すずりんの日記

動物好き&読書好き集まれ~!

小説「雪の降る光景」第4章3

2008年10月04日 | 小説「雪の降る光景」
 私は、自ら滅び行く今になって思うのだ。狂人アドルフ・ヒトラーですらその身を滅ぼすことになった悪を、いつの日か、“大善”の力を背負った人間の偉大な力が打ち破る時が、必ず来るだろう。
 私は、死ぬことが恐いのではない。死ぬことを悔やんでいるのでもない。邪悪を滅ぼす未来がやって来るその時に、今宇宙の生命と融合せんとする私の生命が再び形を成さんとするその時に、かつてナチスとして生き、そして死んでいった過去の私の思いを背負うことができないということが、とてつもなく悔しいのだ。
 かつて実験室の1つとして使用し、私がハーシェルを銃殺したあの部屋は、同じ収容所内ではあったが、このガス室からは一番遠い所にあった。あの部屋は、ハーシェルが死に、そして私が倒れた後しばらくして、部下たちの強い要望で閉鎖されたのだ。私が倒れた後、私がハーシェルを殺した直後から燻っていた私への不満がボルマンの下に殺到し、私に、同胞を殺した罪で極刑を与えよとの声が上がるようになった。ボルマンが私に怯えて返事を渋っていると今度は、ハーシェルの亡霊が、自分を死に追いやった人間を自分と同じ目に遭わせて殺してくれと夜な夜なあの部屋に死んだ時の姿で現れて懇願するのだ、と言い出す者まで出てきた。
 ボルマンは、八方美人な性格が災いしたのか、部下たちの意見を捻じ伏せてしまうことも、私に刑を執行することもできなかった。あの部屋の閉鎖は、彼が悩んだ末に部下に選択させた結果だったのだ。私への極刑を望む者が、ボルマンや党の権限を使わず自らの手で私を暗殺すること、それが、ボルマンが掲げたもう片方の選択肢だった。彼らが私と対峙する覚悟が無いなら、ハーシェルのことは部屋ごと封印してしまうしかないということだったのだろう。
「どちらを選んでも私は構わん。ただし一言だけ言っておく。もし君たちがあの男を殺す方を選ぶとしたら、私は即刻、皆の棺桶を注文して自ら命を断つ。こんな内部のゴタゴタの中で万が一にもこの戦争に勝つことができたとしても、どっちみちあの男が君たちを死に追いやった後、私を殺すだろうからな。」
ボルマンは部下たちに、淡々とこう語ったらしい。部下たちは、ナチ党の党首であり今一番の総統の側近であるボルマンが、私の殺害か実験室の閉鎖かの二者択一を投げかけた直後に自分だけさっさとその選択を辞退してしまったのを見て、ほぼ全員が実験室の閉鎖の方を選び、今後一切ハーシェルの死について言及しないことを誓ったのだそうだ。
 ボルマンは、ある日私の病室に来て、笑ってこう言っていた。
「暗殺ではなく正規の裁判をして君に極刑が下っても、君が死刑執行される前に、一体何人の優秀なナチスが君の手によって殺されるか。考えただけでも恐ろしいよ。」
今この暗闇の中で、その時のボルマンの声がどこからともなく聞こえてくるようだった。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第4章2

2008年09月20日 | 小説「雪の降る光景」
 一面の暗闇の中に、空気がうごめいているのを感じた。光の中では存在し得ないものが闇に漂っていた。じっと闇を見つめていると、その“幻”が形を成して触れてくるような気がした。私は、その感触を確かめることができず、恐ろしさのあまり思わず目を閉じた。その時、闇の濃淡が、再び一面の真っ暗闇になった。
 私は、総統と会うのが恐かったのだろうか。総統が、私の姿を見、私の説得に耳を傾け、私の手を取り、その上で、自らの死ではなくボルマンと同じ道を選ぶのが。そしてその思想が、彼らと共に民衆の中に生き続けるのが。
 しかし、私にはわかっていた。総統とエバが死を覚悟したであろうことを。総統は、再三私に面会を命じてきていたが、私がそれを受け入れたことを伝えると、面会は3日後、ということになった。つまり、その間に総統の心は定まったのだろう。急いで私に意見を求める必要が無くなったのだ。
 総統は、自らの死後、この20世紀を、「殺戮の世紀」とした人間の1人として世界中の人間に語られていくだろう。私は今、死に臨もうとしている。しかし、そのことだけは確信することができる。総統とその忠実な部下である私たちが悪魔として人々に憎まれ続けていくこと、それが私たちができる唯一の償いであり、私たちが死んだ後の未来を「平和の世紀」としていく唯一の道であるのだ。民衆に、恥ずべき歴史として、そして真実として憎まれ続けていってこそ、総統も私も、最期までナチスとして自決する甲斐があるというものだ。
 ボルマンは、口では大きなことを言っていたが、彼には天下を取ることも、悔い改めて生き延びることもできはしない。ボルマンは総統を崇拝している。その総統が、死を覚悟しているという私の言葉を、彼は信用していないようだが、総統が死んだら、彼にはもはやその同じ道しか残されはしないのだ。
 アドルフ・ヒトラーの思想は、ボルマン程度の人間であれば、おそらく立ちどころに破壊してしまうだろう。狂った人間でなければ、狂った思想を受け入れることはできないのだ。大きな悪は、人間の心を狂わせ、死に至らしめるが、決して自らが滅びることは無い。人は、そのようなものが常に自分たちの周りに息づいていることを知らない。大きな暗黒を自らの狂気として受け入れた人間が目の前に現れて初めてその邪悪の存在を知り、その存在と、それが自らの心の中にも存在し得ることを憎むのだ。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第4章1

2008年09月13日 | 小説「雪の降る光景」
 私は、痛みに悲鳴をあげ続けている体をゆっくりと折り曲げ、その、冷たいコンクリートの床に腰を下ろした。このような所に来なくても、私は遅かれ早かれ、癌に蝕まれた体が死の淵にたたずむ時を迎えていただろう。しかし私の魂は、この場所で葬られなければならないことを知り、激痛と拒食で麻痺した体をこの場所まで連れて来たのだ。
 窓一つ無い真っ暗な空間を見上げて、外には大きな満月が光り輝いていたことを思い出した。私がやって来た死のシャワー室からは、見えるはずのない月が、笑っているように見えた。微笑んでいるのではない。嘲っているのだ。私はその月から目を放すことができなかった。顔を背けてまた目をやった時、そこに、変わらない満月があるのが恐かった。瞬きをした次の瞬間、変わらずに瞬きをしないでじっと私を見つめている満月を見るのが恐かった。怯えているのではなかった。魅せられていた。
 規則正しく並んでいるシャワー口は、私以外の誰かの方を向いていた。あの月が、ここで死んでいった者たちの視線であったとしても、決して私は驚きはしないだろう。ここで死んでいった何百万ものユダヤ人の眼が、私が死んでいくのを瞬きもせずに固唾を呑んで見つめていた。人肉の朽ちた臭いとも、大量の血が四方の壁から染み出してくる臭いとも、毒ガスが空間に微かに漂っている臭いともつかない、カビ臭いじめじめした臭いが、私を窒息させようとしていた。
 2日前、ボルマンは病室に来て、エバを伴って私に会うという私の提案を総統が承諾したと報告した。
「ただし、多忙のため、君に会う時間が取れるのは3日後になりそうだ。」
その予定は明日だった。彼はそれだけ伝えると、茶目っ気を残して足早に帰って行った。癌に侵され続けていてもなお、抗癌剤等の薬剤を受け付けず、痛みも訴えず、正常な経過を示さない私の体に、彼は未来の医学を託すべきサンプルとしての魅力を必要としなくなったらしい。あの日以来、ボルマンは私を探るような目で見ることは無くなった。と同時に、私に対しての罪悪感も姿を消してしまった。彼は今までと何ら変わることなく、あの無邪気な笑顔で、これからも、アドルフ・ヒトラーを崇拝し、民衆を狂気へと陥れていくのだ。
 あの時ボルマンは気がついたであろうか。私の眼球が微かに光を失いつつあったことを。私の胃袋が徐々に自らその内壁をただれさせていたことを。私の全身が間もなく、風化してしまうであろうことを。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」第3章終

2008年08月16日 | 小説「雪の降る光景」
 「エバはどうしている?」
いきり立っていたボルマンは、はっと我に返った。
「彼女は、別荘でおとなしくしているよ。」
「エバも、覚悟を決めただろうか。」
今まで自分の身の振り方しか頭に無かった彼は、エバが、自分の愛した男に最期の時にさえためらい無く付いて行く強い女であったことを今さらながらに思い出し、彼女がとっくに総統との心中を決めているであろうことを、今初めて実感した。
「ボルマン、彼女と二人で、という条件付きで総統に来ていただいたらどうだろう。総統と二人きりより、三人の方が私も和やかに話ができそうだ。」
 エバは、いわゆる男顔負けのキャリアを持つような強い女ではなかった。私と同じく、アドルフ・ヒトラーの身に何かあったら迷わず自分も死に臨むというような強さはあったが、それを除いては、彼女は政治には全く興味の無い、楽観的な、唯の美しく弱々しい女であった。
 彼女はアドルフ・ヒトラーを愛している。そして総統もまた、彼女のことを、自らの狂気を抜きにして思考できる唯一の存在としていた。エバ・ブラウン無くして今の総統は無かっただろう。アドルフ・ヒトラーが自らの狂気で破滅すること無く、独裁者としての今の地位を築くことができたのは、彼女を彼が愛していたからに他ならなかった。死の影が常に付きまとっている総統の傍に居て、エバの二度の自殺が未遂に終わったのは、成るべくしてそうなったに違いなかった。彼が、一国を狂気へと導く独裁者に姿を変えるのには、彼女が死ぬわけにはいかなかったのだ。
 そう。それは、ハーシェルのいない今の私の生命が意味を成すものではないように、総統とエバもまた、お互いを切り離しては自らの生命は存在し得ないのだ。

 1週間後、私は、二人と会うことなく病室を後にした。再び旧友の亡霊に会いに行くために。そして、自分の死に場所を見つけるために。



(第3章終わり。第4章へつづく)

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小説「雪の降る光景」第3章24

2008年08月09日 | 小説「雪の降る光景」
 私は、いつか首を吊って死んでいったイギリスの将校に対して言った言葉を、そのまま今ボルマンに向かって言っているような錯覚に囚われていた。
「それにだ、我々がナチスとしての最期を迎えなければ、民衆は誰を憎めば良いのだ。我々が今までのことをあっさりと悔い改めてしまったら、民衆は、誰に死刑を宣告すれば良いのだ。我々が、ナチスであることを恥じてしまったら、民衆は、後世に何を語れば良いのだ。」
「君には君の論理があろう。それは構わない。しかし、君以外のナチスまでもが大衆のためになぜ死ななければならんのだ。君が一人で死ねば良い。私も総統も他の党員も、君と同じ思想を持ち合わせてはいない。」
 この男の勇気の無さを責めるのは止めよう。ナチスの罪を死を以って償う勇気の無い人間が、生涯陽の下にさらすことのできない自らの生を以って償う勇気を持ち合わせているとでも、彼は考えているのだろうか。
「ボルマン、よく聴いてくれ。総統を、彼を誰かが殺してやることが、彼にとって最後の、あまりにも幸福な道なんだ。」
ボルマンは、我が侭な私にはもう付き合い切れないと言うかのように、投げ遣りに足を組んだ。
「では君が全責任を取れ。君一人で、総統とこの戦争の二つを背負って死ねば良い。私はごめんだ。・・・私はナチスだ。たとえ君が死んでも、党が解散しても、ドイツが戦争に負けても、ナチスは、私の思想として生き続ける。そして、いつかまた・・・」
「そしていつかまた、世界を獲る、か?」
彼は人間だ、間違いなく。人間であるが故に愚かな行動を繰り返す。しかし、人間であるが故に、その愚かさに気づく事もできるのだ。



(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章23

2008年08月02日 | 小説「雪の降る光景」
 ボルマンの返事を待たずに、私は言葉を続けた。
「君だけの覚悟を責めている訳じゃない。ナチス幹部の中で、私の他にもその覚悟がある人間がいるなら、私は総統に、我がナチス・ドイツの最高責任者としての全ての権力をその人間に継承させてから速やかに命を絶つように勧めよう。ただの殺人鬼としてな。もし幹部の連中にナチスを背負ったままの姿で全人類の敵となる勇気が無いなら、私は総統に、全ての責任をナチス総統としての自らの死で償うように勧めるようにしよう。」
私はさらに続けた。
「私がその役目を負えずに死ぬのは残念だが。」
私はここで改めてボルマンの返事を待った。ボルマンは、今までの人生を振り返るようにして、言葉を振り絞った。
「やはり、それしか道は・・・。」
「あぁ。もう、それしか道は無い。そして、もうこんなことは我々で最後にするのだ。」
打ちひしがれているように私の言葉を受け入れていたボルマンが、急に強い口調で言った。
「我々は間違っていない。たとえナチスが滅んでも、人間はまた、第二のナチスを造り出す。人間は、ナチスのような、自分以外の何かに常に自分の不幸な身の上の責任を押し付けていなければ生きていられない生き物だ。ナチスは必要悪なんだ。」
 ボルマンには、総統の代わりは無理だ。彼は、自分は臆病でどんな理屈をつけてでも死を免れてみせる、と言っているに過ぎない。
「どうやら君にこの大役は耐えられそうもないようだな。総統一人に全責任を押し付けるのはかわいそうだが。」
「私は、自分の言ったことが間違っているとは思えない。」
頑なにボルマンがこう言うのもわからないではなかった。しかし、なんとかしてこの死の意味を理解させなければならないのだ。
「人類が愚かだったが故に我々がここまでのし上った。それは一理ある。しかしボルマン、そうやって責任を全て転嫁させて我々のしてきたことが許されるのか?我々のしてきたことは、我々ナチス幹部の命では決して償い切れない。が、これ以上に償えるものは何も無いのだ。言葉を換えれば、償いとして命を絶つことを許されているなら、せめて逃げも隠れもせず、ナチスの姿のまま死に臨むのが我々に残された道なのだ。」


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章22

2008年07月26日 | 小説「雪の降る光景」
 いつものように人払いをしてベッドの傍らのイスに座ったボルマンに、私は言った。
「そういうことなら総統はすぐに君に相談するはずだろう。ゲッペルズにも、ヒムラーにも。」
「私たちは総統に、敵地をどのように攻めるべきかを判断させることはできる。しかし、敗戦国の総責任者としてどのように死に臨むかを教えることはできない。」
私は窓の外で北風に揺れる木の枝を見つめた。今の我々の命は、あの枝から今にも落ちてしまいそうな枯れ葉よりも軽い。それは総統でさえ例外ではない。
「彼は死ぬつもりなのか?」
「それもはっきりとは言い切れないのだ。しかし君なら、総統が何を考えているかわかるかもしれない。そして、・・・彼を救ってやることができるかもしれない。」
それが、ボルマンが私を殺さずに利用できる残された唯一の方法という訳か。
「救ってやれる?彼に何を助言すれば、彼は救われるのだ?死ぬなんてばかな事を言うなとでも言えば良いのか?それとも、死んで全てを償えとでも?」
「それも、総統に会えばわかるはずだよ、君なら。」
私に何がわかるというのだ。私に総統の考えの何かがわかったとして、それが私たちにとって今さら何だと言うのだろうか。
「もしも、総統が私と会うことで明らかに自殺する意志を固めたらどうする気だ?」
「私はそれでもかまわん。」
ボルマンの口調に迷いは無かった。が、きっと彼の脳裏には彼の愛する家族の姿がよぎっただろう。
「君は総統の後を継いでナチスのトップになる覚悟はできているか?」
「総統が私にそれを望むなら、私は喜んでそれに従うつもりだ。」
ボルマンは、変わらず迷い無く言い切った。総統の犬になった時から、こうなった時に死を選ぶ覚悟ができているのに、今さら何を聞くのかと苛立ってさえいるようだった。
「今、アドルフ・ヒトラーの後を継いでナチスの次期総裁になるということは、この全世界の全ての民衆から死刑を宣告されるということだ。その死の間際まで、ナチス総裁としての肩書きを背負い続けていることができるか?」
ボルマンは、ヒトラーの犬として死ぬ覚悟はあっただろうが、ナチスという極悪の思想がもたらした全責任を、総統の代わりに自分が背負うほどの覚悟を問われることになるとは思っていなかっただろう。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」第3章21

2008年07月19日 | 小説「雪の降る光景」
 私はその申し出に、何かただならないものを感じ取っていた。総統は明らかに本心を失ってしまっている。その彼が狂人としての直感で、今私の所に吸い寄せられようとしている。しかし、私は既に彼とは違う場所に居る。私に会えば、彼はそのことをいち早く嗅ぎ取るだろう。その時彼は、私を殺すだろうか。それとも、・・・私が、彼を殺すだろうか。
 私は、外出することをまだ止められていることを理由に、総統の申し出を断ったが、彼は、自ら私の病室に顔を出すと言って聞かなかった。私はまた、公務が混乱するような行動は慎むべきだと彼を戒めたが、彼は、あくまでも公務の妨げにならない程度に、ごく個人的に私を見舞うのだと言い切った。私は三度、総統を個人的な用事で病室に招くのはこの戦争でナチス・ドイツが勝利を収めてからにしたいと、あくまでその申し出を拒んだが、彼は、それでは遅すぎるとそれを突っぱねた。
 「総統の訪問を拒み続ける理由は無いだろう。」
総統と私のやり取りに業を煮やしたボルマンが、翌日顔を合わせるなり口を開いた。
「ボルマン、総統は私と何を話したいというんだ?」
「わからん。私はただ、なんとしてでも君と話したいという総統からの伝言を届けに来ただけだからな。」
「しかし、見当はついているんだろう?」
ボルマンは、ある種の打ち明け話をする時に、一瞬自分の視線を落とす癖がある。彼は、注意して見なければただの瞬きにしか見えないその癖を見せず、私を凝視したままゆっくりと言った。
「総統は君に助けを求めようとしているのだ。」
そう言う彼の言葉は同時に、やはりこうなる前に君を殺しておくべきだったと言っているようでもあった。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章20

2008年07月12日 | 小説「雪の降る光景」
 総統は、知能に乏しく野卑で残忍な心の持ち主であった。利己的な誇大妄想狂な上に酷い偏執狂の彼は、ナチス最高司令部を無能呼ばわりし、自分の周囲の者を不忠だと責め立てた。周囲の者は、総統のこのような変貌ぶりに少なからず動揺し、その彼らの動揺はまた、総統の不信を買った。
 彼らは今初めて、総統が狂人であることに気づき、自分たちが狂人になり切れない偽善者に過ぎなかったことを思い知ったのだ。しかし既に時遅く、自らが狂人ではないのだと気づいて自分の懐から反発し去って行こうとしている者を、総統は容赦なく処刑していった。
 狂人として生きるか、人間として死ぬか、その二者選択をせずにいつまでもふらふらと生き抜いていけると考えていた“その他大勢”が、このナチスという組織にどれだけたくさん存在していたのだろうか。
 総統の本質は子供なのだ。彼は、思考することなしに、自分と同じにおいのする者を直感で嗅ぎ分ける。自分と同じ完璧なナチスにのみ彼は安らぎを感じ、共にしてきた歩みをほんの少しでも止めようとする者からは、一体感を感じられなくなる。そしてその時彼の知能は判断を下す。「彼は敵だ。」・・・これが彼の“思考回路”なのだ。
 私はいまや、完璧なナチスではなかった。完璧に善人になったというのでもなかった。私は、自分がその両面を等しく持ち合わせている「人間」に過ぎないことを知ったのだ。


 人の感情が、人を裁くことなどできはしない。
 たとえそれが、善と悪、強者と弱者であっても、だ、
 人の感情が、人を裁くことなどあってはいけない。
 そのことに、私は気づいたのだ。
 人が、生きる中で依りどころにするもの、
 それは、人の感情ではない。
 もっと、大きな力に支配された何か。
 私に、人を殺させた何か。
 私を、ナチスであり続けさせた何か。
 私に、彼らを出会わせた何か。
 私を、この時代に生まれさせた何か。

 そして、私に、全てを気づかせてくれた何か。

 そのことに、私は、気づいたのだ。


 総統が、私に会いたいと言ってきたのは、国内外の情勢が緊迫していた、ある午後のことであった。



(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章19

2008年07月05日 | 小説「雪の降る光景」
 この年が暮れるまでに私は、このベッドの上で数多くのニュースを知った。私が入院していた6ヶ月近くの間に、数回にわたる総統暗殺未遂事件が起こり、その度ごとに我がナチスに対する造反者は数を増していった。
 同じ時期に多くのナチス幹部が私を見舞ってくれたが、もう誰も、この戦争でのナチス・ドイツの勝利を信じてはいなかった。イングランドもロシアも我が手中に治めることができなかったばかりでなく、今やかなりの後退を余儀無くされていたのだ。フランスでは、ドイツ軍はアメリカ軍を相手にしていたが、敵軍優勢で、ドイツ軍は兵員、物資共に大きく劣り、短期日のうちに敵に叩きのめされることは避けがたいようだった。
 総統は依然として、共産主義を恐れ憎んでいる民主国家であるイギリスがロシアと敵対し、ロシアに対する聖なる戦いに加わってくれることに望みを託していたが、その希望もあっけなく断たれてしまっていた。彼は、国家の存続を計るための合理的な提案を何一つ持っていなかった。彼はただ戦争を強化し、最後の一人まで戦うことにのみより多くの犠牲を求めただけであった。
 総統は、自分個人の運命と国家としてのドイツの運命を同一視していた。先の一次大戦の敗北を招いた責任者であり総統の狂信者であるルーデンドルフ将軍が、その当時、「最後の攻勢に敗れた時はどうするのか」と尋ねられて、「その時にはドイツは滅びなければならない」と答えた、というのは有名な話だ。それはまさに、軍が勝利を収められなければドイツが生存するいわれは無いとする総統の思想そのものなのだ。ロマンティックな彼は、国民の運命を賭けて最後の瞬間まで奇跡を願い決定的な破局の回避を望んだが、残念ながらそう簡単に奇跡は起こるはずもなく、国民を惹きつけて離さなかった彼の自信に満ちた笑顔がメッキを剥がし始めた。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章18

2008年06月28日 | 小説「雪の降る光景」
 いったい、正義とは何だ。どれほどの価値があるというのだ。邪悪な思想よりもほんの少したくさんの人間がそれを信じているというだけの話ではないのか。邪悪な思想の持ち主を神に代わって自分が罰すると豪語している者ほど、神に対して畏れ多い者はいないのではないのか。違うのか?どうだ、違うと言ってみろ!

 ナチスである私の命の側面がそう叫んだ時、私はベッドに座ったまま、真っ赤な血を吐いた。真っ白なシーツが瞬く間に赤く染まり、その全てを吸収しきれずに吐物の一部が床に溢れ落ちていた。真っ赤な海にぽつんと取り残されたように、私は、いまだ口内から止めどなく溢れ続ける血を止めることができないでいた。心臓の動悸に合わせて、ドクドクとリズムを打って赤い液体が流れ出ていた。

 違わない。そうだ。その通りだ。我々が、世の中にどれだけ忌み嫌われていようと、死刑は殺人と同じだ。殺人で幕の開いた革命は、必ず、殺人で幕を閉じる。この法則に、正も邪もない。我々もそうだ。我々は、殺人によってその旗揚げを果たし、その死と同時に我々のステージは終わり、次のステージの幕が開く。人間は愚かにもそれを繰り返し、多くの血を流し続ける。

 ・・・しかし、しかし、しかしいつか、
 いつか気づく日が来るだろう。

 いつか生まれ変わって、アネットやクラウスと、
 そしてハーシェルと、再会する時が、
 神の名を借りずとも、自らの強い力で気づくことのできる日が、
 死ではなく生によって幕を開けるその時が、
 ・・・いつか、やって来る。

 私は人間だと、胸を張って言える日が、きっと、いつか、
 だから、・・・もういいんだ。
 もう、いいんだよ。

 私は、ナチスの私を捨てて清らかな人間として生き延びていこうとは思っていない。
 私は、ナチスの私の死体を背負った人間として死に臨む。
 私は、・・・私はナチスの私を責めたりしない。
 私はナチスの私を憐れんだりしない。
 私はナチスの私を捨てたりしない。
 私は、ナチスの私を背負って生命を終えることにより、融合し、昇華するのだ。


 血が止まり、急に口がべたついてきた。ナチスの私が自らの問いに一つの答えを出したのがわかった。体中から力が抜け、私は力無くベッドに倒れ込んだ。シーツが、ベチャッと音を立てた。私が、まるで何事も無かったかのようにうとうととし始めた頃、看護婦がドアを開け、悲鳴を上げた。



(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章17

2008年06月21日 | 小説「雪の降る光景」
 私は天井を仰いだまま目を閉じ、内なるナチスとしての私の声に耳を傾け続けた。

 我々はかつて、民衆を苦しめ悪政を行っていた前政権を崩壊させ、それらに携わった者たちを重刑に処した。そして民衆を我々の信じる道に導いたのだ。
 そのことが「悪」だと言うなら、これから同じことを繰り返そうとしている彼らは何なのだ。彼らだって正義を振りかざしているだけの人殺しだ。我々と、どこが違うというのだ。我々を悪だと責めるならば、なぜ我々について来た?なぜ賛同したのだ?命惜しさに正義を曲げて悪に付くような人間に、我々を非難する権利があるのか。彼らはただ、集団で居たいだけなのだ。我々が罰せられるならば、我々に今まで一言でも賛同した奴らも同罪だ。違うか?
 私は、たった一人で反ナチを訴えて処刑されていった者たちが許せないのではないのだ。我々の眼が光っている時には平気で反ナチの者たちを処刑し、その死骸を蹴り、踏みつけ、見せしめのために逆さ吊りにし、その死骸が朽ち果てていく横を狂喜しながら通り過ぎ、「でも私はそうしたくてしている訳ではありません。我々はナチスに脅されて仕方なくやっているのです」などと不運な自分を精一杯慰めている。ごく数名の反ナチ指導者を祭り上げているそういう奴らを許すわけにはいかないのだ。
 彼らは、総統と同じ目をしている。狂気の申し子、アドルフ・ヒトラーの目だ。彼らは“正義を理解し訴えている”のではなく、“熱狂している”のだ。彼らにとって、処刑直前の処刑場はコンサート会場であり、そこに連れて来られた受刑者はそこで歌を歌う代わりに死ななければならない。彼らの狂気はそこでピークに達し、高々と一心不乱に振りかざされている拳と意味をなさないかん高い叫び声が、一段と激しさを増す。
 それが、健全な精神を持った民衆のやることなのか。・・・いいや、違う。それくらいは、悪名高いナチスの一員である私でもわかることだ。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章16

2008年06月14日 | 小説「雪の降る光景」
 私が踏み入れてしまった道は、ナチスの対極にあり、ナチス社会から反ナチと非難される道であり、悲しい時や辛い時に心が傷つき悲鳴を上げる生き方である。自分の時間や気持ちを割いてまで他人のことを思いやらなければならず、人を殺すことに罪の意識を感じなければならない。クラウスと言いたくないことを言い争わなくてはならず、チャーリー・チャップリンの映画を見て込み上げた熱いものを押し殺してはいけない道なのだ。
 この、ナチスの私にとって辛く苦しい道に足を踏み入れながら、私は総統の忠実な部下で在り続けている。しかし、これから私がたどり着くであろうこの道の延長上に、総統の姿は無い。
 
 私はそれでも行くのか?

 どこかから、ナチスの私が私に尋ねた。

 これからの近い将来、我々ナチスへの非難は国際的な規模で高まり、アドルフ・ヒトラーはその槍玉に上がるだろう。戦争の誘発、国民の洗脳、ユダヤ人を始めとする他民族の大量虐殺等が「極めて非人道的である」という理由により、民衆はいつの日か立ち上がり我々を殺すだろう。そして、こう言うのだ。
「悪は滅びた。もう二度と戦争はしない。我々は平和を手に入れたのだ。」と。

 しかし、とナチスの私は言う。

 しかし、彼らは本当に正しいのか?

 (つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章15

2008年06月07日 | 小説「雪の降る光景」
 感情を抑えきれずに立ち上がったボルマンは、自分の隠し事が私にばれてほっとしたのか、急に力が抜けたように肩を落としたままイスの上に腰を落とした。
「私は君を殺さない。君が私の手を汚すほど価値のある人間ではないようだからね。」
空気は張り詰めていたが、ボルマンはまだ何かを話したそうにしていた。
「君以外に、君を殺せる人間はいるのか?」
私はボルマンにそう問われ、過去に存在していたある人物を懐かしく思い返した。
「今はいないな。唯一いた者を私がこの手で殺してしまったから。」
 彼は大きく頷くと、その言葉に満足したように、いつもの屈託の無い笑顔にほんのわずかに後悔の気持ちをのぞかせた。そして、いつしか消えるように病室から出て行った。私には彼の後姿がすっかり老け込んでしまったように思えた。まるで、死期を悟ったのは彼の方であるかのようだった。

 
 ボルマンが帰った後、私は、枕を背に当てたままずっと天井を見上げていた。
 私に、この問題の答えを出すことができるのだろうか。天井に、血まみれになったハーシェルの姿が見えた。
 どうすれば良かったのだ。あの時、私が死ねば良かったのか。英雄として殉職すれば良かったのか。
 そう。確かにあの時、ナチスとして死ぬことができていたら、クラウスの言葉を聞くことも無く、アネットの涙を見ることも無く、あの夢も、ハーシェルの存在も、そして私自身の存在も、それ以上何の意味も成さずに楽に死んでいけたに違いない。しかしあの時、私よりも先にハーシェルが死んだあの時、二者択一のもう1つの道に足を踏み入れてしまったのだ。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第3章14

2008年05月31日 | 小説「雪の降る光景」
 私はベッドに半身を起こしたまま、依然顔を上げようとしないボルマンの足元に、手に持っていた2cm程もある報告書を叩きつけた。彼は、パン!という乾いた音に肩をひくつかせ、背もたれの無いイスの上で体勢を斜めにしたが、転げ落ちるのだけは必死に堪えてやっと顔を上げた。彼が怯えて許しを請うている犬のような顔をしたので私は思わず噴き出した。
「なぜって、私は過労で倒れたのだろう?大事を取って君が私を入院させた。そうだろ?え、ボルマン?」
彼の目が、声を殺して笑っている私の顔を捕らえて放さなかった。
「ボルマン、何をそんなに怯えている?何か私に知られてはまずいことでもあるのか?」
私は、コメディアンのように、手の平を上にして肩をすくませた。
「ボルマン、言っておくが、私は何も知らない。何もな。私の体がどんな病魔に冒されているか、君とドクターが私を、私の体を何に利用しようとしているか、君たちが私の眠っている間に何を話していたか、何も・・・」
 ボルマンは、ついに堪え切れずに、イスを倒して立ち上がった。
「私に敵対したハーシェルのことをばかな奴だとなじったのは確か君ではなかったか?」
ボルマンの拳がぶるぶると震えていた。
「君は、そうだ!君は我々を裏切った。だから!」
「だから、私が病に侵されて誰の手も煩わせずに死んでいくのを待っているわけか。ボルマン、君が勘違いしているようだから一言言っておく。君には私は殺せない。私のことを殺すことができるのは今では私だけだ。私は、私の意志で、私の命を断ち切る。」
彼の心には、ベッドに横たわったまま、骨と皮だけになった右手をすっと伸ばして彼の喉を掻っ切って殺す私の姿が浮かんでいるのかもしれない。


(つづく)

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