ある小さな街の郵便局には通常の郵便物を扱う1番から3番窓口の他に、特殊な郵便物を扱う
ゼロ番窓口があります。担当するのは先週で定年退職した局員の息子さんです。
横田:あら、新人さんね。手紙を出しに来たのよ。受け取ってもらえる。
局員:はい。今日が窓口勤務初日なのです。よろしくお願いします。お客様は横田サチさん
ですね。あの~、この封筒には宛先の住所が書いてないですよ。
横田:そうよ。だって宛先が無いところへ出すのですからね。当たり前じゃない。
局員:分かりました。この封筒はあのお手紙ですね。前任の父から聞いています。それでは
ここにある専用ポストに入れてください。
横田:あら、新人さんが来るとは聞いていたけど、あなたは前の方の息子さんなのね。そう
なの、よろしく。あら、新しいポストができたのね。はい、入れましたよ。ところで
新人さん、私へのお手紙は来ていませんか?毎年この日に主人と手紙のやり取りをし
ているから来ていると思うのだけど。
局員:着いていますよ。受け取れるのはゼロ番窓口です。そこにはすでに来られているお客
様がお待ちです。そこでお並びください。私がこれから移動してお渡ししますね。
新人局員はゼロ番窓口に移ると、専用の受信棚にある封筒の束を取り出しました。
局員:あれ、朝、確認した時は二通だったのに三通あるぞ。後で一人来るのだな。まず、
一通目だ。樋口ヨネさん、お待たせしました。お受け取り下さい。
樋口:ありがとう。毎年、この日を楽しみにしているの。でも、主人の手紙はいつも同じ文
面なのよ。私はもう手紙の一字一句を丸暗記してしまっているけれど、それでもこう
して毎年手紙を受け取りにここへ来ちゃうの。だって受け取って帰る時、私の気持ち
は娘時代に戻れるからね。
局員:同じ文面のお手紙を楽しみにしているのですか?何が書かれているのかな~。
樋口:若い新人さんで、それも男性の方にお話するのは恥ずかしいわね。でも、私も年だし、
ま~いいか。私は最近の出来事を手紙に書いているけれど、主人の返事はいつも、私
に初めてくれたラブレターなのよ。決して上手な字ではないのよ、でも心のこもった
内容なの。あら、私、言っちゃったわ。恥ずかしいからもうこれ上聞かないでね。
それでは、サチさん、お先に失礼します。
局員:お気を付けてお帰りください。 なるほど、ラブレターですか。この棚にあるのは良
いお手紙なのだな~。さて、二通目だ。横田サチさん、お待たせしました。この封筒
は樋口さんのより随分と厚いのですね。サチさんもラブレターですか?聞いちゃいけ
なかったかな。
横田:いいわよ、私の手紙は新しいお献立のレシピが中心なのよ。私はこれを見ながら自分
の食事を作っているの。私の主人は栄養士の免許を持つコックだったから、この献立
通りに作れば、いつも美味しく頂けて健康でいられるの。だから、毎年書いてある内
容は違うのよ。
局員:そうですか。この棚のお手紙は、受け取る人を幸せにするのですね。
横田:そうよ。だから、こうして命日の日になるとみんながここに来るのよ。明日も誰かが
きっと来るわね。確かに受け取りましたよ。それじゃ、ありがとう。
局員:アッ、ハイ、ハイ。ありがとうございました。美味しい食事を作ってくださいね。
ところで、サチさんとヨネさんはお知り合いなのですか?
横田:どうして?そうか。私のことを「サチさん」と呼んでいたからね。でも、私はあの方
には初めてここでお会いするのよ。あの方は樋口ヨネさんと言うのよね。私もあの方
の名前が分かるの。あら、どうして知っているのかしら?それに、どうしてあの方は
私の名前を知っているのかな?そういえば、貴方も私の顔を見ただけで、私の名前を
呼んだわね。不思議ね。
局員は答えることができません。局員と横田さんは首をかしげるばかりです。暫くして、横
田さんは封筒を嬉しそうに胸に抱えて帰っていきました。受信棚にはまだ一通の封筒が残っ
ています。
局員:この封筒は誰のだろう。お客さんが来た。田辺茂雄さんだ。手紙をあのポストに入れ
たぞ。そうかこの手紙は田辺さんのだ。声を掛けよう。田辺さ~ん。ゼロ番窓口にお
越しください。お手紙が来ていますよ。
田辺:は~い、私が書いた手紙はここにある新しいポストに投函したけど、それでいいんだ
ろう。
局員:はい、そうです。ゼロ番窓口でお待ちかねの封筒をお渡しします。お受け取りください。
田辺:ありがとう。この命日の日の手紙交換は、この郵便局でしか扱っていないからな。
ここへ来るのはわが家から少し遠いけれど仕方がない。あれ、家内の封筒の厚さが私
のより薄いな。これじゃ、すぐに読み終わってしまうじゃないか。もっといっぱい書
いてくれればいいのにな~。
局員:それでも、随分と厚いと思いますけどね。あの~、もしよろしければ、どんな内容な
のか教えてくれませんか。
田辺:家内は去年亡くなったばかりなので、今年が初めての手紙交換なんですよ。だから私
も何を書いていいのかわからないので、葬儀の後にこんなことがあったとか、孫が言
葉を話すようになったとか、庭の花壇の手入れの様子といった出来事を書いたのだけ
ど、家内からの手紙の内容は帰って読んでみなければわからないな。
局員:そうですよね。立ち入ったことを聞いてごめんなさい。私は前任の父からこのゼロ番
窓口の担当を引き継いだのですが、今日が初日なのです。ここのお手紙の取り扱いに
は不慣れなので、どうか気分を害さないでくださいね。
田辺:君も新人さんなのか、僕も今年からここに来るようになった手紙差し出しの新人だ。
だから気にすることはない。これからは毎年、この日におじゃまするよ。よろしくね。
三人を見送った新人局員は、この郵便局のゼロ番窓口の大切な役割を強く自覚しました。そ
して空っぽになった受信棚を眺め、明日は何通くるのかなと思いを巡らせました。
局員:親父が〝ゼロ番窓口は特別な窓口だ〟と言っていたけれど、このことだったんだな。
これからも、あのポストとゼロ番窓口はこの街の人たちに大切に利用されるのだろう
な。横田サチさんの話もそうだけど、田辺さんにしても、どうして、今日初めて会っ
た人たちなのに、お顔を見ただけで、お客様の名前が自然に口から出てきたのだろう。
私とゼロ番窓口の利用者さんとの間には、何か特別な絆で結ばれているのだろうか。
どう考えても理解できない。ゼロ番窓口のことについて、もっと親父に聞いてみよう。
この街にある郵便局のゼロ番窓口は特別な窓口、悲しいけれど、温かい窓口なのです。