快気分析

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自然災害 仕組みとアプローチ -  井伊直虎は実際に女性だったのか 更に調べた結果

2017-02-27 22:32:57 | 地震 津波
 井伊直虎についての書物で最近話題になっているものがこれのようです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.sankei.com/photo/story/news/161215/sty1612150003-n1.html
 同美術館によると、古文書は、直虎を補佐していた今川家の武将、新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きし、子孫が約100年後にまとめた『雑秘説写記(ざつひせっしゃき)』。「(領地は)新野殿のおいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経(うじつね)の子が井伊次郎」とあるのが見つかった。
(中略)
 過去には、関口氏経と次郎直虎の連署がある書状も見つかっていたことも合わせ、井伊直虎が男子だった可能性があるとした。
 ただ、ここには「井伊次郎(直虎)」が井伊家の当主だったかどうかなどは触れられていなかった。
 これまで直虎については、江戸時代中期に龍潭寺(りょうたんじ)(浜松市)の和尚が記した『井伊家伝記』で、度重なる当主の戦死などで幼い男子しか残らず、その後見人として井伊直盛の一人娘の「次郎法師」が「井伊直虎」と名乗って井伊家を救ったとの内容が、記されている。

引用終了
 
 この資料については筆者はもっと強く認識していれば良かったと今になって思っています。
 2/19の記事で、「そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。」と書いたのですが、更に調べていくうちに、確かにその可能性も無かったわけでもないのですが、他のケースとして「どうも今川氏真にとっては井伊谷の領主が男であろうが、女であろうがそんな事はかまわなかった」と言う状況を想定できる事がわかって来ました。
 それは何の事は無い、「今川氏真により都合の良い家臣に首を挿げ替える事」です。
 それは関口越後守氏経と言う人物がどう言う人だったのか、について調べていた時の事です。
 確か、築山殿に父が関口親永でしたが、関口越後守氏経とはどう関係があるのか?についての情報には辿りつけませんでした。
 しかし関口氏については次のように有りました。

引用開始(一部抜粋)

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sekiguti.html
関口氏
(清和源氏今川氏一族)
乱世に翻弄される

 教兼・政興は今川氏親に仕え、明広年中駿府の守りにつき、府中城の外城花沢持舟城を筑城し、同城に在住した。政興は天文十七年(1550)、今川、織田合戦の時三州小豆坂において戦傷、その傷がもとで同年九月三州大滝城にて死亡した。その子氏緑は永禄三年(1560)、今川義元の上洛の軍に参加し、桶狭間の合戦において戦死した。
 氏緑の跡は、氏興が継いだ。氏興は『関口系図』には刑部大輔和泉守とあり、『瀬名系図』には陸奥守氏貞の二男義広伊豆守、刑部大輔政興の養子となるとし、今川・関口系図、瀬名親類書上げには氏広、義広、氏興は同一人で妻は、今川氏親の娘で義元の妹と載せている。いずれにしても、関口氏興は瀬名陸奥守氏貞の二男で、関口政興の養子となったものであろう。氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
 桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
 氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており、初代経国以来領有した三州関口庄は松平氏の攻略によって失っていた。そのため、岩淵分だけが関口氏の知行所という寂しさであった。しかも、その岩淵も天沢寺領として次々に今川氏に没収されるという状況であった。氏教の死亡の時期は不明で、家伝譜に、ただ駿州にて死亡と伝えられるばかりである。
 永禄十一年十二月、駿州興津河原の戦で、今川氏真に向背した一門衆のなかに瀬名陸奥守兄弟をはじめ、多くの譜代の重臣、一門衆がみられる。また、今川氏家臣団の将士が、武田信玄に内通したことは、史実に認められるところである。関口伊豆守一統も、義元戦死以来、ことあるごとに氏真に事を構えた譜代の重臣の一人であったろう。
 やがて、今川氏が没落すると、関口氏の子孫は徳川家に仕え旗本として続いた。また、紀州藩に仕えた関口流柔術の始祖・関口氏心もこの関口一族という。

引用終了

 これを見るとわかるのですが、「氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
 桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
 氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており」 の部分です。
 疑い深い今川氏真は今川方の国人達などの当主を暗殺、自害などに追い込み、そして所領を没収する、と言う事をしていたらしいのですが、この例が1562年です。
 そして井伊家の当主である井伊直親は、

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%A6%AA

井伊直親

永禄3年(1560年)、従兄であり養父でもある直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、主君の今川氏真から松平元康(のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日[注釈 1]、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年27。

引用終了

 関口氏興のパターンとまるで同じで時期もほぼ同じです。
 このパターンが繰り返されたと考えると、「今川氏真は井伊直親を暗殺した後、自分により都合の良い者を当主にするつもりだった、そしてそれは井伊家の者でなくても、更には男でも女でもどうでも良かった」、と言う事にもなるわけです。
 そして今川氏真の手先としてターゲットの井伊の当主を暗殺や自害に追い込む役を、小野政次が担っていて、こうした小野政次と同じような任務を遂行する同様の者が他の国人にも配置されていたのではないか、とも考えられます。
 ところで関口越後守氏経ですが、筆者は現時点ではやはり関口親永の親族で関口一族だったと考えています。
 関口一族にとっては築山殿の存在も有り、井伊家には廃絶になって欲しくはなかったはずと見られ、仮に徳川家がその後に更に勢力拡大した場合、関口家にとっては井伊家が存続していた方が存続していない場合よりも遥かに有利になわけですが、その後の歴史を見ればわかる通りで実際にそうなりました。
 
 

自然災害 仕組みとアプローチ -  明応地震と井伊氏の所領 井伊谷

2017-02-26 21:06:58 | 地震 津波
 井伊一族の所領である井伊谷が、赤石構造帯と中央構造線に囲まれた交通の要所に近い事は以前の記事に書きましたが、これ以外にも井伊谷が交通の要所や産業の拠点に近い事が挙げられます。
 そうなった原因は南海トラフ地震とも言われる明応地震とその後に何度か発生した自然災害です。
 これによって浜名湖がどうなったかは次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

http://www.hamana.net/shounai/rekisi/mizuumi.htm

平安時代 貞観4年
 (862) 浜名湖南端から太平洋に注ぐ浜名川河口に「浜名の橋」が架けられ古代東海道、東国方面への交通が確保される。
室町時代
明応7年
(1498) 地震津波により今切が出現、浜名湖は1部海と通じる。
明応8年
(1499) 暴風雨により遠州灘が高波高潮に見舞われ、天白原台地の高師山連峰の斜面が大雨によって山津波を引き起こし、浜名川の河口が埋まる。出口を失った水流は激流となって今切口より外海へ流れ出る。
永正7年
(1510) 暴風雨により今切口が広がる。浜名の橋、高波で破損、以後架橋されず。東西の交通は渡船に頼る。
永禄12年
(1569) 家康堀川城攻め落とす。堀江城主大沢基胤、家康に降伏する。
安土桃山時代
天正2年
(1574) 徳川家康、新居の船守に対し渡船定書を下す。
天正7年
(1579) 家康正妻、築山御前佐鳴湖岬にて斬殺38歳。
織田信長の命により家康の嫡子信康二俣城にて切腹、21才。
慶長5年
(1600) 徳川家康、今切の地に関所を設置する。
慶長6年
(1601) 徳川家康、本坂道の気賀に関所を設置する。
慶長7年
(1602) 徳川家康、今切渡船の運賃定める。
江戸時代
慶長9年
(1604) 徳川家康、東海、東北、北陸の3道に1里塚を築かせる。
(1里36町、1町を60間と定める)
元禄12年
(1699) 暴風雨により関所と新居宿が西方に移転、渡船距離が延びる。
宝永4年
(1707) 大地震により関所と新居宿現在地に移転。
渡船距離は約6kmに。本坂道(姫街道)を往来する人が増える。

引用終了

 まず明応地震で浜名湖が淡水域から汽水域になり、海に出られるようになった事と、汽水域は魚介類が豊富なので水産物による経済収益(米ではないが見えざる豊かな石高?)が大きくなった事があります。
 今切口周辺は潮流が速く三角波が立つ事もあるなど、今も海の難所の部類に入るようですから、16世紀なら船にはエンジンが無いわけですから尚更であり、港の機能としては限界があったのかも知れませんが、港湾整備などで遠い将来は大規模な港を作り水運の拠点とする事を考えた大名はきっといただろうと言う気はします。
 その後1510年の暴風雨により今切口が広がって浜名の橋、高波で破損、以後架橋されず、東西の交通は渡船に頼るようになると、陸路だけを使う場合は本坂道(姫街道)ルートになったようです。
 更に1707年からになりますが、大地震により関所と新居宿現在地に移転して渡船距離が約6kmになると、本坂道(姫街道)を往来する人が増える事になったとの事です。
 16世紀時点では未だ今切の渡船はかなり利用されていたようですが、それでも浜名湖北岸エリアの重要性が高まった事、それを今川氏、徳川氏共に認識していたのは確かだったと思われます。
 それと軍事上のルートとして、天候や潮流などに影響されやすく、見つかりやすい今切の渡船に依存するわけにはいかないケースもあるわけで、こうした浜名湖とその周辺の変化から、今川氏が井伊谷エリアに目をつけたとも見られ、領主である井伊家が混乱に巻き込まれた一つの要因だったのではないか、と筆者には思えます。
 




自然災害 仕組みとアプローチ -  再分析 井伊直虎は実際に女性だったのか

2017-02-25 23:18:53 | 地震 津波
 2/19の記事で「親族を見るとわかりますが、直虎の祖父の子孫は直虎が生まれるまで、井伊家は男ばかりなのです。」と書いたのですが、調べているうちにどうも女性も一人、それも重要な人が存在していたようでした。

引用開始 3件 (一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E5%8F%A3%E8%A6%AA%E6%B0%B8

関口 親永・瀬名 義広(せきぐち ちかなが/せな よしひろ)は、戦国時代の武将。今川刑部少輔家(今川関口家)の当主で駿河今川氏の有力家臣。主君今川氏親から偏諱を受けて親永に改める。駿河持船城主。妻は今川義元の妹(養妹とも)であり、徳川家康の正室・築山殿の父に当たる。
(中略)
永禄3年(1560年)、義元が織田信長によって桶狭間の戦いで討たれた後も衰退する今川氏を支えた。しかし娘婿の家康が今川氏から独立したため、義元の嫡男・氏真からその去就を疑われた結果、永禄5年(1562年)、駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
(中略)
妻 今川義元の妹(養妹で井伊直平の娘とも)


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%89%E5%B1%B1%E6%AE%BF

築山殿(つきやまどの、生年不詳 - 天正7年8月29日(1579年9月19日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。徳川家康(松平元康)の正室。本名は不明だが一般的には瀬名姫、鶴姫、築山御前(つきやまごぜん)、または駿河御前(するがごぜん)とも呼ばれる[1]。築山殿・築山御前という呼称は、長く岡崎城郊外の築山に幽閉されていたことによる。

遠江今川家である堀越氏の分流瀬名家の関口親永(または瀬名義広)の娘。よって、室町幕府の重鎮・今川貞世の血を引く。
結婚・出産
弘治3年(1557年)、今川義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信(元康、後の徳川家康)と結婚する[1]。永禄2年(1559年)に松平信康を、同3年(1560年)に亀姫(奥平信昌室)を産む。
転機・幽閉
永禄3年(1560年)5月19日の桶狭間の戦いにて伯父の今川義元が討たれ、元康(元信から改名。のちの家康)は岡崎に帰還することとなった。永禄5年(1562年)3月、父の親永は娘婿である家康(元康から改名)が織田信長と同盟を結んだ事で今川氏真の怒りを買い、正室と共に自害した。築山殿は、今川義元の妹の夫である上ノ郷城城主・鵜殿長照の2人の遺児との人質交換によって、駿府の今川館から子供たちと共に家康の根拠地である岡崎に移った。しかし、築山殿を嫌う家康の生母・於大の方が岡崎城に入ることを許さず、岡崎城の外れにある菅生川のほとりの惣持尼寺で、幽閉同然の生活を強いられたという。

永禄10年(1567年)、信康と織田信長の長女・徳姫が結婚する。しかし、築山殿は依然として城外に住まわされたままであった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E7%9B%9B

井伊 直盛(いい なおもり)は、戦国時代の武将。井伊直宗の子。井伊直平の孫。
亡父・氏親の頃に支配を確立した駿河、遠江の2ヵ国に、新たに三河国を傘下に治め、今川氏最大の版図を築いた今川義元は、永禄3年(1560年)に尾張国への遠征の為の大軍を動員。直盛は、その先鋒の大将に任じられた。

織田氏の各拠点を奪取するなど今川軍が優位だったが、同年5月19日、桶狭間にて休息中の本隊が織田信長自らに率いられた手勢の強襲を受け、多くの将兵を失っただけでなく、総大将の義元をも討ち取られた(桶狭間の戦い)。

妻 祐椿尼(新野親矩妹)

引用終了

 つまり関口親永の妻が今川義元の養妹で井伊直平の娘であるとする説が本当ならば、築山殿の祖父が井伊直平であり、井伊家は今川氏とかなり強い縁戚関係だった事になります。
 その今川氏が1560年の桶狭間の戦いで大敗し、今川義元以外にも主な今川方の武将のかなりの割合が戦死(井伊直盛もその一人)してしまってから織田氏に同盟した松平(徳川)氏と今川氏の間で井伊家は複雑な状況になって行ったようです。

 


自然災害 仕組みとアプローチ -  海山列の延長ラインとその周辺エリア そして新たな活断層

2017-02-24 20:19:03 | 地震 津波
 去年12/25の当ブログ記事、サブタイトル「鳥取県中部や熊本の地震と阿蘇山噴火 そして震源域がジャンプする理由」と2/26の記事、サブタイトル「紀南海山列のほぼ延長上に該当する地震」のあたりで海山列関連の事を書きました。
 今回はこの周辺の地震と新たな断層の発生に関連する事に書いてみようかと思います。
 真相がどうなのかはまだ証明されていませんが結論から書きますと、筆者は「海山列の延長線上の上層を通過するように動く地殻やプレートとその周辺では新たな断層が発生しやすい」と考えています。
 「地表近辺の地殻から遥か下にある深層のコブ(海山がユーラシアプレートの下に潜ったもの、或いは元々ユーラシアプレートの下にあったもの)の上を、より上層に有るプレートや地殻が乗越える場合、その場所や周辺のエリアで発生する歪の場所は少しずつ移動するだろう」、と言う事がその理由です。
 前回の記事でも引用しましたが、この中で、

引用開始(一部抜粋)

https://www.tv-sdt.co.jp/nnn/news890144364.html

 一方で、去年10月、鳥取県中部でおきた地震のように、事前に分かっていない「未知の断層」による地震も相次いでいることから、地震調査委員会では日頃から十分対策を行って欲しいとしている。 

引用終了

 この去年10月、鳥取県中部でおきた地震は新しい活断層なのかどうか、今後の調査結果が待たれます。
 こうしたケースは国内ではユーラシアプレートだけでなく、フィリピン海プレート、北米プレートにも、そして海外では他のプレートでも同様に発生し得ると考えています。
 ただこれらはいずれも多々有る新たな活断層発生メカニズムのごく一部のタイプに過ぎず、これ以外にも他のメカニズムで新たな活断層が発生するものが多種多様であるのは言うまでも有りません。

自然災害 仕組みとアプローチ -  未知の断層なのか?それとも新たな断層なのか?

2017-02-22 22:40:35 | 地震 津波
 大地震をおこす可能性がある活断層について次のようなニュースが有りました。

引用開始(一部抜粋)

https://www.tv-sdt.co.jp/nnn/news890144364.html

 政府の地震調査委員会は、将来、大地震をおこす可能性がある活断層に、新たに16の断層を追加すると決めた。
(中略)
 一方で、去年10月、鳥取県中部でおきた地震のように、事前に分かっていない「未知の断層」による地震も相次いでいることから、地震調査委員会では日頃から十分対策を行って欲しいとしている。 

引用終了

 「未知の断層」と言うのは、それまで既に存在していたのにわからなかった断層なのか、それとも「それまでに存在していなかった所に新たに発生した断層」なのか、のどちらなのでしょう。
 或いは両者を言うのでしょうか。
 仮に「それまで既に存在していたのにわからなかった断層」と言う場合は、以前から存在していた活断層である事を証明できなければなりません。
 断層については、新たに発生するものも少なくないと筆者は見ている事を以前の記事で書きました。