快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  今年とそして来年

2019-12-31 12:01:15 | 地震 津波
 今年も世界的に自然災害で多くの犠牲者と被害が出てしまいました。
 これまで国内に限らず世界で発生した自然災害によりお亡くなりになられた犠牲者に謹んでお悔やみを申し上げますとともに被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 来年はより良き年でありますように。

仕組みとアプローチ -  長篠城援軍部隊の動員を信長はワザと遅らせたのではないか?と思える理由

2019-12-31 10:38:57 | 明智光秀
 長篠の戦いではその名の通り長篠城に武田軍が攻め寄せた事がその後の戦いの大きな要因の一つでした。
 江戸時代以前に書かれた史料によれば武田軍は1575年4月に三河に侵攻し、5月には長篠城を包囲した、となっているようです。
 確かに長篠城を包囲したのは5月なのかも知れませんが、4月末には徳川方の拠点となるこの城が武田軍の標的になる事はわかっていたはずであり、ならば5月1日位までには信長も徳川方への援軍を編成していなければならなかったはずでした。
 ところがその動きは無く、やがて長篠城が包囲されて兵糧が火災などで焼失し危機を知らせる伝令である鳥居強右衛門が岡崎城に着いたのが5月15日。その時には織田勢も既に徳川援軍として来ていて連合軍が編成されていた状態だったとの事です。
 しかしいくら何でも5月15日に岡崎で連合軍が編成された状態だったと言うのは、必要な時には速攻が顕著な信長にしては少しおかしな話なように思えるのです。
 これが何を意味するのか?と言うと、それは「信長が長篠城援軍部隊を編成。動員するのわワザと送らせて武田方を長篠城に引き付けておいた」と言う事なのかと考えています。
 その後の戦闘経過ですが、この長篠城は天然の要害だったようで武田勢が城を攻めきれないでいるうちに城内の兵糧庫などで火災が起こり食糧等を失って、もう数日しか持ちこたえられない、という状況になりその事を徳川方へ知らせる為に鳥居強右衛門が城から密に岡崎城に行ったのです。
 そして援軍がもうすぐ到着するという事を長篠城に籠城している味方に知らせる為に戻る途中、武田勢に捕まり、後は多く知られている通り鳥居強右衛門が自らの命と引き換えに城内の人達に援軍がもうすぐ到着する事を知らせたのでした。
 これが何を意味するか?ですが、(個人的という程度ではありますが)次の様に考えています。
 それは「鳥居強右衛門だけが徳川方へ状況を知らせる密使として動いたのではなく、おそらく何人かが送られて、その中には長篠城の近くで武田勢に捕らえられた者もいたかも知れない、そして更に城がもう長く持たない、とわかって城から脱出して武田勢に投降して助命と引き換えに城内の兵糧がもう無い状況を教えた可能性は十分に有り、そんな事など信長も当然想定して戦闘計画を練ったはず」、という事です。
 このような状況だからこそ、武田勢は長篠城の周辺には牽制に3,000ほどを残して本体はここから分かれてしまうのでした。
 この長篠城牽制に置かれた武田方の軍勢は鳶ヶ巣山砦とその4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦が織田方の酒井忠次らが率いる精鋭部隊3000~4000にほぼ殲滅され、残った将兵らも武田方本体に合流しようする途中でかなりが酒井忠次隊に撃たれます。
 このように武田勢が長篠城と設楽原が分散、分断された状態になったのは果たして偶然なのでしょうか?・・・いや、そんな事は有り得ないと思えます。
 何故かと言うとこの長篠城が仮に武田方に落ちたとしたらここが拠点にかなり武田勢が盛り返す可能性が高かった、或いは盛り返さなくても殆どこの城とその周辺にとりあえず本体も退却する事で体制を整え、そしてほぼ無傷で甲州など安全なエリアまで退却できた可能性が高いからです。
 この長篠城が鳥居強右衛門が果たして実行してくれるかどうかも当時わからなかった決死の行動で持ちこたえるかどうか、に戦闘の命運を賭ける程に信長は呑気ではなかったはずです。
 長篠城援軍の編成がどう見ても信長にしては遅い事、兵糧が焼けてしまってもう数日しか城は持たない状況になった事などから考えられるのは、「信長は既に長篠城の援軍を5月初旬には密に編成、動員済みであり、その上で長篠城の城主らには兵糧が焼ける自らの火災を演出をさせ(実際には一部の者にしかわからないようにかなり兵糧を確保していた可能性も有る)、城外に出た者を経由して得た情報で武田軍がもう落城も確実で近いと判断してしまうように誘い、武田本体と長篠城牽制部隊を分散、分断させた」と言う事です。
 そしておそらくですが、この長篠城牽制に残された武田方部隊は長篠城に兵糧を運び込む為にかなりの兵糧を持っていたのだろうと考えられます。
 その兵糧と牽制部隊をかなり失ってしまった以上、武田勝頼率いる本隊は設楽原でかなり追い込まれていた状況になっていたのはほぼ確実だったように思えます。
 一方で長篠城周辺に残された武田勢が壊滅した事を武田勢が知っていたのかどうか、ですが、この点は難しい所です。
 70回を越える戦闘に参加したにもかからず、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったと言われる馬場信春はこの無謀な決戦に多分反対だったはずで、それはまだ長篠城牽制部隊が壊滅していないと思っていたからなのか?からか、それともほぼ壊滅したのは薄々わかっていたがまだこの兵力なら退却戦で何とかできる、と考えていたのか? どちらも有り得ます。
 武田勝頼の側近ら一部が決戦を支持し、他の重臣らの多くはこの決戦には反対だったようです。
 

仕組みとアプローチ -  囮と罠がテンコ盛りだったように見える「長篠の戦い」

2019-12-30 22:36:21 | 明智光秀
 長篠の戦いでは織田勢の方でも攻められて追われ部隊も有ったような史料が有ります。
 その部隊とは丸山砦を守っていた佐久間信盛らの約六千ともいわれる軍勢です。
 史料のよれば武田方の馬場美濃守信房が手勢七百の部隊でここを攻撃したため、佐久間信盛らの部隊が退却したとの事です。
 勢い付いた(と言うか騙されている事に気がつかず自信過剰になった)馬場美濃守信房はいくらかの割合をこの丸山砦の残し、残った軍勢を織田勢のいる馬防柵の方へ進めてそこで織田勢からの鉄砲で大打撃を受けます。
 疑問に思えるのは約六千とされた佐久間信盛の部隊が馬場美濃守信房の部隊に何故もっと抵抗しなかったのか?です。
 このあたりで見えて来るのは「佐久間信盛は最初から囮だった」という事です。
 この罠の為の囮に佐久間信盛が担当したのは何故か?と言うと、それは「退き佐久間」と言われた位に退却戦がうまかったからではないでしょうか。
 信長は最初から佐久間信盛部隊の退却させて、追って来る武田方の馬場信房部隊を分散させて、しかも馬防柵の近くまで誘き寄せてから一斉攻撃、特に火縄銃の一斉射撃で迎撃するつもりだったのでしょう。
 そしてこれはやや形が違いますが「釣り野伏せ」と言われる戦法に近いように思えます。
 
 

仕組みとアプローチ -  長篠の戦いに関する史料に於ける矛盾点や疑問点 その2

2019-12-30 19:47:07 | 明智光秀
 江戸時代以前に書かれた長篠の戦いに関する史料から疑問、矛盾の思えた事について更に書いてみます。
 信長は武田勢が近くに布陣したのを知って「味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた」という旨の事が「信長公記」にはかかれているようです。
 この点も長篠合戦図屏風に描かれている事に矛盾しているように思えます。
 この絵図からでは最前線の馬防柵周辺で重臣や三段撃ち等で有る程度抵抗するようにしか見えないので、どう考えても信長が「味方からは1人の損害も出さないようにしようと作戦を考えた」とは思えないからです。
 ではどちらが真相に近かったのか?
 それはどちらかと言えばですが、「長篠合戦図屏風に描かれている事は事実ではない、或いは事実に見えてもそれは表面上であって実際は違っていた」、と見ています。
 どういう事かと言うと、最前線の馬防柵を仮に突破されそうになったら織田・徳川連合軍である織田勢は退却しなければなりません。
 なのにこの最前線の馬防柵にわざわざ一部の重臣を配置してしかも退却する際に使う矢盾(竹束に関しては当時有ったかはわかりませんが、有ったのなら当然なければいけません)が描かれていないのです。
 こんな事は考えられない。
 では「最前線の馬防柵から三段撃ち等で迎撃されて武田勢はその前でバタバタと倒れてこの最前線の馬防柵を突破できなかったのか?」と言えば史料では「一部は最先端(最前線)とその次の馬防柵は有る程度の割合で突破され、最も奥の三段目の馬防柵に届いたがそこで織田勢に撃たれた武田勢が少数ながらいた」との記述が有るようです。
 という事は「最先端(最前線)の馬防柵は少なくない割合で突破されていた」、という事になりこの時に織田勢が僅かな犠牲者でより安全な所へ退却する事は通常考えられません。
 これらの事から考えられるのは「織田勢は矢盾(竹束に関しては当時有ったかはわかりませんが、有ったのなら当然竹束)を用意してスムーズに退却した。簡単に退却する事が許されたのは既に書いた通りで信長が「味方からは1人の損害も出さないようにしよう」と言う方針を打ち出していたからです。
 これが何を意味するのか?
 それは次のように考えています。

 「元々この最先端(最前線)とその次の馬防柵は有る程度の割合で突破されるように最初から想定されていて、その目的は武田勢を調子に乗られせて誘い込む為であり、3つ目である最も奥の馬防柵の所でその裏に有る森林に隠れていた織田勢が射撃、矢、槍など各種の戦力で一斉に攻撃する、この時には鉄砲の三段撃ちも或いはあったかも知れない。そしてとても最奥の馬防柵はとても突破できない、突破してもその先の森林で待ち伏せされて討たれる、土岐がついた武田勢が退却しようとした時に今度はこの馬防柵が障害物となって簡単に退却できず、逃げる途中で織田勢の想定外の規模の射撃、その他で大きな損害を受けた」。

 大体このような状況だと史料の内容に辻褄が合って来ます。
 「長篠合戦図屏風」に描かれている織田・徳川軍の重臣と思われる武将だけでなく一般兵は実は多少でもリスクが有ったらすぐに退却を指示され、そして一部の重臣は影武者だった、という事を間接的に表現していたのではないかと思えます。
 またこの点で考えると、更に次のような事も考えられてきます。

 「鉄砲の一斉三段撃ち」とは今月の記事で書いて来た事だけでなく、実は「最先端(最前線)とその次の馬防柵、そして更にそのまた次の最も奥に有る馬防柵という3段に設けられた馬防柵にそれぞれ射撃隊を置いたのが鉄砲の三段撃ちだったと言う面も有り、最先端(最前線)とその次の馬防柵にはそれほど射撃隊は多くなく、そして簡単に退却させる。勢い付いた武田勢がきっと最も奥に有る馬防柵にも多分その程度の鉄砲しかないのだろうと突進したらそこにはとんでもない数の鉄砲が有って一斉射撃して来た」。

 鉄砲の三段撃ちとは馬防柵が3段でその前後か周辺にそれぞれ鉄砲部隊が有って、そしてトリックが有った、と言う事も有ったのかも知れません。

 
 
 
 
 

仕組みとアプローチ -  長篠の戦いに関する史料に於ける矛盾点や疑問点

2019-12-30 12:49:12 | 明智光秀
 長篠の戦いに関する江戸時代以前の資料について今ではネットで簡単に検索、閲覧できるのですが、見ているうちに矛盾点や疑問点が有る事に気がつきます。
 例えばですが、長篠合戦図屏風では織田・徳川勢が重臣クラスを含めて鉄砲隊を主にかなり前面にまで出ていますが、そこへ武田勢が攻めているように描かれています。
 この図には武田勢に矢盾(竹束が当時既に有ったのかは現状不明)を持つ兵が描かれていない、と言う事がまず疑問に思えます。
 いくら鉄砲が矢盾を貫通する可能性が有ったたとは言っても、矢盾で鉄砲玉の勢いを弱くして更に兵が鎧兜を着用していたのなら二段防御で火縄銃の玉が身体にまで届かない、或いは届いてもダメージが殆ど無いケースも有ったはずではないでしょうか。
 そして弓矢による攻撃だって雨天を想定して準備されている事くらいは武田勢もわかっていたはずです。
 織田・徳川連合軍は馬防柵より一定以上前には出て来なかった旨の事を書いている資料が有り、それも考慮すれば通常ならば「武田勢はまず最も前に矢盾を持った雑兵、そしてその後に鉄砲や弓、槍などを持った足軽を配置して前進させ、近寄った所で後に控えていた騎馬隊も攻め寄せる」、という戦法を考えるはずです。
 少なくとも殆どの馬防柵は武田勢から見えていたはずなので、いくら何でもその馬防柵に向かって矢盾や歩兵もろくに無しに騎馬隊が突進するとは考えられません。
 武田方には優れた指揮官がかなりいてそれなりに野戦の経験も有ったはずです。
 この合戦図屏風だけでも疑問、矛盾に思える点が有るのに、更に他の史料と組み合わせても矛盾点が有るのに気がつきます。
 この戦いにおける織田・徳川連合軍の損失兵数(つまり戦死者)は徳川実記によれば約60名となっています。
 長篠合戦図屏風では織田・徳川勢が重臣クラスを含めて鉄砲隊が馬防柵の最先端近辺というようにかなり前面にまで出ていますが、仮に武田勢が一点集中突破とかで押し寄せ、織田・徳川勢の一部が退却しなければならなくなった場合、犠牲者はたった60名とはこの絵図からは考えにくく、更に重臣クラスも討たれる可能性も高いとしか見えません。
 このあたりの真相がどうで有ったのかは他の史料を調べて行くといくらか見当がついて来ますが、それは次回以降の記事にしようと思います。