快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  築山殿-今川氏真-早川殿-北条氏康-上総土岐氏と常陸土岐氏 というネットワーク

2019-11-29 17:24:36 | 明智光秀
 前回記事で一部誤植が有りました。
 「天応直轄領」は「天皇直轄領」に訂正です。
 当時は実質毛利氏の所領であった石見銀山を名目上(利益のどれだけが朝廷に献上されていたのかは定かではないのですが朝廷の直轄領である事を名目のしている以上は主導権は朝廷)であっても朝廷の直轄地とする事によって、毛利氏は朝廷から覚えの高い家柄を維持していたのでした。
 そこへ信長の織田家が割って入り、御料地を奪取しその後にこの御料地が果たして朝廷の直轄領となるのか? それとも織田家の主導となって朝廷は結局、織田勢の家来となってしまうのか?
 さすがに朝廷には御料地からの収益を減らすというのはどうも考えにくいですが、朝廷ではなく公家衆にとっては取り分が減らされ、挙句プライドや生活水準の維持の面で大変なリスクだった事か思っています。
 ところで信長の土岐一族警戒モードエスカレートですが、サブタイトルの通りで、「築山殿-今川氏真-早川殿-北条氏康-上総土岐氏と常陸土岐氏」という路線で考えると当然の如く信長がこの土岐一族ネットワークの分断に動いたのは理解できます。
 その発端が「築山殿と信康の抹殺」であり、これに限らずその後も土岐一族の織田勢包囲網の崩壊政策を採っていた事からどうも土岐一族リスクを信長の耳に流し込んでいた家臣や敵方の情報工作部隊はどう見てもかなり多かったと考えています。

仕組みとアプローチ -  信長の命令に従う旨の事が書かれた長曾我部元親の書状に関するいくつかの解釈と疑問点

2019-11-29 13:12:03 | 明智光秀
 前回記事の続きになります。
 この書状について更に考えると次のような考え方が可能性として低いもののゼロではないと思えるので記事にしてみました。
 それは「本能寺の変の後に明智勢が大敗し明智勢が実質滅亡した山崎の戦いの後、健在だった織田家の信孝や信雄ら、そして殆どの織田方重臣ら、特に秀吉が長曾我部氏を討ちに来るのを恐れ(後に実際進軍して来た)、先手を打って信長の命令に従う旨の書状を後から書いてわざと多くの人がわかるようにした」というものです。
 しかし「後から織田方に言い訳をするつもりで書いたのならば、何も斎藤利三宛になどする必要は無く、信長宛にしたはず」という疑問点も残ります。
 それからこの書状自体の疑問点で気になる事が有り、それはこの書状が明智光秀宛ではないという点です。
 これはどう言う事なのか?
 一つはまさに長曾我部討伐軍が組織されつつあった当時の状況を長曾我部元親が把握できておらず、まずは斎藤利三にでも書状を送ってから明智光秀にも伝えるくらいの時間的余裕が有ると思っていた、という考え方。
 もう一つは明智光秀は既に長曾我部を守るのは諦め、新たな所領として得られる予定の出雲、石見への攻撃準備しか頭になかった為、長曾我部元親は光秀に書状を送っても無駄だと思っていた可能性です。
 この見方だと明智光秀が詠んだ連歌のある解釈も繋がってきます。
 「とき」は「土岐」か「(鬨の声の)鬨」、「雨がしたしる」は「織田勢が天下をとる」か「御料地という(名目上でも)天応直轄領の管理をいよいよ任すという命令が信長様か下さった」という解釈です。
 書状について更にもう一つの見方は当時の長曾我部氏と明智勢は斎藤利三があくまで窓口だったので斎藤利三をスルーいて光秀に書状は送れないと考えていた、という可能性です。
 果たしてどれだったのでしょう。

仕組みとアプローチ -  長曾我部元親が信長の命令に従う旨の事が書かれた書状の現存が意味する事

2019-11-29 09:02:22 | 明智光秀
 長曾我部が信長の命令に従う旨の事が書かれた斎藤利三宛ての書状は2014年に確認され、現在林原美術館に所蔵されています。
 書状が仮に本物であると仮定した場合ですが、この書状は天正10年5月21日付となっています。
 本能寺の変が天正10年5月21日。
 斎藤利三が信長から死罪を申し渡されたのがその4日前とされているので、このあたりから当時がどのような状況だったかを考えてみます。
 少なくとも言えると考えられるのは、「この書状が仮に信長に届いていたのならそれでも尚、長曾我部討伐を続行するつもりが有ったのならば信長はこの書状を破ってしまうか焼いてしまうなどして消してしまった可能性の方が高い」と言う事です。
 何故なら「そうした書状が残っていると相手が信長の命令通りにするつもりが有っても信長は討ってしまう、という印象が後々に残ってしまうから」です。
 そうするとこの書状は信長に届いていなかったのではないか?と思えて来ます。
 確かにこの書状は斎藤利三宛てのものに過ぎず、信長へ宛てたものではありません。
 しかし斎藤利三か明智光秀あたりが信長に会ってこの書状を見てもらいながら状況を説明すれば、信長は長曾我部討伐を中止するか、或いは中止しないとしたらこの書状を破り捨てるなどして消してしまうか、のどちらかのはずだったと(個人的にという程度ですが)考えています。
 この書状の日付である5月21日は斎藤利三が死罪を申し渡されたおそらく5月29日の8日前。
 四国から畿内に斎藤利三の所まで果たしてこの書状が届いていたのかどうか。
 そして仮に僅かな遅れで、斎藤利三が死罪を言われたしまった後だった場合は既にもう信長に直接会える状況ではなかったとも考えられます。
 更に面会でなく伝言で信長に書状の事を説明だけして信長の反応を見ようとしたのなら、信長は既に怒りが収まらず、それどころかその書状の話を間接的にでも聞いておきながら斎藤利三に死罪を申し渡したという事も考えられます。
 仮に後者だとすれば親族の長曾我部氏、石谷氏などの事を考え、そして信長に恭順する意思を示してもやがて討たれてしまうのなら仮に死罪の命令を免れてかつ稲葉一鉄の下に戻っても斎藤利三自身もやがて討たれる考え、それならが信長を討つ方がまだ希望が有る、と考えた可能性は少なくないと思えます。
 ただこの書状が実際に長曾我部元親が書いたものであってもその日付通りに発送されたものなのか?は定かでなく、「書状を書いた後に少しの時間迷ってから発送したという可能性」、そして「本能寺の変が起きてしまった後に長曾我部元親が責任を感じてしまっり、或いは光秀が仮に天下を取った場合を恐れて後で5月21日の日付で書いたものである可能性」、というのもゼロではないと考えています。
 少なくとも言える事は、長曾我部元親は斎藤利三が死罪を申し渡されるとは考えていなかった、そして信長宛の書状としてもっと早く確実に届けていなければならなかった、と言う事でしょうか。
 
 

仕組みとアプローチ -  信長の織田氏と長曾我部氏の対立 それは双方に問題が有ったと思われる理由

2019-11-27 20:54:53 | 明智光秀
 信長は長曾我部氏を敵視して信孝を総指揮官、丹羽長秀をつけて長曾我部討伐を実行するまさにその直前に本能寺の変は起きたのですが、信長と長曾我部元親の対立については双方に非があったように見えます。
 「四国は長曾我部氏の切り取り次第」と約束しておきながらそれを反故にして「切り取った多くの所領を織田家によこせ」と言った信長は明らかに掌返しなのですが、一方で長曾我部氏が四国で所領を急激に拡大できたのも「織田家を後ろ盾にしていたからこそ敵勢力が無抵抗になった」という面も有ったわけで、ならば信長の言い分にも一理は有るわけでならば適当に妥協していれば良いものを、信長も長曾我部元親、双方共に天狗になっていたようで対立がエスカレートしたようです。
 今で言えば、例えば飛ぶ鳥を落とす勢いの大手フランチャイズ資本に、地方の有力小売企業が加盟し、その後ろ盾で急激にシェアを拡大したものの、やがて大手フランチャイズ資本が最初の約束と違い「取った分の約半分をよこせ」と言って来たためにトラブルになった、という所でしょうか。
 確かに約束上では長曾我部氏に非はないのかも知れませんが、一方で信長の織田ブランドが無ければ四国の敵対勢力をそう簡単に制圧することもできなかったわけで、このあたりは長曾我部元親がもう少しでも柔軟に妥協すべきだったのかと思えます。
 そして長曾我部信親がせめて織田家から正室を迎えていれば信長の疑心もあまり無かったのでしょうが、どうも長曾我部氏は織田家の支配が強化される事を嫌って元親、信親と土岐一族と二代に渡って正室を迎えたので、信長の敵意をエスカレートさせたのではないか、と考えています。
 仮にそうした状況だったならば「出世頭の明智光秀の足を引っ張ってやろう」と手ぐすねを引いている織田家重臣らや、或いは「織田勢の内紛を誘導して内部崩壊させてやろう」としていた敵方らから様々な「対立を煽る情報」が信長の耳に流し込まれていたのではないでしょうか。
 本能寺の変はそのような状況で発生したように思えます。

仕組みとアプローチ -  長曾我部信親の正室は何故か織田家からではなかった

2019-11-27 17:42:09 | 明智光秀
 信長が土岐一族に対して警戒モードをエスカレートしたのは、長曾我部元親の嫡男である長曾我部信親が何故か織田家からではななく、石谷氏という土岐一族から正室を二代に渡って迎えた・・・単純にそではないでしょうか。 
 信長が長曾我部信親の正室が織田系でなく、土岐一族である石谷氏系であった事を再度認識したとすれば当然ですが、信長は土岐一族に対して警戒モードを更にエスカレートし、分断工作を考え、それをそれを煽る織田方の諸将が多かったのが当然なのではないかと思えます。