以下はウィキペディアからである。
私と同様に、日本人の大半は、この女性の名前を初めて知るはずだ。
こういう本当に一部の人間達が、日本を貶め、蔑み、辱め、国際社会において、日本と日本国民の名誉と信用を甚だしく傷つけて来た事以上に、言語道断なことはないだろう。
私が全ては一人から始まると書いて登場した事はご存知のとおりだが、私は、こんな悪辣、こんな幼稚さについて言及したのでは全くない事は言うまでもない。
西野 瑠美子(にしの るみこ、1952年 - )は、日本のルポライター、ジャーナリスト。
来歴
長野県生まれ。信州大学教育学部卒。東京都で小学校教諭を13年間務めた後、ルポライターに転じ、従軍慰安婦などをテーマに執筆活動をおこなっている。
経歴
VAWW-NETジャパン共同代表、
女たちの戦争と平和資料館館長
「平和の灯を!ヤスクニの闇へ キャンドル行動」の共同代表
日本の戦争責任資料センター幹事・研究員
戦争被害調査会法を実現する市民会議共同代表(もう一人の共同代表は西川重則)
中国人「慰安婦」裁判を支援する会共同代表などを務めている。
人物・活動
慰安婦問題への取り組み
2000年5月29日、西野は松井やよりらVAWW-NETジャパンのメンバー5人とともに、北朝鮮の「従軍慰安婦・太平洋被害者補償対策委員会」(従太委)の招待で、 2000年5月1日から5日まで平壌を訪問した。
一行は、「女性国際戦犯法廷」(2000年12月8日-10日)に先立つ約半年前、後に同法廷で「検事」を務めた鄭南用(法学博士・国際法学者)や従太委の洪善玉委員長、朴明玉副委員長、黄虎男書記長らと「法廷」憲章や起訴状に関する打ち合わせを行った。
また、従太委は、元慰安婦の黄海南道碧城郡に住む李桂月(2000年当時79歳)と南浦市在住の朴永深(同78歳)を探し出し、西野らは慰安婦に関する証言を得た。このとき、従太委は元慰安婦を探し出すのに苦労したという。
2004年には『戦場の「慰安婦」―拉孟全滅戦を生き延びた朴永心の軌跡』で日本ジャーナリスト会議第47回JCJ賞を受賞した。
同年5月に渡韓し、日本の過去の清算を求める国際連帯協議会で日本での従軍慰安婦問題の展開状況について報告した。
2005年6月20日、韓日平和シンポジウムで、荒井信一茨城大学名誉教授と共に基調演説を行う。
2006年8月11日、日本婦人団体連合会(婦団連)が開催した「二〇〇六年戦争はごめん 女性のつどい」にて講演をおこない、上田清司埼玉県知事が同年6月27日の県議会本会議で「古今東西、“慰安婦”はいても“従軍慰安婦”はいなかった」として軍の関与を否定する発言をおこなったことに対し、「慰安婦問題を否定するのは、先の戦争の英霊の名誉を守るため」「“慰安婦”は商行為・金儲けの女だから問題はなく、戦争犯罪ではないという主張である」と批判した。
2007年6月にアメリカ合衆国下院121号決議が採択されると、「米下院の決議は明確で曖昧でない謝罪を求めている。日本政府の米議会へのロビングや国連人権委員会への反論が示しているように、日本側の加害意識はあまりにも希薄。」と述べている。
2007年11月17日、李政美、小森陽一、林博史、吉見義明、金子安次らと一緒に慰安婦問題解決オール連帯ネットワークの呼びかけ人となる。
2012年9月29日、慰安婦の定義について、日本軍に拉致された女性ではなく、公娼制度下で働いていた女性に変更する。
「お金をもらっていたら被害者ではないのか。『強制』させられることだけが被害なのか」と訴え、日本が謝罪と賠償に取り組むように求めた。
ピースボートへの参加
2000年8月に、第29回ピースボート「アジア未来航海」(北朝鮮クルーズ)の水先案内人(船上講師)として、同会がチャーターした北朝鮮船籍の万景峰号に同乗し平壌を訪問した。
中国帰還者連絡会
中国帰還者連絡会について「『平和のために過去の体験をありのままに語り継ぐことこそが私たちの責任だ』という姿勢には、人はどう生きていくのかという人間としての強い生き様が感じられる。それは戦後生れの私を含めて若い世代にも強烈な感動を与えてきたのではないかと思う。」としている。
その他
2002年10月3~5日の米国のケリー国務次官補訪朝と同時期にも、北朝鮮の平壌と板門店に滞在していたと自ら講演で語っている。
活動に対する評価
肯定的評価
この節の加筆が望まれています。(つまり、全く無いと言う事)
批判的評価
青木直人は、西野の活動について「運動体には、やはり節度というものが必要であろう」「日本の“過去”には容赦なく、一方で北朝鮮の現在の悪には沈黙するというダブルスタンダードが露骨すぎるからだろう」としている。