文明のターンテーブルThe Turntable of Civilization

日本の時間、世界の時間。
The time of Japan, the time of the world

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

2018年10月13日 12時02分37秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

(論説委員兼政治部編集委員)

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私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要…

2018年10月13日 12時01分58秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

(論説委員兼政治部編集委員)

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あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

2018年10月13日 12時00分33秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

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佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

2018年10月13日 11時59分26秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

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菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」

2018年10月13日 11時58分05秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

(論説委員兼政治部編集委員)

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佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

2018年10月13日 11時55分36秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも興味深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

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2018年10月13日 11時54分15秒 | 日記

以下は一昨日の産経新聞に掲載された、かつては九州の地で日本の守りに就いた阿比留氏の末裔である現役の新聞記者では最も上質な記者である阿比留瑠偉氏の論文からである。

見出し以外の文中強調は私。

佐々さんが見た菅元首相

10日に亡くなった初代内閣安全保障室長、佐々淳行さんに初めて取材したのは24年前、平成6年のことだった。

それから折に触れ、実体験に基づくコメントをもらったり、時事問題に関して意見を聞いたりする機会があり、含蓄のある話にいつも感心していた。

佐々さんは昭和47年2月、連合赤軍メンバーが長野県軽井沢町の別荘に立てこもった「あさま山荘事件」では、警察庁から派遣され現地で指揮を執った。

その際、当時はまだ名前が売れていなかった「カップヌードル」を持ち込んだ。

「零下15度の寒さ。長野県警の感覚では、非常食といったら乾パンと握り飯ぐらいだったが、それでは温まらない。

カレーフイズも作ってみたが、すぐ凍って食えたものではない」 佐々さんは、警視庁警備1課にキッチンカーを2台用意させてお湯を沸かした。

厳寒の山中で機動隊員らがカップヌードルをすする姿がテレビ中継され、流行に1役買ったという。 

 

捜査・監視対象に 

佐々さんの話はどれも脯眛深いが、特に印象に残ったのは、立憲民主党最高顧問である菅直人元首相のエピソードだった。

菅政権当時の平成23年、こんな衝撃的な言葉を聞いた。

「あのとき、少々無理をしてでも菅氏を逮捕しておくべきだった」 

佐々さんは警視庁警備1課長当時、菅氏の母校である東京工業大の加藤六美学長の要請で、菅氏を捜査・監視対象にしていた。

加藤氏は、学生運動家だった菅氏が、アジ演説がうまく学生をあおって過激な行動を取らせることに困り果て、相談してきたのだという。 

ところが「第4列の男」と呼ばれ、他者の陰に隠れて逃げることにたけた菅氏もさる者で、なかなか尻尾をつかませない。

佐々さんは逮捕をあきらめたが、その後の菅氏の言動を見て思うところがあったのだろう。

菅氏は22年6月、就任後初の所信表明演説で、婦人運動家の市川房枝元参院議員の名前を挙げ、こう訴えていた。 

「私の政治活動は、今をさかのぼること30年余り、参院議員選挙に立候補した市川房枝先生の応援から始まりました」

菅氏はこのほか自己紹介のたびに市川氏との関係を強調していたが、ここでも佐々さんと接点がある。

佐々さんの実姉である紀平噺子さんは、市川氏の秘書を務めていたのである。

市川房枝氏を利用?

あるとき、佐々さんが姉に「市川さんは菅氏を評価しているのか」と聞くと、姉は冷ややかに答えた。

「何を言っているの。市川さんは『菅はよくない』と本当に怒っているわ」

実際、市川氏は著書『私の国会報告』で、昭和51年の衆院選に出馬した菅氏についてこう書いている。「私の名前をいたる所で使い、私の選挙の際カンパをくれた人たちの名簿を持っていたらしく、その人達にカンパや選挙運動への協力を要請強要… 」

衆院議員となった菅氏は、政治家のパーティーなどで佐々さんを見つけるといつも駆け寄ってきて大きな声で言うのだという。 

「いやあ、紀平さんと私は本当に仲がよくて」 「いつも佐々さんには大変お世話になって」

菅氏は、佐々さんが誰かに語らないように、一方的にしゃべって言葉をはさませないとのことだった。

佐々さんは嘆いていた。 

「市川さんは菅氏に利用するだけ利用されて、いま生きておられたら本当に不愉快だったろう」

佐々さんは、歯に衣着せぬ古武士のような風格のある人だった。 

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どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

2018年10月13日 11時08分16秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

2018年10月13日 11時06分50秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

2018年10月13日 11時05分48秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

2018年10月13日 11時03分30秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

2018年10月13日 11時02分20秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

2018年10月13日 11時01分19秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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2018年10月13日 10時59分55秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

2018年10月13日 10時58分44秒 | 日記

以下は戦後の世界で唯一無二のジャーナリストである高山正之が週刊新潮に連載している名物コラムの今週号からである。

見出し以外の文中強調は私。

日本軍は偉かった。

日本は昭和10年代、三菱MC20など立派な旅客機を作り、満洲の果てから台湾、パラオにまで定期便を飛ばしていた。 

英仏などはラングーンやバンコクに入っていたから日本もそこに乗り入れ、欧州便と繋げたかった。

しかしその希望は拒否された。飛行機は白人の力のシンボルだった。

植民地の民が逆らえば、例えば仏印では爆撃機ポテが飛んできて人々を機銃掃射した。

白人は神様で、その乗り物が飛行機だった。 

そんなところに黄色い日本の飛行機が飛んで来たら白人の権威はいっぺんに薄れ、植民地の民が今度こそ本気で騒ぎだす。

だから日本機は入れなかった。

ただポルトガル領東ティモールだけは乗り入れを認めた。

褌一丁の原住民が暴れたところで鎮圧には何の造作もなかった。 

かくて大日航機がパラオ経由で首都ディリに飛んだ。

その2便目が飛んだ日が真珠湾攻撃の日だった。

以下は現地の守備隊員だった元NHK記者、山下信二による。

豪蘭軍がただちにディリを襲い、運航に当たっていた大日航の社員ら22人を拘束した。

日本側はポルトガルの了解を得て、まず蘭領西ティモールを制圧したうえでディリに入り邦人を救出した。

豪蘭軍は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。

ここで思わぬ事態が起きた。

地続きの西ティモールは白人が追い出され、民は自由になった。

課税も鞭もなくなったのに東側はポルトガル人が居座り、彼らが原住民に産ませたラモス・ホルタみたいな混血児がまだ鞭を振り回していた。

民は騒ぎ白人や混血児が襲われた。

植民地政府は日本軍に治安維持を懇願し、日本軍は民への過酷な税をやめることを条件に応じた。

民は喜んだ。

それで「遠くの村から豪州軍の斥候部隊が潜入してきたと連絡があった」(山下)。 

竹槍を持った村人が協力してラレイア川付近で銃撃戦の末に5人を捕捉した。

村人一人が戦死した。

日本側は以降、豪州兵を協力させて1個大隊の守備隊を10個師団ほどの大勢力に見せかける偽電信を送り、ついでにタバコやウイスキー、医療品を暗夜に空輸させた。

豪州側はすっかり騙され東ティモールの軍事攻略を諦めてしまった。

最後の交信は8月8日の「喜べ。日本は降伏した」だった。

日本側は軍司令官名で様々な情報と贈り物に心からの謝意を返電し、拘束してきた豪州兵らをスラバヤ経由で送り返した。

豪側はこの件をあまり話したがらない。

嫌がらせの戦犯法廷もなく、全員が無事帰還できた。 

NHKを退き、昭和女子大の先生をしていた山下に、なぜNHKはこんな素晴らしい日本軍の情報戦を番組化しなかったのか聞いた。

山下は「NHKでは日本軍は悪いに決まっていた」と寂しく笑っていた。 

しかし、たとえ東ティモールだけでも日本軍がいい人のままでは東京裁判史観に悖ると息巻く連中もいる。

嘘だけはうまい後藤乾一早大名誉教授は「日本軍は現地民4万人を殺した」と朝日新聞に書いた。

主筆の船橋洋一が「だから日本は賠償金を払え」と馬鹿な記事も付けた。

慶応の倉沢愛子は日本軍が略奪したと書く。

褌一丁の民から一体何を盗ったというのか。

人間文化研究機構の加藤某も「あの島を強引に占領してポルトガルを不快にさせた」、(Voice誌)と書く。

連中が治安維持を懇請した事実も知らない。

日本は爪弾きされるものと思い込んでいる。

先日、そういう馬鹿な学者の言で汚れた耳を洗い漱ぐため東ティモールの海に泳ぎにいった。

日本軍が現地の人と豪州斥候部隊を捕らえたカイバダ村にも行った。軍が貯蔵用に使った横穴がそのまま残っていた。

豪州軍のB24がまさか偽電信とも知らずラッキーストライクを投下したラレイア川にも立って見た。

どこでも現地の人たちが多分、昔と同じ笑顔で我々を囲んでいた。 日本軍が強く心優しかったことがよく分かった。

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