前回に記事で書いた通り、徳川秀忠も明智光秀と同様に土岐一族の縁戚にあたるのですが、ならば秀忠の嫡子徳川家光、更にその嫡子の家綱も土岐の血を引いていると言う事になります。
ですが家綱は次の通りでした。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1
側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている[5]。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。
引用終了
仮に家光の実弟である忠長が生存していれば土岐一族は徳川家の中枢として残っていたのでしょうが、忠長は次の通りでした。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7
父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、大伯父である織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つとされている。それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着したという。
(中略)
寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は弟の保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。しかし、自らの最大の庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に、忠長は過度な飲酒に耽るなど、問題的な行動が目立っていく事になり、忠長自身も気付かぬ内に、家光との確執を深めていく事になる。
寛永3年(1626年)7月に、家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛けるが、幕府の防衛線において重要拠点の場所である大井川に無許可でやった事が問題視され、逆に不興を買ってしまう事になり、更に駿府では武家屋敷造成の為に寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係に大きな摩擦を生じた。
寛永7年(1630年)11月、浅間神社付近にある賎機山で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近でやった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ殺す事自体が禁止されており、更にはこの浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そんな場所で将軍家の血を引く忠長が猿狩りを行うのは以ての外であったのだが、猿狩りを止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と田畑を荒らす猿を駆除するのを理由に反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。そしてその帰途の際には、乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出した担ぎ手を殺害してしまっており、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。
寛永8年(1631年)12月、家臣の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた七之助が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、七之助を手打ちにしてしまう。事態を知って泣き叫ぶ父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまう事になり、それを理由として甲府への蟄居を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、許されなかった。
寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されず、一説では忠長の横暴な振る舞いを知った秀忠本人からも面会を拒絶されたとされている。
改易とその後
秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した[8]。享年28。
引用終了
忠長の容姿や気性は織田信長に似ていたのではないかと思う面も有り、時代が戦国ならば信長のようにそれなりの結果を出していたのかも知れません。
ただ既に戦国時代は既に終わり、家臣達も気性が荒い主君を好まなかったという面も有るかと思います。
そしてもう一つ。
跡目争いも関連していると考えられる徳川幕府の内部抗争もまた激しく、「徳川幕府内部の戦国時代」となっていたのではないでしょうか。
いずれにしてもこれで土岐一族の縁戚となる男子系の血筋はここでほぼ途絶えたのですが、女子系の血筋は継続したようです。
ですが家綱は次の通りでした。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E7%B6%B1
側室のお振、お満流は家綱の子を懐妊したが、死産または流産であった。加えて家綱自身は生まれつき体が弱く病弱で、30半ばに至っても男子がなかったため将軍継嗣問題が憂慮されていたが、延宝8年(1680年)5月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、直後の5月8日に死去した。享年40。死因は未詳だが、急性の病気(心臓発作など)と言われている[5]。家綱の死により、徳川将軍家の直系の子が将軍職を世襲する形は崩れた。
引用終了
仮に家光の実弟である忠長が生存していれば土岐一族は徳川家の中枢として残っていたのでしょうが、忠長は次の通りでした。
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7
父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、大伯父である織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つとされている。それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着したという。
(中略)
寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇の二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は弟の保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたと「会津松平家譜」には記されている。しかし、自らの最大の庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に、忠長は過度な飲酒に耽るなど、問題的な行動が目立っていく事になり、忠長自身も気付かぬ内に、家光との確執を深めていく事になる。
寛永3年(1626年)7月に、家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛けるが、幕府の防衛線において重要拠点の場所である大井川に無許可でやった事が問題視され、逆に不興を買ってしまう事になり、更に駿府では武家屋敷造成の為に寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係に大きな摩擦を生じた。
寛永7年(1630年)11月、浅間神社付近にある賎機山で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近でやった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ殺す事自体が禁止されており、更にはこの浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そんな場所で将軍家の血を引く忠長が猿狩りを行うのは以ての外であったのだが、猿狩りを止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と田畑を荒らす猿を駆除するのを理由に反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。そしてその帰途の際には、乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出した担ぎ手を殺害してしまっており、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。
寛永8年(1631年)12月、家臣の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた七之助が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、七之助を手打ちにしてしまう。事態を知って泣き叫ぶ父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまう事になり、それを理由として甲府への蟄居を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、許されなかった。
寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されず、一説では忠長の横暴な振る舞いを知った秀忠本人からも面会を拒絶されたとされている。
改易とその後
秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎へ逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。
寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において自刃した[8]。享年28。
引用終了
忠長の容姿や気性は織田信長に似ていたのではないかと思う面も有り、時代が戦国ならば信長のようにそれなりの結果を出していたのかも知れません。
ただ既に戦国時代は既に終わり、家臣達も気性が荒い主君を好まなかったという面も有るかと思います。
そしてもう一つ。
跡目争いも関連していると考えられる徳川幕府の内部抗争もまた激しく、「徳川幕府内部の戦国時代」となっていたのではないでしょうか。
いずれにしてもこれで土岐一族の縁戚となる男子系の血筋はここでほぼ途絶えたのですが、女子系の血筋は継続したようです。