は201個あり、四斗樽なので一つに72リットルの酒が入り、合計14,472リットル3,819ガロンとなります。一生かかっても飲みきれませんね。


写真:謹賀新年

写真:大鳥居

写真:三の鳥居
初詣の準備が進むこの時期、10年前には閑散としていたのですが、海外からの観光客が増えた最近はいつも混みあっています。鳥居は神聖な境内と穢れた下界を分ける門でそこを通るものを清めるといわれているので、参拝時は鳥居の下を通らなくてはなりません。神様にお参りするときには禊が必要ですが、現在では手水舎で簡易的に禊をするだけになっています。




写真:百周年へ向けたリニューアル

写真:菊の御紋
2020年に百周年を迎えるため、様々なリニューアルが行われており、拝殿前で緑青に覆われた銅板屋根が見られるのはあとわずか。大正時代に建立された明治神宮は百年で大正、昭和、平成と来年発表される新たな元号を迎えることになります。


写真:渋谷区立ポニー公園

写真:東京乗馬クラブ

写真:参宮橋

写真:西参道の灯篭
拝殿から西参道をとおり参宮橋口で明治神宮を出て、甲州街道方面へ。玉川上水を横切った先に灯篭があるのですが、表参道のものと比べるとかなり小さいような気がします。現在の参宮橋は跨線橋ですが、かつては河骨川に架かる橋を渡り、明治神宮にお参りに行きました。



写真:東京都庁舎
都庁についたのが三時過ぎで、まぶしい斜めの光線を浴びながらストレッチをして解散しました。


写真:建設中の国立競技場

写真:明治神宮・代々木公園
その後ほとんどの皆さんが展望南デッキへ。霞がかったようで富士山は見えませんでしたが、国立競技場ではクレーンが林立しているのが確認できます。


写真:二階の熊手

写真:都議会議事堂

写真:都庁舎
展望デッキからエレベーターで降りたのは二階で、一階まではエスカレータを利用します。その後有志は天狗で納会。混雑を避けて「旬鮮酒場 天狗 新宿南口店」ではなく、「テング酒場 新宿郵便局前店」へ行きました。駅から少し離れた週末の店は、それほど混んでいなかったので、落ち着いた納会となりました。

一年間ご愛読ありがとうございました。よい新年をお迎えください。


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湘南二宮早咲き菜の花コース 約7.8Km

2017-12-17 15:53:54 | ウォーキング
人気のコースだったのですが、最後の吾妻山(136m)に登るのがつらくなってきたという声がだんだん多くなってきました。今年は10名の参加がありましたが、最近20名を超えることが多いので少なく感じます。年末で忙しいのか、山登りがつらいのかよくわかりませんが、今年が最後かなぁ。


写真:JR二宮駅

写真:吾妻山公園

写真:ガラスのウサギ像

写真:東海道
中目黒→東横線→横浜→東海道線→二宮と乗り継いで1時間20分で到着です。途中東海道線からは傘雲がかかった富士山がうっすらと見えていました。二宮駅前の東海道は箱根駅伝の走路で、「今二宮駅前を通過しました」と一言ふれられる程度です。


写真:旧東海道

写真:梅沢海岸へ下りる階段
国道の一本南側の通りが旧東海道で、その先は崖になって、がけ下に砂浜が広がります。国道も旧東海道も高さは同じで、20mあるということは、津波の心配はないと考えていいのでしょう。旧東海道は梅沢川を越えるため少し山側に振れて、国道の北側を通るのですが、我々は梅沢川の手前から梅沢海岸に出てストレッチです。


写真:波打ち際



写真:一里塚
砂や砂利の上は思った以上に歩きづらく、最近は東海道線沿いの細い道を通ることが多かったのですが、この日はリクエストがあり海岸を歩きました。風もなく快晴で、上着を脱いでも汗をかいてしまうくらいポカポカでした。茶屋町付近で海岸から階段を上り一里塚へ。箱根駅伝ではこの一里塚のあたりでタイム計測をしています。日本橋から十八里ということなので64kmです。一里は半時(一時間)で歩けるくらいの距離ということのようですね。江戸寄りの宿場は大磯、京都よりの宿場は小田原と、この宿場間が広かったので中間の押切坂上に茶屋を設けて一休みしたということです。西に中村川が流れ低くなっているので、江戸時代の人は富士山を眺めながらここで一服したのでしょう。


写真:玉ねぎ

写真:水菜

写真:白菜

写真:キャベツ
一号線沿いに畑は見られませんが、少し入ると梅林や畑が見られます。玉ねぎについて、二宮町観光ナビから引用します。
二宮で採れた玉ねぎは、その生育にマッチした気候風土の恵みを受けて、やわらかくて甘いので生食用にも適しています。出荷は4月中旬から2月中旬までです。また旧神奈川県園芸試験場(二宮)が昭和36年に育成した神奈川生まれの赤い玉ねぎ、「湘南レッド」(出荷6~8月)の品種があります。普通の玉ねぎに比べて、辛味や刺激臭が少なく、強い甘みが特徴で、シャキシャキした食感が歯切れ良く、水分に富んでいるため生で食べるのに適しています。


写真:川匂神社参道の小さなお社
小さなお社に柚子がベストマッチです。



写真:川匂神社

写真:伊藤博文揮毫の扁額
この扁額は以前は境内のわかりにくいところに置かれていたのですが、門前に置かれ由来の説明が加えられました。
川匂神社についてWikipediaから引用してみましょう。
川勾神社(かわわじんじゃ)は、神奈川県中郡二宮町山西に鎮座する神社。
『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、同国二宮ともされる。「二宮町」の名は二宮である当社にちなみ、古くより「二宮大明神」、「二宮明神社」とも称される。
当社は旧相模国の伝統的な祭事である国府祭(こうのまち)で知られ、祭の中心的な儀式「座問答」は相武(さがむ)と磯長(しなが、「師長」とも表記する)をあわせて相模国となったときに、寒川神社と当社のいずれを相模国一宮とするかで争った故事によるものとされる。







写真:川匂神社山門
豆友は落花生屋さんで江川酒店は一、二度寄ったことがあるインターチェンジからの通り道にある酒屋さん。知った名前があったので写真に撮ってみました。
落花生について二宮町観光ナビから引用します。
二宮町等を含む旧中郡一帯は、海岸沿いの砂混じりの土壌と、火山灰が蓄積した土壌で水はけが良く通気性がいい事から落花生の栽培に適している為、古くから落花生の産地として知られ、「相州落花生」として県の「新かながわの名産100選」に選ばれています。明治6年に二見庄兵衛(吾妻村字釜町、現在の二宮町)氏が横浜から種子を取り寄せて栽培して、8年頃には近所の知人にも分けて広く培養しました。これが今の二宮の落花生で、「相州落花生」の元祖とも言われています。二宮町には落花生を加工製造している専門店があり、各店舗でそれぞれのこだわりと個性があるのが特徴です。
もうひとつ、JA湘南から引用します。
日本の落花生の栽培は、明治4年管内大磯町の渡辺氏が横浜の南京町より種を持ち帰り栽培したのが始まりと言われ、二宮、大磯、土沢地区を中心に相州落花生の地位を築いてきました。しかし、輸入落花生が増え管内の作付面積は減少しています。
最近では、水田農業確立対策の転作作物として、岡崎地区を中心に、加工用でなく未熟果をお湯で沸騰し、塩を入れた「ゆで落花生」として、枝豆の出荷の終わる8月中旬頃よりビールのつまみや、おやつとして出荷され好評を得ています。




写真:初詣の準備中
三が日には多くの参拝者が訪れ、山門の外まで列を作っていることもあります。


写真:イロハカエデ

写真:富士山

写真:みかん

写真:ヘクソカズラの実
参拝を終えると神社の裏にあるみかん山へ向かいます。富士山は両肩見えているものの、頂上部は雲に覆われていて残念です。私はヘクソカズラの実をずっとむかごと勘違いしていました。蜜柑について二宮町観光ナビから引用します。
湘南みかんは、豊かな相模湾と温暖な気候の恵みにより育まれ、酸味が強めで、甘みとのバランスが良く、懐かしい味の濃いみかんです。二宮では「大津」「青島」などの品種を中心に栽培しています。春には白い可憐なみかんの花が咲き、甘い香りを畑いっぱいに漂わせ歩く人を楽しませています。出荷時期は、9月下旬より2月頃までです。「みかんの木オーナー制度(7~8月受付)」や「みかん狩り(11月中旬~12月中旬)」も大変好評です。


写真:新幹線

写真:釜野横穴古墳群のある谷
二宮を通過する新幹線はトンネル部分が多いようで、写真に撮ったこの場所は借宿トンネルと開戸トンネルのあいだです。釜野横穴古墳群は以前探してみて見つからなかったのですが、場所が違っていたのかもしれません。近いうちに探してみたいと思います。


写真:ボケの花

写真:釜野トンネル

写真:吾妻山公園釜野口
吾妻山公園に向かう登山路としては、中里口に次いで楽だと考えられている釜野口ですが、この道のりがつらくなってきた人が多くなってきました。二宮に来て吾妻山公園に登らないのは芸がないので、このコースもそろそろ封印かなぁ。







写真:吾妻山山頂
待ちに待ったお弁当タイムですが、曇ってきて風も強く寒くなり、手袋をしたままおにぎりを食べました。富士山の頂上は雲に覆われ、早咲きの菜の花もあまり咲いていなかったけれど、136mの山頂は達成感がありました。2018年の二宮菜の花ウォッチングは1月6日から。これが始まるとNHKで早咲きの菜の花として紹介され、観光用のお店も開設されます。ただし週末は人出が多すぎるかもしれません。


写真:吾妻神社
神社について町のホームページから引用します。
吾妻山の展望台の下にある吾妻神社には、こんないわれがあります。
日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征の時、三浦半島の走水から海路、 上総へ渡ろうとすると、突如として暴風が起こり、船もろとも海中に沈む かと思われました。その時妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)は 夫に代わって海の神の怒りを鎮め、夫の武運を祈るため海に身を投じると たちまち海は静まりました。
その後、海辺に流れ着いた櫛を吾妻山山頂に埋め、ありし日の命を偲び ました。その場所が吾妻神社だと伝えられています



写真:ふもとの菜の花
梅沢口を下り、神明社の前でストレッチをして二宮駅へ向かいました。運悪く京浜東北線の架線事故の影響を受け、往路の倍の三時間もかけて中目黒へ戻ってきました。トラブルもありましたが、二宮ウォーキングはいいコースだなぁと思います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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すこやか歩こう会活動スケジュール
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ノルディックウォーキング講習会

2017-12-12 14:08:47 | ウォーキング
12月10日(日)、碑文谷体育館屋外ウォーキングコースにて、ノルディックウォーキングの講習会を行いました。初回ということで対象は、目黒ウォーキング協会でウォーキング塾やお鷹狩りのお手伝いをしていただいている「実行委員」に限定しました。
目黒区の主催で毎年6月頃に行われる「めぐろウォーキング塾」では、以前からノルディックウォーキングの講習を行っていたのですが、サポートに当たる実行委員が体験する機会が無かったので、今回初めて行いました。


写真:講師の長谷川佳文さん
日本ノルディックウォーキング協会副理事の長谷川佳文さんは、目黒ウォーキング協会設立メンバーで、協会事業のけん引役でもあります。地域の方には碑文谷体育館館長としておなじみかもしれません。




写真:講習会の様子
ポールを使ったストレッチに始まり、歩き方の講習を受け、実際にウォーキングコースを歩いてみます。LEKI社のポールを使用した「アグレッシブタイプ」と定義されるノルディックウォーキングは、ウォーキングと比べて30~40%運動量が上がり、全身の筋肉の90%を使用します。
始めはがちがちでロボットのような動きをしていた参加者の皆さんも、一時間半の講習の後はそれぞれコツをつかみスムーズな動きに変わっていました。膝が痛い、腕が上がらない、腰痛がある方にもお勧めで、長谷川さんはポールを使用して歩くときの脳の動きに着目して、さらなる研究を進めておられるそうです。

ノルディックウォーキングに興味を持たれた方は、碑文谷体育館に問い合わせをしてみてください。
目黒区立碑文谷体育館
所在地:〒152-0003目黒区碑文谷六丁目12番43号
最寄り駅:東急東横線 学芸大学駅から徒歩5分
電話番号:03-3760-1941
http://www.city.meguro.tokyo.jp/shisetsu/shisetsu/sports_shisetsu/himonya_gym/


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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運河・高輪ガード・泉岳寺コース 約7.5Km

2017-12-11 13:57:50 | ウォーキング
山手線の最長駅間である田町・品川間に新駅(仮称「品町」タモリ倶楽部命名)が開業するための再開発で「高輪橋架道橋」(通称高輪ガード)が廃止されるかもしれないというニュースを見た我がクラブの会長が「面白そうだから行ってみたい」と言うので、設定したコースです。


写真:恵比寿駅西口恵比寿像
田町駅から歩き始めるので、集合は恵比寿駅にしました。



写真:新芝運河
田町駅の芝浦口を出て、広場でストレッチの後新芝運河沿いの遊歩道を歩きます。自転車の通行が規制されており、歩行者にはとても歩きやすい場所でした。


写真:高浜公園
遊歩道の南端に高浜公園があります。野良猫が多く写真を撮る人やらエサをやる人やら。恰幅の良い猫が日向ぼっこをしており、人が近づいても逃げません。


写真:高輪ガード東端

写真:高輪ガード西端
いよいよ主目的地の一つ高輪ガード。桁下1.5mのためかがまないと頭をぶつけます。本来自転車は押して通行しなくてはならないのですが、乗ったままの方が頭が低くなり通行しやすいようで、ほとんどの人が自転車に乗ったまま通行してゆき、ウォーキングに適したルートとはいえません。
高輪ガードについてWikipediaから引用してみましょう。「田町車両センター」に記述があります。
敷地内の芝浦四丁目と港南一丁目の境界を区道(東行き一方通行)が通っている。これをまたぐガードの高輪橋架道橋(たかなわきょうかどうきょう)は高さ制限が1.5mという極端な低さである。また、ガードから本センターに通じる通路が2カ所あるが、西側の1カ所は鉄板でふさがれており警告板のみ残っている。東側は「閉鎖 品川運転所長」の札がぶら下がっているのみで原形をとどめている。東京無線など都内を走るタクシーには、天井の社名灯が通行の支障となるため、社名灯の頂上部を数cm削ったいわゆる「高輪橋架道橋特別仕様」が存在する。 また、車高の高い自動車がカーナビでこちらに誘導されたり、また、自車の車高を把握してない一般ドライバーが誤って進入したために自車の屋根を損傷させたり、そこまで至らぬもののガード直前で通れないとわかってバックで戻ったりする光景が時々見られる。
元々この道路は運河へと続く水路だったが、大正時代にこれを埋め立てて道路が作られた。その際、当時の日本人男性の平均身長が165cm程度だったため、高さをそれに合わせ、現代人から見れば低く見える架道橋ができたとされる。






写真:泉岳寺


写真:赤穂浪士墓所
12月14までの最後の土曜日ということがあり、多くの参拝客が訪れていました。浅野内匠頭の墓所は参拝客の線香の煙で煙幕を張ったようです。



写真:高輪大木戸跡
品川駅以西は第一京浜と並行して旧東海道が残っていますが、高輪のあたりは東海道が第一京浜になっているのでしょう。鉄道をひく際に用地が無くて海の上に盛り土をして通したくらいですから、国道を整備する際にも苦労したのでしょう。大木戸跡だけでも残っていてありがたいですね。
高輪大木戸跡
 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門にたてられてのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛政4年(1729)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保2年(1831)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
 京上り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
 平成5年(1993)3月31日 建設
 東京都教育委員会

この通りは第一京浜で国道15号です。第二京浜は国道1号ですが、第二京浜が出来る前は第一京浜が国道一号で、それが国道15号に変更されたのは戦後のことのようです。第一京浜と第二京浜のあいだにある聖坂や伊皿子を通る道が古代中世の通行路で、古奥州街道と呼ばれる最も古い道です。


写真:高輪ガード西端

写真:高輪ガードの中

写真:港南一丁目
再び高浜公園へ戻り、運河沿いの遊歩道を歩きます。高架橋を走っている新幹線は、大井車両基地へ向かっています。


写真:高浜運河遊歩道入り口




写真:高浜運河
今度は先ほどより幅の広い高浜運河です。ここも時々ランナーとすれ違うくらいで、ウォーキングには最適です。鴨、キンクロハジロ、鵜、カモメ、鷺などを見ることが出来、ときどき跳ねている魚はボラでしょうか?


写真:ツワブキ

写真:目黒川水門
天王洲運河を天王洲橋で渡るとたくさんのツワブキが迎えてくれました。ここから先は京浜運河。目黒川水門はかつての目黒川の河口に当たる場所でしょうか?目黒川河口には砂州が広がっていたようです。


写真:品川橋

写真:鎮守橋

写真:荏原神社の恵比寿様

写真:荏原橋
品川橋は宿場としての品川の中心地です。浮浪雲が活躍していた場所ですね。荏原神社へ向かう赤い橋が鎮守橋。荏原神社の恵比寿様は糸のついた釣竿を持っており、糸の先は鯛の口につながっています。江戸時代この辺りは目黒区も含めて武蔵国荏原郡でした。荏原は荏胡麻の畑の呼び名で、古来から食料や油の原料とした荏胡麻が栽培されていたのでしょう。目黒川も汽水となっているし、真水のないこの辺りは水田には適さなかったのでしょう。


写真:居木橋から見た目黒川
この日のゴールは大崎駅で、この先の児童公園で場所をお借りしてストレッチをしました。


写真:バカラシャンデリア

写真:グラススクエアのしげぞう
この日すこやか歩こう会は忘年会で、恵比寿ガーデンプレイス内グラススクエアにある「炉端酒場 しげぞう」で大いに盛り上がりました。恵比寿駅西口の恵比寿像に始まり、荏原神社の恵比寿像で締めて、恵比寿ガーデンプレイスで一年の締めくくり。来年の豊漁は間違いなしですね。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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