快気分析

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仕組みとアプローチ -  1599年 豊臣政権はなぜ前田家より徳川家を選んだのか?

2024-02-05 18:22:10 | 家康
 前田利家が1599年に病没した後、五大老・五奉行の中で党派抗争が起こります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7

慶長4年(1599年)閏3月3日、利家が病死したため、その跡を継ぎ五大老の一人(及び豊臣秀頼の傅役)となる。その翌日に五奉行の一人石田三成が襲撃されるなど党派抗争が始まり、前田氏は対徳川の急先鋒的立場に立たされる。

同年8月、利家の遺言では3年は上方を離れるなとあったにもかかわらず、家康の勧めにより金沢へ帰国した(『三壺記』)[8]。

翌月、増田長盛などが利長・浅野長政らの異心を家康に密告する。この時期、前田氏を屈服させようとする家康の謀略があったと考えられており、家康は強権を発動して加賀征伐を献言する。

この家康による加賀征伐に対し、前田家は交戦派と回避派の二つに分かれ、初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断ったため[要出典]、実母の芳春院(まつ)の説得もあり、重臣の横山長知を弁明に3度派遣し、芳春院を人質として江戸の家康に差し出すこと、養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることなどを約して交戦を回避した(慶長の危機)。この際に浅野長政・浅野幸長・大野治長などが連座している。

引用終了

 ここで目に留まるのは「初め交戦派であった利長は細川氏、宇喜多氏を通じて豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断った」と言う点です。
 「秀吉が前田利家と昔から仲が良かったのだからその後継者同士もきっと仲が良いはず、ましてや家康の徳川家は小牧長久手の戦いで一度は豊臣家と大規模な戦いをしているのだし」とつい思ってしましそうですが、よく考えてみるとそれは違うようです。
 秀吉は1598年に没し、後継者となるのは秀頼。ところが秀頼は未だ幼いので実際は淀君が大きな影響力を持っていたはずなのです。
 その淀君ですが、そもそも秀吉が母親のお市の方を夫の柴田勝家共々自害に追い込んだだけでなく、織田信孝を自刃に追い込んだのは史実。
 そして賤ケ岳の戦いで(おそらく秀吉の誘いにより)柴田勢から寝返って豊臣勢として北ノ庄城攻めの先鋒となって戦ったのは前田利家。
 と言う事で淀君にとって実は秀吉も前田利家もそして前田家も憎しみの対象に過ぎなかったのかも知れません。
 必要としていたのは秀吉が築き上げた権力と財産だけで、実は腹の底が煮えくり返っていたのかどうか、と言うところでしょうか。
 一方の家康の徳川家ですが、徳川秀忠に1595年にお江(淀君の妹)が再嫁しているわけで、淀君にとってほぼ遠戚関係の無い前田家よりも妹が嫁いでいる徳川家の方に好意をもつようになるのはごく自然な流れだったのではないでしょう。
 更に徳川家は秀吉と違い、信長の親族を自刃に追いやった事が一度もありません。
 これだけ条件が揃うと前田利長が「豊臣家に対徳川の救援を求めた。しかし豊臣家がこれを断った」となったのも当然と言えば当然なのかも知れません。

一部訂正 2024.2.5 18:22

一部脱字が有りました。
「徳川家の方に好意をもつようになるのはごく自然な流れだったのではないでしょう。」

「徳川家の方に好意をもつようになるのはごく自然な流れだったのではないでしょうか。」
に訂正です。

仕組みとアプローチ -   穴山梅雪が横死した伊賀越え

2023-07-29 21:33:31 | 家康
 本能寺の変で家康一行は逃亡と言うカタチを採るのですが、それは家康一行には実は「余裕のヨッチャン」で、家康一行を襲撃する有力者などなどそもそもいないし、或いは「それを隠す為に」「あたかも襲撃するかのようなパフォーマンスを雑魚を使ってある程度は演出したはず」なワケで、それを穴山梅雪は見抜いて「これはヤバい」と悟って家康一行から離脱を試みたのではないか思われます。そして結局は殺された。

仕組みとアプローチ -   家康一行の伊賀越え そして水野忠重

2023-07-29 20:00:20 | 家康
 本能寺の変を知った家康一行は伊勢湾岸の白子まで伊賀越えをしたと言うのが通説です。
 ただそのルートに関しては甲賀ルート、伊賀ルート、大和ルートなど諸説あり真相はよくわかっていません。
 ですが伊勢湾岸の白子に到着したのは確かだったようです。
 その白子は北伊勢に位置しています。
 で、その北伊勢についてはこんな史実が有るのがわかります。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D

水野 忠重(みずの ただしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。水野氏当主。三河刈谷城(刈屋城)および緒川城主、後に伊勢神戸城主。実姉・於大の方は徳川家康の生母で、家康の叔父にあたり、徳川二十将の一人にも数えられている。
(中略)
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。

引用終了

 と言う事で水野忠重は本能寺の変の時に織田信忠に従って妙覚寺から二条御新造にいて、しかも家康に似た容姿だった為、家康の影武者も務めた事があったと言われるあの水野忠重が何故か無事脱出できた、と言うか「脱出と言うカタチを採らないと明智光秀とグルと思われてしまうから仕方なくそういうカタチにした」と言う感じにしか思えませんが、そもそも兄弟の水野守隆は安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された位なので、明智勢が水野忠重を討つワケがないのですね。そして家康も。
 その水野忠重が北伊勢に所領を持ち、そして家康は北伊勢を伊賀越え後のルートに使っている、つまり水野忠重の采配が見受けられます。

仕組みとアプローチ -  水野忠重はなぜ「本能寺の変」で脱出できたのか? 家康と明智光秀と水野一族を結ぶもの

2023-07-09 11:25:29 | 家康
 本能寺の変では織田方でしかも京都にいながら脱出に成功できた人達がいます。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89

また刈谷城主の水野忠重(宗兵衛)も、長益同様に信忠に従って妙覚寺から二条御新造に移ったが、難を逃れて、しばらく京都に潜伏位した後、脱出している[190]。『三河物語』によれば、長益だけでなく、山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う[153]。

引用終了

 しかしいくら「潜伏」と言ったって当時の明智勢は相当な残党狩りを行っていたわけで、そんなに簡単に見つからないようにできるものなのか? この「潜伏」とは後付けの口実に過ぎないのではないか?と個人的に考えてしまうので、追跡調査してみました。
 今年2月18日の当ブログ記事、サブタイトル「家康と土岐一族の関係 そして水野氏も」の中で書いたのですが、

 「西郷局が母方ではあるものの土岐一族の流れを引いているのは調べているうちに簡単にわかりますが、水野信元も土岐一族、それも明智光秀とも縁戚関係であったと言うのは意外でした。」

 と言う事で水野信元の弟である水野忠重は明智光秀の縁戚にあたるわけです。
 そして緒川水野氏や刈谷水野氏とは違っていても分家筋である常滑水野氏の水野守隆も本能寺の変に関係していて、次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%AE%88%E9%9A%86

水野守隆
(中略)
妻 水野信元娘
(中略)
常滑水野氏は緒川水野氏や刈谷水野氏の分家筋に当たる。
(中略)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変では安土城で明智光秀に供奉したため、戦後に居城を没収された(『当代記』)[3]。その後は山城国嵯峨に隠遁し、慶長3年(1598年)4月21日に没した[1]。



引用終了

 この状況から水野守隆が実は明智方にかなり深く関与していて明智光秀に働きかけ、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした、と言う可能性はかなり高いと考えています。
 「水野忠重 家康 影武者」などでネット検索すると「水野忠重が家康の影武者をやっていた事もある」と多くのデータが出て来ますが、家康とそれだけに容姿が似ている水野忠重が明智勢に見つからずに果たして脱出できたのでしょうか?
 この点から「明智勢は最初から家康を討つつもりなど無かったし、水野忠重、勝成父子の脱出をサポートした」と言うロジックは十分に考えられると思っています。
 見落としてはならない点がもう一つあり、それは「山内康豊(一豊の弟)も狭間をくぐって脱出したと云う」と言う事です。
 この後、関ヶ原の戦いの前段階で各武将が東軍に着くか、西軍に着くかで迷っていた時に山内一豊が家康に全面的に協力する方針を採ったのを切っ掛けに、各諸将が次々と東軍側につき、その功績で山内一豊は土佐の大名となりました。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A

山内一豊
(中略)
戦後は小山会議で去就を決めかねていた諸侯を徳川加担に向かわせた発言が功績として評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。

引用終了

 山内一豊は弟の山内康豊を通じて家康と水野一族の強固な軍事連携システムを知っていたからこそ東軍が必ず勝つと信じていたから、或いは本能寺の変の時に水野一族のサポートで脱出させてもらった恩が有ったからではないでしょうか。

仕組みとアプローチ -  なぜ家康は「伊賀越え」をできたのか 水野忠重との関係から考える

2023-07-08 23:06:31 | 家康
 本能寺の変の後、家康ら一行は「伊賀越え」で難を逃れたと言う事は殆ど誰もが知る史実です。
 その伊賀越えですがルートは諸説あり「実は伊賀というよだけでなく甲賀も経由していた」とか「実は伊賀ではなく甲賀を経由していた」の説も有り、いずれも可能性は無視できません。
 ただ伊賀であれ、甲賀であれ、別に伊勢湾に接しているわけではないので、そうすると「何で伊勢北部を通過できたのか?」となります。
 それで調べてみると次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E5%BF%A0%E9%87%8D

水野忠重
(中略)
『寛政譜』では家康の元に戻ったとされているが、これは間違いで、北畠信雄に属し、『織田信雄分限帳』によると、忠重は刈谷、緒川のほか北伊勢にも所領を持ち、都合1万3千貫文を領するとなっている[5]。ただし、家康の実の叔父という立場でもあって、従属関係は複雑であった。

引用終了

 家康の叔父である水野忠重は北伊勢の一部を所領していたのでした。
 このエリアだと甲賀や伊賀と隣接もしているわけで、「伊賀衆や甲賀衆とオトモダチ」だった可能性も考えられなくはありません。
 そうした前提だと家康一行が北伊勢を通り抜け伊勢湾まで無事に着いたのも理解できて来ます。