Dream Gate ( 中野 浚次のブログ )   

本日はようこそ開いてくださいました!お芝居のことグルメを語ります!


          

渋谷から生まれた極上塩らーめん   -俺流塩らーめん 文化村東急前店 ー

2018-02-16 | グルメ

 

 

もともとワタシは"チエ―ン店”のある店は敬遠する。関西弁でいえば「スカン」なのである。

昨年の師走だった。文化村にあるコクーンのお芝居が夕方5時すぎにハネた。

仲間うちの忘年会が7時の約束だった。

まだ2時間もある!!

ごったかえす渋谷の文化村通りで、ふと足をとめたのが「俺流塩らーめん」と看板に書かれたらーめん店だった。 

 

その店はビルの一階にあった。

 何気なく店にはいると、どこか元スマップの香取慎吾に似た店員が「いらっしゃい」と威勢がいい。 

私は店の名物らしい「俺流塩らーめん」(画像・上掲670円を注文した。

「麺の硬さはどうします?」即座に店員が問うてきた。

私は「フツウ」とこたえてカウンターに座った。

カウンターのまえには、胡椒、らー油のほか刻み海苔、わかめ、梅干しだの、ずらりと香辛料がならべてある。

 

 

ちなみに、このお店は、塩らーめん一辺倒だが、ほかに唐揚げ,チャ—シュ、半熟卵がガックリの

「俺流男盛りらーめん」(画像・上掲950円がある。

それにニンニク味のつよい「俺流完熟らーめん」 870円もおススメ。

 

塩らーめんはシンプルで奥が深い。

この店のスープは、一見豆乳が入っているみたいだが、鶏ガラとゲンコツ(豚骨の一種)、ネギだけだそうだ。

それらをとろとろの弱火でじっくりと時間をかけてつくりあげたそうだ。

想像を上回る旨み、甘みたっぷりのやさしい塩らーめんでした。しかもアッサリ系なのがワタシにはうれしい。

 

オーナーの小林さんはシブヤで10年間らーめん修行してきた。

北海ラーメン、横浜家系、博多ラーメンと

いろんなジャンルの門をたたいた。

たどりついたのが、塩らーめんだったという。

ラーメン業界も毎年多くの店が出店し、多くの店が閉店していく。

俺流塩らーめんも開店当時、「流行でしょ!!」とか「イロモノ」と罵言を浴びた。

 

最近ワタシは、小津安二郎監督に真似てグルメ手帖をつくっているのだが、

すぐさまその手帖のラーメンの項に、「俺流塩らーめん」と書き足したのであります

 

それと、この店が”チエ―ン店”のひとつであることを、後で知った。

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大竹マジック全開の舞台  『欲望という名の電車』   -渋谷・シアターコクーン -

2018-01-05 | 演劇

 

私は若いころからテネシーウイリアムズの戯曲が好きで、多くのテネシー劇を見てきたが、なかでもテネシーの最高傑作といわれる

『欲望という名の電車』は、数えきれないほど見ている

これまで日本では杉村春子が1953年にブランチを演じた 文学座公演が最初だった。

残念なことに、この文学座公演は映像でしか見ていないが、杉村以外にも、水谷良重、東恵美子、岸田今日子、栗原小巻、樋口可南

子といった実力派の女優がブランチに挑戦してきた。

変わったところでは、篠井英介がブランチに挑んだことがある。

今回ブランチ役は大竹しのぶである。しかも大竹は15年前に蜷川幸雄演出でやっている。2度目のブランチ役である。

 

 

 ブランチ  大竹しのぶ

   

   スタンリー 北村一輝               ステラ 鈴木杏                 ミッチ 藤岡正明        

大竹しのぶ 達者な俳優だけあって、見るたびに感じる濃厚な”大竹マジック”は健在だ。

後半の狂気に至る部分は鬼気迫る”芸”を感じさせる。

大竹はまるでまばゆい多面体のようなブランチを演じる、かと思うと高慢でナルシステックで鼻持ちならない女に急変する。

また嬌声を上げて男に言い寄る娼婦のようになる。しかも悲痛なトーンだけでなく、喜劇的センスもたっぷりあって、観客に

笑いを呼び起こすのである。

しかし精神の繊細さゆえに現実を受け容れられないブランチという主人公が彷彿と立ち上がってくる気配がいささか

薄いのが欠点といえば欠点だろう。

 

  

 

ステラ役の鈴木杏はこの役をナチュラルに好演している。

肉感的もさることながら、声跡に透明感があるのがいい。

 

 

スタンリー役は映像畑で活躍の北村一輝が意外なほどの健闘ぶりで、しっかりと自分の役にしているのに好感がもてた。

ポーランド系という設定だが、もう少し引きしまった裸体を見せるセクシーな場面があってもよい。

ワイルドな男といった印象がいささか薄い。

ちなみに、前回の蜷川演出では、スタンリーは堤真一だった。この役には美男すぎる気もしたが、セクシーな魅力があった。

 

 ミッチ 藤岡正明

ブランチに惚れ込むミッチ役に藤岡正明

ミッチは、不器用でとても繊細な人 、それでいて男性的な魅力に乏しい。

そんな役どころを充分に計算して藤岡は好演した。

 集金人の若者 石賀和輝    

今回の拾い物は集金人の若者を演じた石賀和輝

すなおにトーンを抑えた芝居で、一場面だけだがその等身大の演技に感動した。

「星の王子さま」にふさわしい容貌で、この若者が登場することで,主人公ブランチの過去が暴かれるのである。

つまり、教え子に手を出して教師をクビになり、娼婦めいた暮らしをしていたブランチの荒んだ過去が、この場でちらっと垣間見せる

のだ。

 

 

今回のフイリップ・ブリーンノ演出はいささか説明的にさえ感じさせるわかり易さを主眼としたものだから、却ってブランチの演技が

「芸」の羅列に見えてしまう憾みがある。

それにしても終幕はみごとな演出だった。

医師と看護婦が紗幕越しに登場するのだが、本舞台のブランチのセリフに合わせるように、同じ歩調で現れる。

そして終幕……ブランチはポーカーの男たちに振り向きもせず、客席の通路を歩いて行く。その後に医師と看護婦が続く。

甘美な泣きじゃくりも、なまめかしいつぶやきも次第に高まっていくのだった。

いままでにない心憎い演出である。

                      (2017・12・14  渋谷・シアター・コクーンで所見)

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見ごたえのある鮮やかな≪舞台幻想≫の深さ  ジロドゥの『トロイ戦争は起こらない』  新国立劇場

2017-10-27 | 演劇

 

 久しぶりに「演劇」らしい「演劇」に出合った。

しかも現在演劇の本丸といわれる新国立劇場で、感銘の深さという点でこれは屈指の舞台だった。

「フランス古典劇」という高いハードルに意欲的に取り組み、有史以来、人類が絶えず直面してきたであろう問題を改めて考えさせられ

る骨太な舞台だ。

 作者ジャン・ジロドゥは、この地上から「戦争」がなくなることのない人間歴史の愚かさを、怜悧にそして詩的に描き出している。

紀元前1200年頃に起こった「トロイ戦争」。といえば「トロイ」対「ギリシャ」の戦争を想定するだろうが、開戦直前のわずか一日に絞って

ジロドゥはこれを劇化した。

 ギリシャ神話『イリアス』をモチーフにしながら、何よりも現代に呼応する舞台を創りあげた栗山民也の演出の功を多としなければなら

ない。

岩切正一郎の翻訳は、台詞にテンポがあり、何ら現代劇と変わらない。「古典劇」だからと敬遠される向きもあろうが、非常にわかり易く

かつ明晰である。

 

「戦争への憎しみが増すにつれ、殺したいという欲望が沸いてくる」 

 

 二村周平の舞台美術が出色だ。

いつの頃からか、ギリシャ劇、古典劇になると、ドームとか階段の装置が定番だった。

今回は回廊を思わせる半円形のセットがシンプルであり、歴史の渦を連想させた。

また、衣装や装飾(例えば王冠など)にも、ギリシャ劇特有の重々しいロープなど時代感のあるものはいっさい排除し、用いる

つもりは、さらさらなかったらしい。

 音楽は、一人だけの生演奏。金子飛鳥のバイオリン独特のスリリングな音色が、不穏な空気とうまくマッチングしていた。

 

      

 

 画像左から、鈴木亮平、一路真輝、鈴木杏、谷田歩 らの演技陣も魅力にあふれていた。

 エクトールの鈴木亮平は、かつて好きだったものが今ではもう好きでないという苦い意識。平和への希求。

徹底的に開戦を避けようとする姿を真摯に演じた。

誠実に吐く彼の台詞は観客の胸をうつ。前作『籟王のテラス』(赤坂ACTシアター)よりもかなりの進歩である。

 

「戦争は終わった。でも次のが待っている」

 

「今まで好きだったものをどうやって嫌いになるの? 聞かせて」

 

 対するエクトールの妻アンドロマックを演じる鈴木杏はエクトールの子を身ごもり、つねに戦争の予感におびえている。

明瞭な台詞、それに切迫感があり、本作いちばんの出来。

 

「鏡を割っても、そこに映っていたものはやっぱりそのまま残るんじゃない?」

 

 絶世の美女といわれたギリシャ王妃エレーヌの一路真輝の超然とし佇まいには圧倒される。

宝塚調をむしろ逆手にとって、洗練された長台詞、"美しい言葉”を朗々と演じたのはさすが。

 ギリシャの知将オデュッセウスの谷田 歩が、本来はシエイクスピア役者だが、今回は冷徹さ一辺倒で舞台の緊張感を高める。

 緊張感といえば、終幕近く、鈴木亮平のエクトールが谷田 歩とのはじめての対面。名目は話し合いだが、実は対決である。

「戦いだ、そこから戦争になるか ならないか」

  真っ赤な太陽を背に、二人だけのシーンは迫力があり、息詰まる瞬間である。

 

画像左 福山康平(トロイ王子) 右 江口のりこ(カッサンドル)

 

 

 終幕には、トロイ王子の福山康平とギリシャ王妃(一路真輝)のラブシーンが印象に残る。

戦争の門がゆっくり開いて、エレーヌがトロイリュスとキスするのが露に……。妖しくも美しい精妙な「なぞ」で私たちを魅惑したのである。

それは、あたかも歌舞伎の遠見を思わせた。

劇詩人ジロドゥの鮮やかな≪舞台幻想≫というべきだろう。

 

 エピローグで、エクトールの妹で予言者の江口のりこが、さめた口調で語る……。

「トロイの詩人は死んだ……これからはギリシャの詩人が語る」

 じつに苦い感動にあふれた終幕だった。

 

(2017・10・19   初台・新国立劇場で所見)  

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鱧料理の逸品!  京・伏見の花籠御膳      ~ 魚三楼(うおさぶろう)~

2017-07-04 | グルメ

 

このところ夏場は見たいお芝居がないので、先日、京都の伏見を散策してきました。

テレビ番組によくあるそれでなく、自分流のぶらりひとり旅もけっこう愉しかったです

 

伏見京町通。ご存知のかたも多いと思いますが、江戸時代から明治にかけて、伏見港に上陸した旅人は、この街道を京へむけて歩い

たものでした。

その街道通りに創業240年ちかくになる料亭「魚三楼」があります。

明和元年川魚料理をはじめてから今で八代目。京の町屋の情緒あふれる格子、蟲籠窓が見られる表構えは超老舗の風格があります。

 

その「魚三楼」に行ってきました。2回目の訪問です。

伏見の酒蔵元の舌の肥えた旦那衆にかわいがられれてきた料理は美味しくないはずがない。

季節に充ちた旬のおいしさはもちろんだが、包丁さばきのカッコよさは、老舗料亭の板場の心意気を感じます。

 

お昼どきのおすすめは、やはり花籠御膳(画像)。

季節の花をイメージさせる竹籠に、五花弁の器。

向付、取肴(巻玉子、北方かまぼこ、鰆味噌幽庵焼、酢取れんこんなど)

八寸、油物(海老かきもち揚げ、とゆゆば、青唐)

焚きあわせ(小芋、冬瓜、鱧黄金煮)

画像のほかに、椀(鱧、じゅんさい、花柚子、白瓜)、ちりめん山椒ごはん、香の物、、さくらんぼとマンゴの氷菓。

 

コンチキチン…コンチキチン…

祇園さんが近いこの頃。、なんといっても”鱧”が最高でしたね。旬の物を旬の季節に出し、美味しく食べてもらえる御膳。これが魚三楼

の信念なんです。

 

 

あまりの美味しさに、ひとりじめしたくなく、ダメモトで板場にもう一膳出来ないかと質して、OKをもらってから、近くに住むわたしの知人

を呼んじゃいました。

しばらくして、浴衣すがたの若い仲居さんが二本指をついて

「お連れ様がお見えになりました」

なんだか映画のワンシーンですよね。

きけば、この若い仲居さん。NHKの「美の壷」の#京の浴衣に出演したとか。道理で。ケイタイショップで店員の女の子が七夕で浴衣が

けしてるのと、どこかチガウ。品があります。

 

料理よし、行き届いたサービス、京らしい庭の佇まい、すべてが満足でした。

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マリアの首……それは惨酷のリアリズム     ~ 県芸術文化センター  ~   

2017-06-24 | 演劇

在りし日の浦上天主堂のマリア像

 

皆さんに

うちのお乳ばたっぷりのましておあぐっけんな。

とっても甘か     甘かとば。

そしてから

ゆっくり、皆さんのご相談にのりましよ、ね、ね。

 

マリアの首」の幕切れ、マリア像(マリアの首)はこう語りはじめた。

恐らく、マリアの乳をもっとも欲しがっているのは、作者の田中千禾夫自身ではないだろうか。

少なくとも、この「マリアの首」には、そのような願いが込められている。

 

かつて、浦上天主堂の正面には美しいマリア像が置かれていた。

しかしあの日、爆心地から500㍍にあった天主堂は一瞬のうちに壊滅する。

秋になって復員してきたひとりの神父が、がれきから奇跡のようにマリアの頭部を見つけた。かき抱くように持ち帰って大切にしたのが、

今日でいう”被爆マリア”である。

 

 

さて「マリアの首」の初演は1959年3月、作者自身の演出、渡辺美佐子の忍で新人会が俳優座劇場で上演した。

私が最初に見たのは、1973年俳優座による再演で、忍は佐藤オリエ、鹿は大塚道子の配役だった。

 

正直に云って、当時はあまりよくわからなかった。難解な芝居であった。高踏さを感じた。アンダーグラウンド演劇だとも思った。

しかし幕が下りたあと、なぜか妙に私の心に爽やかな贈り物をもらったような気がした。あの長崎弁の快いリズム、芥川也寸志の美しい

ギターの旋律に惹かれたのかもしれない。

 

 

物語は、一口で云えば娼婦をしながら、浦上天主堂の焼け跡に残されたマリアの首を盗み出そうとする女性3人と、男たちの話

である。

 

冒頭に私が難解だとか高踏だと云った。一つの例をあげると病室に寝ている矢張という学生と、看護婦の鹿が対話するシーンで、

突然、哲学的というか詩的で、抽象的な表現になったりする。

つまり原爆という社会的主題と、マリア崇拝という形而的主題をからませたところが、田中千禾夫の独創だし、それによって文体は多彩

となり、ドラマはいきなり重層的になる。

今回の再演を見て、改めて明晰な骨組みをまず肌に強く感じた。そして作者の怒りや祈りの重みを。

それでいて新鮮な抒情、緊迫感は、長い年月を経た今日でもすこしも色褪せていないのである。

 

 画像左より 伊勢佳世  鈴木 杏  峰村 リエ 

 

 主演の鈴木 杏は『元禄港歌』以来だったが、昼間は病院で看護婦、夜は淫売婦をしている鹿。鹿にはケロイドの疵があった。。マリア

崇拝者でもある彼女の心の中では、マリア像の首こそが、唯一無二の”神の存在”なのであろうと思わせるだけの切迫した心理をみごと

に表現した。

それに台詞もリアリズムと詩的な世界の切り替えのうまい役者さんだ。

 忍の伊勢佳世は、時には深く、時にはさりげなく自在な表現の豊かさ、細やかさ。この難役に挑んだ努力は買いたい。

 峰村リエの演じる静は、本来チョイ役で台本にはあまり書き込まれていないが、この人なりのベースを自分で創り、奔放で明るい人物

像をつくり上げて、鮮烈な印象を残したのには感心。本作品中いちばんの出来。

もう一つ。印刷屋の植字工室の場をカットこそしていないが、舞台端で簡単に処理したのには、物足りなく残念である。

その植字工、老医師の二役を演じた山野史人が時代を匂わせたいい味を出していた。

 

右が初演の俳優座のパンフ

(2017.6.03  兵庫県芸術文化ホール  中ホールで所見)

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