木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

エモーショナルな時代

2013年03月31日 | 日常雑感
昔の曲は、ポエティック(詩的)かつロジック(論理的)な詞が多かった。
イントロで客を掴むという意図があったのだろうが、それにしてもあざやかである。
特にフォークと言われたジャンルはエモ―ショナル(感情的)と思われがちであるが、非常にロジック(理論的)である。

汽車を待つ君の横で僕は時計を気にしてる。季節外れの雪が降ってる
東京で見る雪はこれが最後とね、と君がつぶやく(なごり雪)

あなたが船を選んだのはわたしへの思いやりだったのでしょうか。
別れのテープは切れるものだとなぜ気づかなかったのでしょうか(海岸通り)

花びらが散った後の桜がとても冷たくされるように、誰にも心の片隅に見せたくないはないものがあるよね。
だけど人を愛したら誰でも心のとびらを閉め忘れては傷つき、そして傷つけて引き返せない人生に気づく(このささやかな人生)

冷静に考えると、なぜ船を選んだのが思いやりだったのか、花の散った後の桜≒心の秘密といった図式など、ロジックぽい仮面をまとったエモーショナルな歌なのかも知れないが、おくゆかしさのようなものを感じる。

代わって、当代NO1の人気を誇るAKB48。

ギラギラッ 真夏の容赦ない太陽が
強火で照りつけるon the beach
自惚れ温度は急上昇(フライングゲット)

so long …微笑んで
so long …じゃあまたね
枝にいくつかの固い蕾
桜前線まだ来ないのに
私たちの未来 暦通り
希望の道に花咲かせる(so long)

「so long」は幾分ポエティックであるが、この詩が阿久悠を抜くものとは思えないというのは、年寄りのたわごとか。
書きたかったのは、牧歌的だった時代にはロジックなものが流行り、世間が数字だとか現実的なものによって判断される時代にはエモ―ショナルなものが流行るということだ。
現代は言うまでもなく、現実的な社会である。
インターネットの発達により、安いとか高いとかが1円単位で判断されることとなり、事の正否もかなり分かるようになってきている。
そんな時代に求められているのは、ロジックなものではなく、エモ―ショナルなものなのだろう。

秋元康氏の書く詞は、計算しつくされたエモーショナルな詞なのだろう。
批判するのは簡単だが、決して誰にでも書ける詞ではない。
詞の内容は大したことがなくても、売れるかどうかを見極め、売れる詞を書く才能が凄い、ということであろうか。
歌もそうであるし、小説も同じであるが、いかに多くの人に愛されるか、というのが大事である。
高尚とか、低級などという表現は当てはまらない。
時代にこびへつらうのではなく、時代をよく読むことが肝要ということだろう。

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志士と女

2013年03月31日 | 江戸の幕末
学生運動が盛んだった時代、私はまだ洟垂れ小僧だったので、内容はよく知らない。
けれども、幕末の志士と言われる人々の行動を見ていると、学生運動に身を投じた人たちと似ているような気がする。
志士とはそれまでは意見を求められなかった被支配層にある下級武士、農民、町民などを中心として構成されていて、学生もまだ社会的に力を持たないと言う点で似ている。違っていたのは時代のうねりが志士に味方したという点である。
学生運動は徹底的に弾圧され鎮火していったが、志士の活動は弾圧する幕府の弱体化もあり、却って火に油を注ぐ格好となった。
もともと志士とは、中国では道徳的勇者を指したが、日本では「有志之士」の略であり、「天下のために憂うる人」を意味した。
幕末になって初めて現れたのではなく、田沼時代以降、幕藩体制に揺らぎがみえる頃になるとちらほらと現れた。
さらに黒船来航後、幕府が野にも広く意見を求める姿勢を打ち出すと、春になって地中の虫が地上に姿を現すかのように、次から次へと表出するようになった。
尊王攘夷を声高に叫ぶ志士たちを幕府は弾圧するようになるが、そうなると志士はテロリストとしての性格を強めていった。
安政の大獄(安政六年・一八五九年)から桜田門外の変(万延元年・一八六十年)辺りからで、この後、暗殺件数は急速に増えていく。
明治の指導者となった雄藩の政治家たちもテロリスト上がりであるが、自らが政権を取ると、自分たちの行ってきた所業には蓋をして、テロ活動禁止を命じている。

既述したように下級階層の人間が多く、しかも二男三男が多かった。この余計者意識が志士に冷酷な所作をものともしない果断な決断を与えたともいえる。
志士の年代別構成を見ると、20~30歳が全体の65%を占める。
若く、憂国の士という自己陶酔を身にまとい、明日をも知れない命ともなれば、生活は退廃的なものとなる。
志士の生活に酒と女と馬鹿騒ぎはつきものであった。
芳賀登氏の「幕末志士の生活」を引用する。

暗殺にあけくれる志士たちは、みずからまいた種をみずから刈りとらねばならない乱世の到来をかなり恐れていたのではあるまいか。
人を殺せば、自分もまた殺されねばならない。そうした生命の危機感が、彼らをして、いっそう狂気の騒ぎへいざなっていくのであろう。


このような心境から、志士たちは派手な女遊びをするようになる。
伊藤博文(俊輔)などはその典型的な例で、政府の高官になってからも女遊びは止まることがなかった。
明治当時、「不潔な娯楽に日を送る、チョイト不忠なひひ老爺{じじい}」という戯れ歌が流行ったらしい。
愚直な権力者と言われた山県有朋(狂介)の場合はどうであろう。
伊藤之雄氏は「山県有朋」(文芸春秋)の中で、次のように書いている。文中のつるとは当時山県と深い仲にあった女性で、時は文久二年(一八六二年)、山県が結婚する五年前の話である。

山県はつるを妻にしようとしたが、つるが長女であったのでそれができなかったという。山県は優等生的青年でありすぎ、優しい一面があった。このため、倒幕に命をかける勇気はあっても、中村つるを強奪するような情熱はもちあわせていなかった。

まったく逆な記述もある。
前出の「幕末志士の生活」を再び引用する。

後年、謹厳で有名となった山県有朋などは、狂介時代には美人漁りで有名で、伊藤俊輔をしのぐほどの機敏さであったといわれている。
彼は、馬関稲荷屋の芸者お職女郎津山太夫におもいをかけていたが、津山が名題の女であったので、あきらめざるを得ず、その後、報国隊の壮士仲間で長府藩士の石川良平の娘に目をつけた。
嫁にもらいうけたいと申しこんでも、なかなからちがあかなかったので、ごうを煮やした山県は壮士とともに宅へ入りこみ、掠奪結婚をしてしまった。これが山県の第一夫人のお友の方である。


このふたつの間には、五年の歳月が存在する。
五年は、多感な青年にとって長い。
多分、このふたつとも真実なのだろう。
失恋の痛手を負った山県青年は、志士の生活にのめりこんでいって、退廃的な暮らしに染められていったのだ。

志士としての生活は想像を超えるような刺激と魅力と危険に満ちていたに違いない。
伊藤博文にしろ、志士の生活で知り合った馬関芸者・お梅を妻にしている。
その他に芸者を妻にした例としては、木戸孝允の祇園芸者・幾松、陸奥宗光の新橋芸者・小鈴などが挙げられる。
芸者との間に、戦友のような意識が働いていたのは想像に難くない。

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