長篠の戦いではその名の通り長篠城に武田軍が攻め寄せた事がその後の戦いの大きな要因の一つでした。
江戸時代以前に書かれた史料によれば武田軍は1575年4月に三河に侵攻し、5月には長篠城を包囲した、となっているようです。
確かに長篠城を包囲したのは5月なのかも知れませんが、4月末には徳川方の拠点となるこの城が武田軍の標的になる事はわかっていたはずであり、ならば5月1日位までには信長も徳川方への援軍を編成していなければならなかったはずでした。
ところがその動きは無く、やがて長篠城が包囲されて兵糧が火災などで焼失し危機を知らせる伝令である鳥居強右衛門が岡崎城に着いたのが5月15日。その時には織田勢も既に徳川援軍として来ていて連合軍が編成されていた状態だったとの事です。
しかしいくら何でも5月15日に岡崎で連合軍が編成された状態だったと言うのは、必要な時には速攻が顕著な信長にしては少しおかしな話なように思えるのです。
これが何を意味するのか?と言うと、それは「信長が長篠城援軍部隊を編成。動員するのわワザと送らせて武田方を長篠城に引き付けておいた」と言う事なのかと考えています。
その後の戦闘経過ですが、この長篠城は天然の要害だったようで武田勢が城を攻めきれないでいるうちに城内の兵糧庫などで火災が起こり食糧等を失って、もう数日しか持ちこたえられない、という状況になりその事を徳川方へ知らせる為に鳥居強右衛門が城から密に岡崎城に行ったのです。
そして援軍がもうすぐ到着するという事を長篠城に籠城している味方に知らせる為に戻る途中、武田勢に捕まり、後は多く知られている通り鳥居強右衛門が自らの命と引き換えに城内の人達に援軍がもうすぐ到着する事を知らせたのでした。
これが何を意味するか?ですが、(個人的という程度ではありますが)次の様に考えています。
それは「鳥居強右衛門だけが徳川方へ状況を知らせる密使として動いたのではなく、おそらく何人かが送られて、その中には長篠城の近くで武田勢に捕らえられた者もいたかも知れない、そして更に城がもう長く持たない、とわかって城から脱出して武田勢に投降して助命と引き換えに城内の兵糧がもう無い状況を教えた可能性は十分に有り、そんな事など信長も当然想定して戦闘計画を練ったはず」、という事です。
このような状況だからこそ、武田勢は長篠城の周辺には牽制に3,000ほどを残して本体はここから分かれてしまうのでした。
この長篠城牽制に置かれた武田方の軍勢は鳶ヶ巣山砦とその4つの支砦、中山砦・久間山砦・姥ヶ懐砦・君が臥床砦が織田方の酒井忠次らが率いる精鋭部隊3000~4000にほぼ殲滅され、残った将兵らも武田方本体に合流しようする途中でかなりが酒井忠次隊に撃たれます。
このように武田勢が長篠城と設楽原が分散、分断された状態になったのは果たして偶然なのでしょうか?・・・いや、そんな事は有り得ないと思えます。
何故かと言うとこの長篠城が仮に武田方に落ちたとしたらここが拠点にかなり武田勢が盛り返す可能性が高かった、或いは盛り返さなくても殆どこの城とその周辺にとりあえず本体も退却する事で体制を整え、そしてほぼ無傷で甲州など安全なエリアまで退却できた可能性が高いからです。
この長篠城が鳥居強右衛門が果たして実行してくれるかどうかも当時わからなかった決死の行動で持ちこたえるかどうか、に戦闘の命運を賭ける程に信長は呑気ではなかったはずです。
長篠城援軍の編成がどう見ても信長にしては遅い事、兵糧が焼けてしまってもう数日しか城は持たない状況になった事などから考えられるのは、「信長は既に長篠城の援軍を5月初旬には密に編成、動員済みであり、その上で長篠城の城主らには兵糧が焼ける自らの火災を演出をさせ(実際には一部の者にしかわからないようにかなり兵糧を確保していた可能性も有る)、城外に出た者を経由して得た情報で武田軍がもう落城も確実で近いと判断してしまうように誘い、武田本体と長篠城牽制部隊を分散、分断させた」と言う事です。
そしておそらくですが、この長篠城牽制に残された武田方部隊は長篠城に兵糧を運び込む為にかなりの兵糧を持っていたのだろうと考えられます。
その兵糧と牽制部隊をかなり失ってしまった以上、武田勝頼率いる本隊は設楽原でかなり追い込まれていた状況になっていたのはほぼ確実だったように思えます。
一方で長篠城周辺に残された武田勢が壊滅した事を武田勢が知っていたのかどうか、ですが、この点は難しい所です。
70回を越える戦闘に参加したにもかからず、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったと言われる馬場信春はこの無謀な決戦に多分反対だったはずで、それはまだ長篠城牽制部隊が壊滅していないと思っていたからなのか?からか、それともほぼ壊滅したのは薄々わかっていたがまだこの兵力なら退却戦で何とかできる、と考えていたのか? どちらも有り得ます。
武田勝頼の側近ら一部が決戦を支持し、他の重臣らの多くはこの決戦には反対だったようです。