5月20日にコスタリカのトゥリアルバ山が噴火しました。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90
トゥリアルバ
火山活動
1853年、1855年~1856年、1864年~1866年に噴火した記録があり、そのうち数回は火砕流を発生させる噴火であった。他に1847年と1861年にも噴火した可能性がある。最後の大きな噴火は1856年だが、2016年現在も火山活動は活発で、2005年から活動が継続状態となっている。
2014年
10月29日、噴火。周辺住民が自主避難した[2]。国立地震学ネットワーク(RSN)によると今回の噴火は、過去150年間に起きた噴火では最大規模になるとみられている[3]。
2015年
3月12日、噴火。火山灰や火山ガスがサンホセにまで及び、サンホセにある2つの国際空港が18時間にわたって閉鎖された[4]。
4月23日、噴火。トゥリアルバから80km離れた、サンホセにある空港では火山灰の影響で閉鎖される事態に[5]。
2016年
5月20日、噴火。トゥリアルバから30km離れたサンホセでも、建物や車などに火山灰が降り積もり、さらに硫黄の臭いが立ち込めた[6]。
引用終了
今回の噴火よりも2014年の噴火規模が150年ぶりと言う点が気になり、2014年から150年前±10年で調べて見るとこうです。
引用開始(一部抜粋)
1854年
7月9日(嘉永7年6月15日) 伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震) - M 7 1⁄4±1⁄4、死者約1,800人。
12月23日(嘉永7年11月4日) 安政東海地震(東海・東南海地震) - M 8.4、死者2,000~3,000人。房総半島から四国に津波、特に伊豆から熊野にかけて大きな被害。ロシア船ディアナ号(プチャーチン提督来航)沈没。
12月24日(嘉永7年11月5日) 安政南海地震 - M 8.4、死者1,000~3,000人。紀伊・土佐などで津波により大きな被害(串本で最大波高11m)。大坂湾に注ぐいくつかの川が逆流。道後温泉の湧出が数か月間止まる。
安政東海・南海地震は32時間の時間差で発生した。両地震による死者の合計は約3万人との説もある。余震とみられる地震は9年間で2,979回記録(『真覚寺日記』)。
12月26日(嘉永7年11月7日) 豊予海峡地震 - M 7.3~7.5。12月24日の地震の約40時間後に発生、スラブ内地震とされている。
1855年
3月18日(安政2年2月1日) 飛騨地震 - M 6 3⁄4±1⁄4又はM 6.9[95]、死者少なくとも203人。金沢などでも被害。
9月13日(安政2年8月3日) 陸前で地震 - M 7 1⁄4±1⁄4。
11月7日(安政2年9月28日) 遠州灘で地震 - M 7.0~7.5、安政東海地震の余震。津波有り。
11月11日(安政2年10月2日) 安政江戸地震(安政の大地震) - M 7.0~7.1、死者4,700~1万1,000人。
1856年8月23日(安政3年7月23日) 安政八戸沖地震 - M 7.5~8.0(Mw 8.3)、三陸および北海道に津波。死者29人。三陸沖北部の固有地震[80]。
1857年10月12日(安政4年8月25日) 伊予・安芸で地震 - M 7 1⁄4±0.5、今治で城内破損、死者5人。
1858年
4月9日(安政5年2月26日) 飛越地震 - M 7.0~7.1又はM 7.3[95]~7.6。地震による直接の死者数百人、常願寺川がせき止められ後日決壊、それによる死者140人。
7月8日(安政5年5月28日) 東北地方太平洋側で地震 - M 7.0~7.5。
1861年
2月14日(万延2年2月14日) 文久西尾地震 - M 6.0、愛知県西尾市から岡崎市にかけて最大震度 5強。内陸直下型地震、震源位置が三河地震とほぼ同じで、安政東海地震の誘発地震。建築研究所特別客員研究員の都司嘉宣が提唱[101]。
10月21日(文久元年9月18日) 宮城県沖地震 - M 6.4又はM 7.2程度[77]、津波、家屋倒壊、死者あり。
1872年
3月14日(明治5年2月6日) 浜田地震 - M 7.1±0.2、死者552人。
秋頃 小笠原諸島近海で地震 - 父島二見湾で津波の高さ推定3m[99]。
引用終了
シナブン山の噴火の時は慶長の南海トラフ地震、トゥリアルバ山の2014年噴火は安政の南海トラフ地震で、またもやm、と言う感じです。
確かに一度しかないデータですから相関関係は定かではないのですが、シナブン山の噴火と合わせると、やはり世界的なプレートバランスや動き、或いは勢いが慶長年間と安政年間に似ているのではないか?と言う見方もあるのは不自然ではないと思います。
安政年間では1854年にまず中央構造線かそれに近い所で伊賀上野地震(伊賀・伊勢・大和地震)
が発生し、その数ヵ月後に安政東海地震、翌日に安政南海地震が発生、その2日後に豊予海峡地震 が発生しました。
そしてこの時は翌年には飛騨地震、安政江戸地震が、そしてその翌年には安政八戸沖地震、そしてその翌年には伊予・安芸地震、そしてまたその翌年には再び飛騨を含む飛越地震が発生、そして1872年には小笠原で津波を伴う地震が発生、と言う具合です。
現在、多くの専門家が指摘している大地震のエリアがオンパレードと言った具合です。
150年前から更に前の10年には入らなかったのすが、その前の1853年には小田原地震もあり、これは首都圏直下型地震と言えるかと思われます。
では南海トラフ地震が同様に発生する可能性があるのか?と言うと、それは現在の方が、一つ前の南海トラフ地震からの年数が70年程しかなくて、慶長年間や安政年間とは違う所です。
安政の前は1707年の宝永地震ですから、140年以上間が空いているし、慶長の前は1498年の明応地震ではないかと思われるので約100年近く空いています。
間隔が長い程、歪みの貯められる量は大きいとすると、それだけ地震の規模は大きくなるはずですが、実際には前回の地震で歪みの解消がどれだけ進んだか、そして海山や凹凸などでプレート境界面での固着状況が前回とは同じではない事から、現実にいつ、どれだけの地震になるか?というのはわかりません。