明智光秀が大敗した山崎の戦いについてイエズス会が主導権を握っていたと考えられる事は既に記事にした通りです。
この件について更に検証すると多くのデータが出て来ます。
最初にですが本能寺の変の後、そう間を置かずに明智光秀は高山右近の高槻城へ使者を送り、明智方に加勢するよう要請し、加勢して貰えるような返事を得ています。
それはルイス・フロイスがローマに送った「1582年度日本年報」に書かれており、「家臣たちは都合の良いように偽った返答をした」と言う旨の部分です。
これで明智光秀は高山右近が明智方に加勢すると思い込んでしまったようで、この点についても同じ「1582年度日本年報」に於いて「光秀は十分納得したので人質を要求することも、また同じ目的で我らを利用することもなかった」と言う旨が書かれています。
この点については城主である高山右近が毛利討伐に出発していた為に家臣が適当な返事をしたと言う事になるので、確かに高山右近本人がウソをついたわけではない事になります。
この状況により明智光秀は高山勢側から人質を取らなかったようで、人質を取らなかった事が明智勢の敗北要因であった事をやはりルイス・フロイスも書いています。
それではイエズス会がこの時どのような動きをしたかですが、次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
長秀・信孝・恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進み富田(大阪府高槻市)に着陣したが、秀吉の宣伝は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた[19]。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのであり、このことが山崎の戦いでの秀吉の大勝利につながった。一方の光秀はキリシタン大名の右近に対してイエズス会の宣教師オルガンティノを通して説得したが、成功しなかった[45]。
引用終了
明智光秀はそれなりに イエズス会の宣教師オルガンティノを通して説得した、つまりオルガンティノは光秀の要請に適えるべくそれなりに動いたようですが、このパフォーマンスとは裏腹にオルガンティノは高山右近には次の様に言っている事がルイス・フロイスの日本史に書かれています。
「たとえ、我ら全員が礫刑に処せられるに接しても、絶対に、この暴君に仕えないように、そうすることは我らの主なるゼウスに奉仕することになるからである」。
「この暴君」とはつまり当時は明智光秀であるわけで、これが何を意味するのかと言うとそれは宣教師オルガンティノが表向きは明智光秀に高山右近の加勢を進めるパフォーマンスをしておきながら、一方では高山右近に「決して明智光秀には加勢しないように」と言っている事になるのです。
明智光秀は宣教師オルガンティノから調子の良いリアクションで協力して貰えると思ってしまったし、そして例え城主の高山右近がいなくても家臣らから明智方加勢に抵抗ないような返事をもらえたので疑わなかったのかと思えます。
しかし良く考えれば当時に於いては畿内の北約半分エリアあたりは明智光秀が軍事的に制圧していた期間であり、とても「高山右近とその家臣、或いはイエズス会は明智方に加勢はできない」などと言えない状況であり、仮に言おうものなら途端に城は攻略されてしまうか追放されてしまう、或いは最悪処刑されてしまう為、調子の良い返事しか出来ない状況だったはずと考えています。
なのでこの返事をマトモも考えてはいけないのですが、どう言うわけかそれを光秀は本気に信用してしまったのか、或いは薄々怪しいとは思っていても既に他の選択肢が無かった状況なのか、兎に角疑わな意と言う前提で軍事戦略を構築し、そして短期で大敗します。
少なくとも言える事は宣教師オルガンティノが高山右近とその近縁の中川清秀に対して、「明智方に加勢せよ」と指示していればあのような明智勢の短期惨敗は無かったわけで、山崎の戦いの主導権はどう見てもイエズス会が握っていた、と個人的に思えるわけです。
この件について更に検証すると多くのデータが出て来ます。
最初にですが本能寺の変の後、そう間を置かずに明智光秀は高山右近の高槻城へ使者を送り、明智方に加勢するよう要請し、加勢して貰えるような返事を得ています。
それはルイス・フロイスがローマに送った「1582年度日本年報」に書かれており、「家臣たちは都合の良いように偽った返答をした」と言う旨の部分です。
これで明智光秀は高山右近が明智方に加勢すると思い込んでしまったようで、この点についても同じ「1582年度日本年報」に於いて「光秀は十分納得したので人質を要求することも、また同じ目的で我らを利用することもなかった」と言う旨が書かれています。
この点については城主である高山右近が毛利討伐に出発していた為に家臣が適当な返事をしたと言う事になるので、確かに高山右近本人がウソをついたわけではない事になります。
この状況により明智光秀は高山勢側から人質を取らなかったようで、人質を取らなかった事が明智勢の敗北要因であった事をやはりルイス・フロイスも書いています。
それではイエズス会がこの時どのような動きをしたかですが、次の通りです。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E8%BF%94%E3%81%97
長秀・信孝・恒興らに尼崎着陣を伝えた書状において秀吉は、今回の戦いは「逆賊明智光秀を討つための義戦である」ということを強調している。6月12日、秀吉軍は尼崎から西国街道をそのまま進み富田(大阪府高槻市)に着陣したが、秀吉の宣伝は功を奏し、恒興、中川清秀、高山右近ら摂津の諸将が相次いで秀吉陣営にはせ参じた[19]。中国方面軍司令官である秀吉が大軍を率いて無傷で帰還したことで、それまで去就をためらっていた諸勢力が一気に秀吉方についたのであり、このことが山崎の戦いでの秀吉の大勝利につながった。一方の光秀はキリシタン大名の右近に対してイエズス会の宣教師オルガンティノを通して説得したが、成功しなかった[45]。
引用終了
明智光秀はそれなりに イエズス会の宣教師オルガンティノを通して説得した、つまりオルガンティノは光秀の要請に適えるべくそれなりに動いたようですが、このパフォーマンスとは裏腹にオルガンティノは高山右近には次の様に言っている事がルイス・フロイスの日本史に書かれています。
「たとえ、我ら全員が礫刑に処せられるに接しても、絶対に、この暴君に仕えないように、そうすることは我らの主なるゼウスに奉仕することになるからである」。
「この暴君」とはつまり当時は明智光秀であるわけで、これが何を意味するのかと言うとそれは宣教師オルガンティノが表向きは明智光秀に高山右近の加勢を進めるパフォーマンスをしておきながら、一方では高山右近に「決して明智光秀には加勢しないように」と言っている事になるのです。
明智光秀は宣教師オルガンティノから調子の良いリアクションで協力して貰えると思ってしまったし、そして例え城主の高山右近がいなくても家臣らから明智方加勢に抵抗ないような返事をもらえたので疑わなかったのかと思えます。
しかし良く考えれば当時に於いては畿内の北約半分エリアあたりは明智光秀が軍事的に制圧していた期間であり、とても「高山右近とその家臣、或いはイエズス会は明智方に加勢はできない」などと言えない状況であり、仮に言おうものなら途端に城は攻略されてしまうか追放されてしまう、或いは最悪処刑されてしまう為、調子の良い返事しか出来ない状況だったはずと考えています。
なのでこの返事をマトモも考えてはいけないのですが、どう言うわけかそれを光秀は本気に信用してしまったのか、或いは薄々怪しいとは思っていても既に他の選択肢が無かった状況なのか、兎に角疑わな意と言う前提で軍事戦略を構築し、そして短期で大敗します。
少なくとも言える事は宣教師オルガンティノが高山右近とその近縁の中川清秀に対して、「明智方に加勢せよ」と指示していればあのような明智勢の短期惨敗は無かったわけで、山崎の戦いの主導権はどう見てもイエズス会が握っていた、と個人的に思えるわけです。