ロシアの地で孤立状態にあるドイツ第6軍司令官の、フリードリヒ・パウルス陸軍元帥以下、ドイツ軍20個師団とルーマニア軍2個師団を救うため、12月12日、マンシュタイン将軍が南西部から攻撃を加えた。彼の部隊はスターリングラードへ30マイルの地点まで進出した。参謀本部は総統に、パウルスが包囲網を突破し解放軍と合流するのを認めるよう求めたが、総統は、11月にロシア軍が進攻してきた際の撤退と同様、これを許さなかった。案の定マンシュタインの陣営は、ドン川のずっと上流にいたロシア軍にイタリア軍の戦線を突破され、危険な状態に陥った。救出部隊はパウルスたちの運命を天に任せて、止むを得ず撤退し、ロシア軍に包囲された20万のドイツ将兵は、既に絶滅に瀕してしまっていた。
年の明けた1943年1月8日、ロシア軍の指揮官はパウルスに、名誉ある降伏のための条件を提出した。回答の期限は、24時間だった。しかし総統は、またしてもパウルスに、「持ちこたえよ。」とだけ命じたのである。最後通告の期限が切れてから1日後に、ロシアの多数の大砲は砲撃を開始し、あっと言う間にドイツ陣営は半分になってしまった。さらにロシア軍が包囲網を狭めて行ったために、残された少ないドイツ軍は、2つに分断された。
1月24日、ロシアは新たな条件の提示を行い、改めて降伏を促したが、総統は無線でこうパウルスに命じたのである。
「降伏は許さぬ。我が軍は最後の1兵まで現地点を死守せよ。西欧世界の救済のために!」
総統が我が国の政権を獲得した10周年にあたる1月30日、パウルスはこう返事を送った。
「最後の壊滅は、24時間以内に迫った。」
そして、その後まもなく、彼はわずか数十人の生存者と共に、降伏した。
総統はこのことを、「ドイツ陸軍がこれまでに初めて受けた最大の敗北」と呼び、5日間喪に服すようにドイツ国内に命じたが、今や戦争の嵐がドイツに向きを転じたのは誰の目にも明らかだった。ドイツ国内で喪に服したあの5日間が、それを暗示していたのだ。スターリングラードでの敗北が、その後必ず訪れるであろう運命を予言し、私たちに黒服を着せたのだった。総統は今まで、一度も敵対国の実像を正確に把握したことは無かった。外国を一度も訪問したことが無く、ドイツ語しか話せない彼が、イギリス人、フランス人、アメリカ人、ロシア人などの精神構造を理解するという方が無理な話だった。
総統は、ルーズベルト大統領の謙虚さを、自国がヨーロッパの抗争に巻き込まれることに対する気の弱さと評価し、スターリン率いるロシア軍の強大さをひどく低く評価していた。総統の目には、ルーズベルトは哀れな不具者、チャーチルは救いようの無い飲んだくれ、スターリンは殺し屋、山賊、としか映っていなかった。また、我がドイツ軍は、一突きでロシアを屈伏できるし、イギリスを容易く侵略でき、フランス軍は無力に等しいと言い放ち、アメリカはヨーロッパの戦争には絶対に加わらないと信じて疑わなかった。
彼が政権の座に就いた当初は、万事が思い通りに進んでいた。ラインランド進駐、チェコスロバキア占領、さらにはオーストリアの併合も、民主主義国家に阻まれることは無かった。彼は血を流すこと無く各地を征服し、勝利を次々に治めていった。さらにその後、ベルギーを占領し、わずか2~3週間のうちにフランスを制圧した。彼の出足は申し分の無いものだった。・・・が、しかし、その後戦争の風向きは変わったのだ。
「カルタゴは、3度戦争を行なった。1回目の戦争の後も同国は強大だった。2回目の戦争後も、まだ住むことはできた。しかし、3回目の戦争によって、消滅した。」
そう言ったのは、ドイツの作家、ベルトルト・ブレヒトであった。快楽主義に埋もれている彼に、私は好意を持ってはいなかったが、彼が言ったこの言葉に、私は好感を持っていた。・・・この言葉通りの運命を、我がドイツがたどることは無いと、誰が断言できるだろう。
私はいつものように、午前9時に総統の別荘に着き、エバ・ブラウンと少し言葉を交わして部屋のドアを開けた。そこには、総統もボルマンもいなかった。しかし、どこかで見たことのある、懐かしい、そしてわずかに殺気立った1人の男が、窓の方を向いて立っていた。彼はしばらくして、ドアの開く音を聞いて振り向いたが、私は彼が振り向く前に、彼が何者なのかがわかっていた。私にとっては、忘れようにも忘れることのできない、唯一の人間であった。
彼がこちらに視線を向け、私たちは互いの姿を眺め合ってはいたが、互いに、言葉をかけることも目を合わせることも無かった。いや、あまりにも再会が突然であったので、そうすることを忘れてしまっていたのだろう。私が、ドアのノブをつかんだまま中に入ることさえ思い出せずにいると、玄関から、こちらに向かって来る話し声が聞こえてきた。
(つづく)
年の明けた1943年1月8日、ロシア軍の指揮官はパウルスに、名誉ある降伏のための条件を提出した。回答の期限は、24時間だった。しかし総統は、またしてもパウルスに、「持ちこたえよ。」とだけ命じたのである。最後通告の期限が切れてから1日後に、ロシアの多数の大砲は砲撃を開始し、あっと言う間にドイツ陣営は半分になってしまった。さらにロシア軍が包囲網を狭めて行ったために、残された少ないドイツ軍は、2つに分断された。
1月24日、ロシアは新たな条件の提示を行い、改めて降伏を促したが、総統は無線でこうパウルスに命じたのである。
「降伏は許さぬ。我が軍は最後の1兵まで現地点を死守せよ。西欧世界の救済のために!」
総統が我が国の政権を獲得した10周年にあたる1月30日、パウルスはこう返事を送った。
「最後の壊滅は、24時間以内に迫った。」
そして、その後まもなく、彼はわずか数十人の生存者と共に、降伏した。
総統はこのことを、「ドイツ陸軍がこれまでに初めて受けた最大の敗北」と呼び、5日間喪に服すようにドイツ国内に命じたが、今や戦争の嵐がドイツに向きを転じたのは誰の目にも明らかだった。ドイツ国内で喪に服したあの5日間が、それを暗示していたのだ。スターリングラードでの敗北が、その後必ず訪れるであろう運命を予言し、私たちに黒服を着せたのだった。総統は今まで、一度も敵対国の実像を正確に把握したことは無かった。外国を一度も訪問したことが無く、ドイツ語しか話せない彼が、イギリス人、フランス人、アメリカ人、ロシア人などの精神構造を理解するという方が無理な話だった。
総統は、ルーズベルト大統領の謙虚さを、自国がヨーロッパの抗争に巻き込まれることに対する気の弱さと評価し、スターリン率いるロシア軍の強大さをひどく低く評価していた。総統の目には、ルーズベルトは哀れな不具者、チャーチルは救いようの無い飲んだくれ、スターリンは殺し屋、山賊、としか映っていなかった。また、我がドイツ軍は、一突きでロシアを屈伏できるし、イギリスを容易く侵略でき、フランス軍は無力に等しいと言い放ち、アメリカはヨーロッパの戦争には絶対に加わらないと信じて疑わなかった。
彼が政権の座に就いた当初は、万事が思い通りに進んでいた。ラインランド進駐、チェコスロバキア占領、さらにはオーストリアの併合も、民主主義国家に阻まれることは無かった。彼は血を流すこと無く各地を征服し、勝利を次々に治めていった。さらにその後、ベルギーを占領し、わずか2~3週間のうちにフランスを制圧した。彼の出足は申し分の無いものだった。・・・が、しかし、その後戦争の風向きは変わったのだ。
「カルタゴは、3度戦争を行なった。1回目の戦争の後も同国は強大だった。2回目の戦争後も、まだ住むことはできた。しかし、3回目の戦争によって、消滅した。」
そう言ったのは、ドイツの作家、ベルトルト・ブレヒトであった。快楽主義に埋もれている彼に、私は好意を持ってはいなかったが、彼が言ったこの言葉に、私は好感を持っていた。・・・この言葉通りの運命を、我がドイツがたどることは無いと、誰が断言できるだろう。
私はいつものように、午前9時に総統の別荘に着き、エバ・ブラウンと少し言葉を交わして部屋のドアを開けた。そこには、総統もボルマンもいなかった。しかし、どこかで見たことのある、懐かしい、そしてわずかに殺気立った1人の男が、窓の方を向いて立っていた。彼はしばらくして、ドアの開く音を聞いて振り向いたが、私は彼が振り向く前に、彼が何者なのかがわかっていた。私にとっては、忘れようにも忘れることのできない、唯一の人間であった。
彼がこちらに視線を向け、私たちは互いの姿を眺め合ってはいたが、互いに、言葉をかけることも目を合わせることも無かった。いや、あまりにも再会が突然であったので、そうすることを忘れてしまっていたのだろう。私が、ドアのノブをつかんだまま中に入ることさえ思い出せずにいると、玄関から、こちらに向かって来る話し声が聞こえてきた。
(つづく)