真田幸村は関ヶ原の戦いの後、何故島流しにされなかったのか?
筆者の見方と結論から言うと、それは単純で「家康が大坂の陣での幸村のような役割として最初から使うつもりだったから」。
それを幸村に知らせていたかどうかはわかりません。
幸村がそれを知らされていたか、いなかったかはわかりませんが、召集がかかった時に比較的容易に参加できるように高野山に幽閉されていたのだと思われます。
本当に危険な人物ならば、宇喜多秀家のように八丈島へ島流しにして、簡単には脱出できないようにしていたはずだと思われます。
調べて見ると島流しにされても天寿を全うした宇喜多秀家はすごいです
関ヶ原の戦いで西軍の首謀者達の一人でありながら大敗したのにもかかららず前田氏との縁戚関係で処刑を免れ、そして1605年の慶長地震の津波では犠牲にならず、
引用開始(一部抜粋)
http://www.jamstec.go.jp/donet/rendou/report/provide01.html
東海・東南海・南海地震の強震動と津波の再評価
-1605年慶長地震における八丈島の津波痕跡高の再検討
引用終了
宇喜多秀家は八丈島噴火に遭遇してもまた生き残り、
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1605(慶長10)年
1月 関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。(孝亮記 1)
9月15日 八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。(震災調査会)
11月15日 八丈島噴火。(談海)
11月 下旬、浅間山が噴火する。(御日記44)
12月18日 八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。(慶長日記 1)(御日記44)
(台徳院御実記 2)(柳営年表)
引用終了
そして更に後の大坂の陣では八丈島までその話さえ届かなかったのか、それとも知ってはいたが行けなかったのか、或いは既に行く気も無かったのかどうか、果たしてどれなのかはわかりませんがとにかく大坂の陣には参加せず、人生の後半はこれと言った災いも無く1655年没。享年84。
数々の災難をかわしながらよく生き残りました。
人生の前半は大地震に遭うのに近いような敗戦の苦労でしたが、その後の強運さは注目に値します。
多くの災難も何のその、結果としては家康よりも長生きをして、著名な戦国武将の中でもほぼ最長寿命で天寿を全うしたのはあっぱれです。
筆者の見方と結論から言うと、それは単純で「家康が大坂の陣での幸村のような役割として最初から使うつもりだったから」。
それを幸村に知らせていたかどうかはわかりません。
幸村がそれを知らされていたか、いなかったかはわかりませんが、召集がかかった時に比較的容易に参加できるように高野山に幽閉されていたのだと思われます。
本当に危険な人物ならば、宇喜多秀家のように八丈島へ島流しにして、簡単には脱出できないようにしていたはずだと思われます。
調べて見ると島流しにされても天寿を全うした宇喜多秀家はすごいです
関ヶ原の戦いで西軍の首謀者達の一人でありながら大敗したのにもかかららず前田氏との縁戚関係で処刑を免れ、そして1605年の慶長地震の津波では犠牲にならず、
引用開始(一部抜粋)
http://www.jamstec.go.jp/donet/rendou/report/provide01.html
東海・東南海・南海地震の強震動と津波の再評価
-1605年慶長地震における八丈島の津波痕跡高の再検討
引用終了
宇喜多秀家は八丈島噴火に遭遇してもまた生き残り、
引用開始(一部抜粋)
http://www.nagai-bunko.com/shuushien/tenpen/ihen02.htm
1605(慶長10)年
1月 関東で大地震。死者多数。伊勢、筑紫でも大地震。(孝亮記 1)
9月15日 八丈島が噴火。三ツ根田畑損失多し。(震災調査会)
11月15日 八丈島噴火。(談海)
11月 下旬、浅間山が噴火する。(御日記44)
12月18日 八丈島噴火。一夜にして大山が出現する。(慶長日記 1)(御日記44)
(台徳院御実記 2)(柳営年表)
引用終了
そして更に後の大坂の陣では八丈島までその話さえ届かなかったのか、それとも知ってはいたが行けなかったのか、或いは既に行く気も無かったのかどうか、果たしてどれなのかはわかりませんがとにかく大坂の陣には参加せず、人生の後半はこれと言った災いも無く1655年没。享年84。
数々の災難をかわしながらよく生き残りました。
人生の前半は大地震に遭うのに近いような敗戦の苦労でしたが、その後の強運さは注目に値します。
多くの災難も何のその、結果としては家康よりも長生きをして、著名な戦国武将の中でもほぼ最長寿命で天寿を全うしたのはあっぱれです。