以下は前章の続きである。
*タイトル以外の黒字強調は私。
彼らが密入国で日本に戻ってきたのは、1946年3月、GHQが「本国に引き揚げた非日本人は最高司令官の許可がない限り商業交通が可能となる時期まで日本に引き返すことは出来ない」という覚書を発したためである。
日本からの帰国者数は、1945年8月から覚書が出されるまで94万438人を数える。
このうち自主的に帰国した人数は約50万人と推定されている。
この覚書の発行後、密入国への取り締まりも強化される一方、GHQは1946年末まで日本政府に命じて計画的送還を続けさせた。
その結果、1946年末迄に約152万3338人が帰国する。
昭和13(1938)年に79万9878人だった在日朝鮮人数は、大東亜戦争勃発直前の1940年には124万1315人に達していた。
そして、帝国敗戦直前の1944年末には193万6843人に達した。
この統計が約200万人の在日朝鮮人という根拠となっている。
敗戦の年、1945年になると米潜水艦の航行妨害で、玄界灘を渡って来ることが難しくなっていた。
この193万6千人余から、1945年8月~46年末までに引き揚げた人数を引くと41万3505人となる。
一方、1947年10月の国勢調査では、在日朝鮮人数は50万8905人であった。
この差の約10万人が密入国者だと推定される、朝鮮戦争勃発直前の1950年3月の登録者数は、53万5236人とさらに増加している。
当時は、密入国者の登録できる手段が構築されていた。
登録が厳しくなるのは、1952年の日本の独立後であった。
戦後10年間の朝鮮人の「犯罪」
朝鮮人の男子の密入国者が犯罪を多くしたと指摘していたのは警察庁である。
今では見かけることはないが、敗戦後の10年間はこの列島内(沖縄県を除く)での外国人犯罪の発生件数が記録されていた。
警察庁刑事部の『犯罪統計書』などによると、在日朝鮮人は毎年2万人以上が摘発され、朝鮮戦争が起きた昭和25(1950)年が最多で2万9440人。受刑者数は6026人だった。
ちなみにこの年の中国人犯罪者数は370人であった。
これを居住人口1000人当たり犯罪者率でみると、朝鮮人は4.55、中国人は0.8人となる。
敗戦で荒んだ日本人の場合は0.59だったから、朝鮮人の起こす犯罪が如何に多かったが分かる。
この異常に高い犯罪発生率に関して、警察庁は、朝鮮人の犯罪者率を見る場合には、基礎人口が外国人登録法により登録された人数だから高くなると指摘している。
在日朝鮮人の場合、外国人登録をしていない、未登録者による犯罪が多いことを理由としていた。
未登録者とは、密入国者を指した。
この稿続く。