すずりんの日記

動物好き&読書好き集まれ~!

小説「ある男の物語」あとがき

2005年12月06日 | 小説「ある男の物語」
これを書いたのは、7~8年前になります。

この頃、マスコミの報道被害の話を聞くことがあったんです。
「報道被害」というくらいだから、
もちろん、「報道」する側に、
どこかの方向に世論を引っ張っていこうとする「悪意」を、
マスコミに対して、感じたんです。

その、報道に携わる人が、
人間的に、良い人だったとしても、
渦中の人のこと、事件を
「ありのまま」に報道することは、
とっても難しいんだろうなぁ、と思ったわけです。
だって、渦中の人と、
その記事を書く人、その報道をする人は、別の人間であって、
「その出来事」がマスコミに渡ることで、
その出来事はすでに、マスコミに携わる人間の主観が入ってしまうんですよね。
たとえその「渦中の人」自身がその出来事を語ったとしても、
その出来事が、多面的に、ありのまま現されることは、
たぶん不可能に近いでしょうね。

そんな想いを込めて書いた作品です。

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小説「ある男の物語」(終)

2005年12月03日 | 小説「ある男の物語」
 私は、待合室の長椅子で、抱えていた頭を上げ、主治医を探しに行った。主治医は、夕方までの外来の診察を終えた直後に、和子の病室に居合わせた看護士から、和子が再び昏睡状態になったことを聞き、私を探していたらしい。私が病室に戻ると、今人工呼吸器を付けたところです、と言った。そして、奥さんが何か言葉を発したことを聞きました、何と言ったんです?と、私と一緒に病室を出た。
 私は、和子が「死んだ方がマシ」と言った事を話し、少し間を置いて、人工呼吸器を止めてくれるように頼んだ。主治医は、和子のその言葉を、和子が私の苦労を想って死にたがっている言葉だと信じ、わかりました、残念ですが、奥さんの精神的な苦痛を第一に取り除いてあげましょう、とつぶやいた。そして、それは数日後、実行された。

 こうして和子は、5年と41日の入院生活と、59年と5ヶ月余の人生を、―――あっけなく、あまりにもあっけなく―――終えた。


 城山さん、あんたは和子の死後、マスコミの報道競争によって勃発した尊厳死論争で私に群がってきた人たちの中で、唯一私の味方に立っていてくれた。あんたから、和子の死ぬ権利を堂々と主張していきたいのだと熱っぽく語られた時、私は嬉しかった。本当に、とっても嬉しかった。しかし、私が今までのことを語る時が、この遺書以外にあったとしたら、たぶん、あの出会いの時しか無かったかもしれない。和子の死は、和子自身が望んだ死ではなく、私が一時の感情で手を下した殺人だったと。和子の人権を擁護し、世間に問題を提起したかったのではない。私はあの一瞬のちっぽけな怒りで、和子の生きる権利を断ち切った極悪人なのだ、と。
 あんたは、息子たちの死んだ事故の関係者や、私と和子が入院していた病院の医師等から熱心に取材を行い、私は、私を当時のマスコミ報道競争の被害者であると信じて、その正当性を語るあんたの熱意に、真実を語ることができなかった。


 城山さん、私はこれから死のうと思う。同じ死ぬなら、せめて和子との思い出の地で、と思っている。
 和子の死から今日まで思い出すのは、不思議と、彼女の笑顔ばかりだった。彼女の笑顔は、一度たりとも、私を責め立てたり、落ち込ませたり、怒らせたり、不快にさせたりしなかった。死んでからの和子は、私を惹きつけて放さず、彼女はこの10年で、私の中でとても魅力的になっていった。・・・だからこそ、10年経った今、和子の居る所に、―――愛する人の居る場所に―――往こうと思ったのだ。

 ただ最後に、あんたにだけは真実を残して逝かなければならないと思っていた。

 城山さん、和子が死んでからの10年間、私の一番近いところにいつも居てくれたあんたを騙し続けていた、せめてものお詫びだ。
 
 この遺書の処分は、あんたに任せるよ。


 城山さん、本当に、すまなかった。世話になった。ありがとう。


                      水谷 秀男





3、老人の遺書Ⅱ
 
城山は、水谷老人の遺書を、もう一度だけ、噛み締めるように読み、そして、その文面のまま、城山の受け持つページに連載した。「ある老人の遺書」という表題の下には、水谷秀男の名前が、あの封筒の本人の筆跡のまま載せられていた。


 そして、城山は、その論争から姿を消した。



(終わり)

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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑭

2005年11月20日 | 小説「ある男の物語」
 城山さん、あんたならこう言うだろう。「奥さんは、“あなたにこんな苦労をさせながら、自分が生き長らえていく訳にはいかない。それならいっそのこと、死んだ方がマシだ”と、自分を責めていたのでしょう。」と。城山さんは、優しい人だからね。・・・しかし、それは違う。和子は、和子の目は、こう言っていた。「こんな惨めな姿を、あなたなんかに見られながら生き長らえていくなんて、そんな生き恥をさらすくらいなら、死んだ方がマシよ。」とね。私には、和子がそう言いたかったということが、あの一言で、はっきりとわかった。あの一言で、充分だった。わかったのと同時に、今まで私が味わったことの無い感情がこみ上がってきた。
 それは、和子への「憤り」だった。彼女は、わかっていないのだ。彼女が今まで生きて来られたのは、私のおかげだということを。彼女の生命を握っているのは、私だということを。・・・そこのところを、和子は、全くわかっちゃいないのだ。
 しかも和子は、本当に死にたがっているわけではない。ああやって、私の前で涙を流せば、例え自分の体は動かなくても、今まで通り、いや、今まで以上に、私を思うように動かせる。この時の和子は、そういう以前の和子に戻ってしまっていた。が、私は、そういう和子の言動を、何の不快感も無く、いや、むしろ、一種の快楽を以って受け入れていた以前の私ではなかったし、過去の自分に戻る気も、さらさら無かった。
 和子が次に意識を戻したら、彼女の口から出る言葉は、「死んだ方が、マシ」どころでは済まないだろう。彼女の言葉に射抜かれながら、私はまた、少しずつ、あの惨めな私に戻っていくのだろうか。―――そんなこと、させてたまるか。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑬

2005年11月08日 | 小説「ある男の物語」
 私は気が重かった。和子に気を遣いながら話をするのに疲れた訳でも、私自身話をすることで、またあの事故の直後の光景を思い出した訳でも無かった。
 私は嬉しかった。単純に、和子の意識が戻って嬉しかった。それが、たとえ、あの医者や看護士のような大げさなリアクションになって表に出なくても、だ。が、和子が目覚めた驚きと喜びが徐々に落ち着きを見せると、少しずつ、自分でも気づかないうちに、自分の中に、沈んだ気持ちが大きくなってきていた。そして、気づいたのだ。・・・今の和子はもう、あの従順な和子ではない。何も言わず、何の抵抗もしない和子はもういない。私の優越感を満足させてくれはしない。―――そして、もう2度と、私は彼女を支配することはできなくなったのだ。

 それが、私の言葉の端々に出ていたのだろうか。私は、1年目は初めての介護で、こんなふうに苦労した、とか、3年目の夏がどれほど暑かったか、とか、話を前後させながら、和子に語りかけていた。さっき私に飛びついてきた若い看護士が病室に入って来て、点滴の交換をし始めた時、和子は、天井を見つめながら一すじ涙を流し、ゆっくりと瞼を閉じた。私が、看護士の向かい側で座っていた丸椅子から立ち上がり、ベッドの脇に手をついて和子の流した涙を拭こうと、ハンカチを持った右手を彼女の顔に近づけると、彼女はふいに目を開け、看護士の影には目もくれず、私の手を振り払うような視線を、真っ直ぐに私に向けた。そして、つたない言葉で、私にこう言ったのだ。


「死んだ方が、マシ。」


―――彼女はそう言って、その日、再び昏睡状態に落ちた。


(つづく)

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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑫

2005年10月18日 | 小説「ある男の物語」
 医者は、和子が、5年もの間眠り続けていたこと、そしてその間、私が、どれほどの熱意と愛情を注いで看護をしてきたかを、彼女に語り始めていた。彼女は、目覚めたばかりの意識と、同じように5年間眠り続けてきた筋力を振り絞って、顔を私の方に向け、助けを求めていた。私は、医者と看護士がなすべきことを終えると、2人だけにしてもらうよう彼らに言い、彼らが病室を出て行ったのを見届けると、和子が不快に感じない程度に、ぽつりぽつりと、今までのことを自らも振り返るように、彼女に話し始めた。
 和子は、話を遮ることもなく、相づちさえ打たずに、ただ、時折、また眠りに就くかのように、まぶたを閉じては、力無く目を開き、天井を見つめたりしていた。私の話は、どこで終わり、という訳でもなく、沈黙の合間に独り言をつぶやいている、という感じで、あの事故のことに関してはなるべく触れないようにしていた。しかし、この、目の前にある現実の姿のきっかけがあの事故である以上、言葉には出さなくても、私の語るその全てが、あの悪夢を思い出させてしまうのは、無理も無い話だった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑪

2005年10月06日 | 小説「ある男の物語」
 私がいつものように、朝、病室を訪れ、和子の足元を通り過ぎて、カーテンを開け、朝日とともに冷ややかな空気を入れるために窓を開けると、その光と空気の流れを、和子が感じ取っているような気配がした。私は最初、それがどういうことなのか気づかずに、いつも通り、和子に、一言二言話しかけていたが、今見ている和子の姿が、いつもとどこか違っているような気がして、改めて彼女を凝視した。すると、彼女のまぶたに、ゆっくりと強く、ぎゅっと力が入った。和子は、自分の体の細胞の1つ1つが、5年前と変わらず、そこに存在しているのを確認していくかのように、少しずつ少しずつ、筋肉を小さく痙攣させていった。私は、「無」と信じていたそこから生まれる「生」を、瞬きもせず見つめていたが、ついに、和子が目を開き、微かな声を発する直前になって、震える手で、ナースコールを押した。
 医者と、2人の看護士が飛んできて、和子が覚醒したことを確認した。特に、2人のうち、若い方の看護士は、涙を流しながら、私に飛び掛らんほどの勢いで抱きついてきて、言葉にならない奇声を発していた。もう1人の看護士と医者は、和子の名を呼びながら、てきぱきと、計器の数値などを確認していたが、その声は、興奮ぎみに震えていた。
 私は、ただ、腰が抜けたようになっていたが、どうにか、彼らの邪魔にならない病室の片隅に避難した。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑩

2005年09月26日 | 小説「ある男の物語」
 それから、1年、また1年と、和子が、ただの一時も目覚めること無く、時は過ぎていった。そして私は、その間、1日も休まず、和子に語りかけ、和子の体を拭き、和子の下の始末をした。毎日毎日、毎日毎日だ。毎日毎日、毎日毎日、その繰り返しだった。ただただ、その繰り返しだったが、私は、嬉しかった。それまでの無気力な私だったら、それはなぜかと問われたら、「ただ何も考えずに和子の世話をすることで、彼女に尽くすことができるから」と答えただろう。しかし、私の心は、日々、少しずつ変化していたのだ。
 何も語らず、少しも動かない彼女を支配している、という優越感で、私は毎日、嬉々として、和子の世話を自ら買って出ていたのだ。和子が生きるも死ぬも、私次第だった。どんなに汚いことでも、どんなに力のいることでも、その一点で、私は乗り越えてこられたのだ。
・・・言い訳に聞こえるかもしれない。私は、和子を愛していた。それは、紛れも無い事実だった。ただ、その愛情の形が変わったのだ。私と和子の位置関係は、完全に、逆転していた。私は、逆転した、この時の私の立場に満足していた。しかし、覚醒した和子が、この状況と自分の立場に満足するかは、全くの疑問だった。


 和子が、私に従順になってから4年が過ぎ、あの事故から5回目の夏が来て、夏にしては涼し過ぎた残暑も終わりを告げようとしていたある日、和子は、突然、目を覚ました。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑨

2005年09月19日 | 小説「ある男の物語」
 和子は、器械に生かされたまま1年を過ごし、そんな和子を毎日欠かさず見守り続けてきた私も、1つ年を取った。
 そんな頃、主治医の先生は、改まった顔で私にこう言った。
「水谷さん、もし、身体的、経済的、もしくは精神的にも、もう奥さんの介護を続けていくことができない、という状況になったら、いつでも私に相談してください。」
私が、それはどういう意味なのかと尋ねると、和子の意識が1年戻らなかったことで、これから先、意識が戻る可能性が少しずつ減っていること、そして、そうなった今、私には、二者選択ができる、と言うのだ。1つは、和子の快復を、その低い可能性に賭け、看護を続ける。そして、もう1つは、和子の死ぬ権利を尊重し、一切の器械を停止させる。・・・つまり、「安楽死」だ。

 「安楽死」――― その時の私には、思ってもみなかった選択肢だった。私は、その言葉を口にすることすら罪深いような気がして、その言葉を、頭から追い払うように、私が生きている限り、和子の生命力に賭けたい、と言った。医者は、普段はおとなしい私が、そう言い切ったのを見て、そこに、かけがえのない夫婦愛を見たかのように、ほっとしたような、残念そうな顔をして、一言、「そうですか」と言い、それきり、その話題に触れることは無かった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑧

2005年09月09日 | 小説「ある男の物語」
 しかし、肝心の私はというと、和子に対して、何もしてやれずにいた。ただ、ベッドの横にいるだけだった。医者は、
「それが、何よりも大事なことなんですよ。奥さんにとっても、あなたにとっても、ね。」
と言った。たぶん、私が和子の意識が戻るのを願うことが、私の毎日のはりにもなっていたのだろう。
 初めの頃は、ただ和子の横に居て、自分自身も意識を失ったかのように、呆けたように何も考えられずにいたが、2ヶ月を過ぎた頃になると、私は、和子に、言葉を掛けられるようになっていた。そして、半年を過ぎると、看護婦に任せきりだった和子の世話を、全て任せてもらえるようになった。和子がいることで、私の心の傷は、完全に消えたようだった。
 

 今考えると、あの時ほど、私の人生が充実していた時はなかったかもしれない。仕方なく会社に行き、与えられた仕事を仕方なく処理し、他に行く所も無いから、仕方なく家に帰って来る、という、それまでの私には味わったことの無い感覚だった。今、自分が、自分にしかできないことをしているという気持ちと、あの和子が、今、私無しでは生きることさえできずに、私に助けを乞うている、という事実が、私に自信をつけさせたのだ。
 私はこの時、57歳だった。和子の意識が戻る前に、私が病気になって、和子の世話ができなくなることもあるだろう。世話ができなくなるどころか、事故や病気によって、突然死んでしまうことだって、あり得る。もし、そうなったとしたら、・・・いや、もしそうなっても、和子が1人で生き延びることはできはしないし、その方が、私にも和子にとっても、幸せであるのに違いは無かった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑦

2005年08月29日 | 小説「ある男の物語」
 「奥さんの体は、今、生きる意欲を失っています。心臓をはじめ、胃、肝臓、すい臓、肺、腸などのあらゆる器官が、徐々に運動を止めようとしている。つまり、緩やかな“死”です。だから、完全に運動が停止する前に、人工的に、心臓や肺などに、機械を取り付けることになります。・・・おそらく、肉親を失ったショックが大きすぎたために、“生きる”という現実を受け止められなくなっているのでしょう。」
医者はそう言った。しかも、いつ、どんなきっかけで元に戻るのかもわからない。それが、1週間後なのか、10年後なのかも、わからないのだ。
 病院側は、私が頼むまでもなく、良心的に、和子の入院と完全看護を保障してくれた。医者が、和子の状況を把握できるばかりでなく、退院したばかりで、精神的なケアに関しては、和子に劣らず必要な私も、和子の見舞い等で来院した際に、夫婦揃って診察してもらえる、というわけだ。

 私は、定年を待たずに仕事を辞め(もちろん誰も、私を引き止めはしなかった)、毎日、病院に通った。
 和子は、人口呼吸器を取り付けられ、鼻に入れた管から流動食を流し入れたり、腕の血管から点滴をしたり、他にも、たくさんの装置にとり囲まれていた。ベッドに横になっていても、いびきもかかず、泣いたりわめいたりしないので、他の患者さんと相部屋になっても別に支障は無いのだが、和子に取り付けた機器類が、もう1人、患者が同室できるほどのスペースを必要としてしまうのだ。どの装置も、和子を生かすために、毎日、懸命に動いていた。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑥

2005年08月21日 | 小説「ある男の物語」
 私は退院し、タクシーで自宅に戻った。そして、和子が1人で抱えている悲しみというとてつもない重荷を、一刻も早く降ろしてやらなければ、という一心で、和子の名を呼んだ。
 和子は、居間のソファーに、1人で座っていた。――あの事故の前に、私を送り出した時と同じブラウスとスカートと化粧で、彼女はそこにいた。が、いつもの彼女でないのは、明らかだった。派手な色と、柄の大きな洋服を、通信販売のカタログモデルのように着こなす彼女らしくなく、半袖のブラウスのボタンが、上から2つも開いており、襟が、だらしなく胸元を見せていた。紺色のスカートは、涼しげで、ヒダのないくるぶしの少し上までの長いフレアスカートだったが、深いシワが何本も刻まれていた。
 はげかかった化粧の下の和子の顔は、私が彼女の肩を叩いても、何の反応も見せず、少し右に傾いたままだった。幾度となく、私は、彼女の肩を揺すり、名前を呼んだが、正気の彼女は、どこか遠くへ行ったっきり返って来る気配は無かった。私は諦めて、救急車を呼び、病院へ引き返した。

 つい1時間前に私を送り出したばかりの看護婦の1人が、病院の待合室で、違う患者と何か話し込んでいた。彼女は、私が忘れ物をして戻って来たのだろう、と思い、「しょうがないわね」と言いたげに、微笑みながら気軽に近寄って来たが、移動用のベッドに寝かされている和子の様子が普通でないのを見ると、その笑みは瞬時に消え、ほんの少し急ぎ足になった。・・・彼女が、「どうかしたんですか?」と、今にも声をかけてきそうなのを見て、私は、和子の肩に添えていた左手に、ぎゅっと力を入れた。

 さて、何をどう説明したらいいのだろうか。

 説明すべき事柄も、手段も、わからない。“和子が普通じゃない”。私がわかるのは、ただ、それだけだった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ⑤

2005年08月15日 | 小説「ある男の物語」
 私はあの時、シートベルトをしていたおかげで、首と腰を痛めるだけで済んだ。が、年齢的にも、この際、検査入院した方が良い、という医師の言う通りにした。私は、事故の様子を聞くために病室に足を運んだ2人の警官から、息子たちが即死の状態で、あの現場から運ばれて行ったことを聞いた。2週間の入院中に、数回、検査のために病室から離れる時以外の時間で、いやというほどに打ちひしがれ、こうなってしまったことを後悔し、彼らの死に、直面させられた。一面真っ白な病室の中で、これほどまでに彼らの亡霊に悩ませられ、狂っていくさまが、よく、検査の結果にひびかないものだと、呆れ返るほどだった。私は、毎日症状を問診しに来る主治医や、血圧を計りに来る看護婦や、私の見舞いに訪れる全ての人間が、
「この人、一度に3人もの家族を失ってしまって、かわいそうに。・・・でも、それは全て、この人のせいなんだ。」
と、無言で語る視線にさらされながら、ひたすら、和子が私に会いに来てくれるのを待った。
 和子になら、「あなたのせいよ!」と罵られても、それをそのまま受け入れられると思った。「あなたが死ねば良かったのに!」と、私を罵倒しながら流す涙を拭いてやれるのは、私しかいない、と確信していた。しかし、和子は、罵ることも、涙を流すこともしないばかりか、一度も、私の見舞いにやって来なかった。
 私は、和子が、私と同じように、最愛の息子や孫の死に打ちひしがれながらも、それを分かち合ってくれる存在も無いまま、葬儀等をこなしていると信じていた上に、和子1人に、そんな辛い思いをさせて、2週間も、ただ黙って入院をしていた自分を、責めてさえいた。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ④

2005年08月06日 | 小説「ある男の物語」
 あの時、そう、夏の日のあの一瞬、私が、どうにかして、前の車を避けてさえいたら、あの時、私が息子に運転を代わり、嫁と孫を助手席に座らせてさえいたら、あの時、私があの現場に車を走らせてさえいなければ、・・・息子たちは、死ぬことはなかったかもしれない。――そして、あの時、和子が、あんなことを言い出さなければ、私の家族が、それぞれの死を、こんな形で迎えることはなかったのだ。

 ――あの出来事が、20台を越す車による大事故であったことを、その場に巻き込まれていた、張本人である私が認識したのは、新聞の記事に載った事故車の写真の量と、3人の家族を一度に失ってベッドに横たわる私にマイクを向けるリポーターの多さだった。
 あの事故に巻き込まれた人たちのほとんどが重軽傷を負ったにも関わらず、死亡者が極端に少なかったのは、まさしく、不幸中の幸いだった。・・・私が、この事故を、第三者として、新聞を読んで知ったならば、真っ先にそう思っただろう。が、城山さん、何度も言うようだが、私は、そんな正当すぎる見解で弱い私想を殺してしまえるほど、強い人間ではないんだ。

 ――あの事故による死亡者は、3名。・・・その、たった1つの現実。それだけで、私の人生は終わったも同然だった。が、終わってしまったのは、あくまで、息子たち3人の人生で、不幸にも、私と、そしてもう1人、和子のそれは、あの時終わることはできなかった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ③

2005年07月24日 | 小説「ある男の物語」
 私たちは幸せだった。妻が夫を尻に敷く、いわゆる、ごく一般的な夫婦だった。和子はまもなく男の子を産み、その子が30歳の声を聞くまで、私たちの幸福は、それ以上になることも、それ以下になることもなかった。
 たった1人の息子は、顔は私に似て地味だったが、性格的には、和子に似て能動的で、いつも近所の奥さん連中に、
「あなたはお母さん似ね。」
と言われていた。和子は、強い妻から、強い母へと姿を変え、それは、息子が28歳で結婚しても、彼に常に強い影響を与え続けた。和子の、母性という愛情のはけ口が息子から離れたのは、私たちに孫ができてからだった。和子は、息子の時には持てなかった、女の子に対しての“かわいい洋服を着せてあげたい”という欲求を抑えることができず、一日も早く孫の顔が見たいと言い張った。それは、表向きには決して激しくぶつかることがないかわりに、胸の奥に、一本折れることの無い主張を持った嫁をも、
「親子3人、揃ってお義母さんたちに会いに行きます。」
と言わしめたほどだった。

 息子は、車を持ってはいたが、軽乗用車で、荷物と、退院後3週間しか経っていない嫁と孫がゆとりを持って乗れるほどの代物ではないので、私が自分のワゴン車で彼らを迎えに行くことになった。日が傾きかけてきても、いっこうに陰りをみせない蒸し暑さに、私は少しうんざりしていたが、今から行けば今日中に戻って来られるから、という和子の言葉と一緒に玄関から押し出され、和子の視線に急かされるように、ワゴン車に乗り込んだ。
 もう少し早い時間なら、車で2時間はかかる距離だったが、以外に早く、1時間半をほんの少し越えるくらいで、嫁の実家に到着した。それが、その後の出来事を誘発する油断に繋がったのかもしれない。私は、息子が運転を代わると言うのにも関わらず、息子に、3人とも後ろの席に座ってくつろいでいるように、言った。
そうやって出発してから約1時間後、ちょうど高速道路を走っている時だった。・・・たぶん居眠りでもしていたのだろう。前を走っていた車が、蛇行し始めたかと思うと、急にブレーキランプが点いて、止まった。私は、車間距離を取ってはいたが、道路の真ん中で止まってしまった車を避け切れず、急ブレーキの後、衝突した。その時の衝撃が、覚悟していたものより小さなもので終わり、ほっとしていたところに、バックミラーに納まり切らないトラックの車体が目に入った。



 ――その後のことは、・・・何も覚えていない。ただ、ただ、後に残ったのは、私は生き残り、息子と嫁と孫の3人は、残らず死んでしまったという現実だけだった。


(つづく)
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小説「ある男の物語」2、老人の遺書Ⅰ②

2005年07月14日 | 小説「ある男の物語」
 私は、25歳の時、和子と知り合った。和子は、22歳だった。私が、大学を卒業して、ある食品会社に勤め始めた時、和子は高卒でその会社に勤めてすでに3年目に入っていた。和子は、お茶くみの合間に、経理やコピーなどの仕事をしているような女だったが、いつまでたっても営業成績が上がらない私なんかよりは、ずっと生き生きとしていた。
 私が入社した日の歓迎会で、私は、和子に初めて声をかけられ、和子たち女子社員の制服が半袖になる頃、和子は私を、“秀男”と呼ぶようになった。
 その後も、私が和子に曳かれるような形で、2人の仲は深くなり、和子の言う、“2人が運命の出会いをした記念日”を待たずに、私たちは結婚した。

 当時、私は、会う人ごとに『プロポーズの言葉は?』と聞かれ、そのたびに、『特に無い。』と答えていた。そして、またそれが、同僚たちが幸福な2人をより一層はやし立てるネタとなったのだが、同僚の羨ましげな視線をこちらに向けさせるためにそう言ったのではなく(私がそんな計算高い人間でないのは、城山さんもわかっていると思うが)、本当に“私の方からプロポーズをした”という記憶が無かったのだ。
 あの時、和子と結婚したのは、今思えば、和子の“結婚したい”との思いが強まった時に、彼女の目の前に私がいた、という事実と、それによって引きずられるように結婚した自分が心地良かったからに他ならない。和子にとっては、主導権を握ることが私への愛情であり、その中で漂って生きることが、私なりの、彼女への愛し方だった。私は、我慢してそうしていたのではなく、そうすることが、この上なく楽だった。・・・いや、楽というよりは、一種の快楽に近かった。


(つづく)
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