井伊直虎についての書物で最近話題になっているものがこれのようです。
引用開始(一部抜粋)
http://www.sankei.com/photo/story/news/161215/sty1612150003-n1.html
同美術館によると、古文書は、直虎を補佐していた今川家の武将、新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きし、子孫が約100年後にまとめた『雑秘説写記(ざつひせっしゃき)』。「(領地は)新野殿のおいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経(うじつね)の子が井伊次郎」とあるのが見つかった。
(中略)
過去には、関口氏経と次郎直虎の連署がある書状も見つかっていたことも合わせ、井伊直虎が男子だった可能性があるとした。
ただ、ここには「井伊次郎(直虎)」が井伊家の当主だったかどうかなどは触れられていなかった。
これまで直虎については、江戸時代中期に龍潭寺(りょうたんじ)(浜松市)の和尚が記した『井伊家伝記』で、度重なる当主の戦死などで幼い男子しか残らず、その後見人として井伊直盛の一人娘の「次郎法師」が「井伊直虎」と名乗って井伊家を救ったとの内容が、記されている。
引用終了
この資料については筆者はもっと強く認識していれば良かったと今になって思っています。
2/19の記事で、「そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。」と書いたのですが、更に調べていくうちに、確かにその可能性も無かったわけでもないのですが、他のケースとして「どうも今川氏真にとっては井伊谷の領主が男であろうが、女であろうがそんな事はかまわなかった」と言う状況を想定できる事がわかって来ました。
それは何の事は無い、「今川氏真により都合の良い家臣に首を挿げ替える事」です。
それは関口越後守氏経と言う人物がどう言う人だったのか、について調べていた時の事です。
確か、築山殿に父が関口親永でしたが、関口越後守氏経とはどう関係があるのか?についての情報には辿りつけませんでした。
しかし関口氏については次のように有りました。
引用開始(一部抜粋)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sekiguti.html
関口氏
(清和源氏今川氏一族)
乱世に翻弄される
教兼・政興は今川氏親に仕え、明広年中駿府の守りにつき、府中城の外城花沢持舟城を筑城し、同城に在住した。政興は天文十七年(1550)、今川、織田合戦の時三州小豆坂において戦傷、その傷がもとで同年九月三州大滝城にて死亡した。その子氏緑は永禄三年(1560)、今川義元の上洛の軍に参加し、桶狭間の合戦において戦死した。
氏緑の跡は、氏興が継いだ。氏興は『関口系図』には刑部大輔和泉守とあり、『瀬名系図』には陸奥守氏貞の二男義広伊豆守、刑部大輔政興の養子となるとし、今川・関口系図、瀬名親類書上げには氏広、義広、氏興は同一人で妻は、今川氏親の娘で義元の妹と載せている。いずれにしても、関口氏興は瀬名陸奥守氏貞の二男で、関口政興の養子となったものであろう。氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており、初代経国以来領有した三州関口庄は松平氏の攻略によって失っていた。そのため、岩淵分だけが関口氏の知行所という寂しさであった。しかも、その岩淵も天沢寺領として次々に今川氏に没収されるという状況であった。氏教の死亡の時期は不明で、家伝譜に、ただ駿州にて死亡と伝えられるばかりである。
永禄十一年十二月、駿州興津河原の戦で、今川氏真に向背した一門衆のなかに瀬名陸奥守兄弟をはじめ、多くの譜代の重臣、一門衆がみられる。また、今川氏家臣団の将士が、武田信玄に内通したことは、史実に認められるところである。関口伊豆守一統も、義元戦死以来、ことあるごとに氏真に事を構えた譜代の重臣の一人であったろう。
やがて、今川氏が没落すると、関口氏の子孫は徳川家に仕え旗本として続いた。また、紀州藩に仕えた関口流柔術の始祖・関口氏心もこの関口一族という。
引用終了
これを見るとわかるのですが、「氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており」 の部分です。
疑い深い今川氏真は今川方の国人達などの当主を暗殺、自害などに追い込み、そして所領を没収する、と言う事をしていたらしいのですが、この例が1562年です。
そして井伊家の当主である井伊直親は、
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%A6%AA
井伊直親
永禄3年(1560年)、従兄であり養父でもある直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、主君の今川氏真から松平元康(のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日[注釈 1]、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年27。
引用終了
関口氏興のパターンとまるで同じで時期もほぼ同じです。
このパターンが繰り返されたと考えると、「今川氏真は井伊直親を暗殺した後、自分により都合の良い者を当主にするつもりだった、そしてそれは井伊家の者でなくても、更には男でも女でもどうでも良かった」、と言う事にもなるわけです。
そして今川氏真の手先としてターゲットの井伊の当主を暗殺や自害に追い込む役を、小野政次が担っていて、こうした小野政次と同じような任務を遂行する同様の者が他の国人にも配置されていたのではないか、とも考えられます。
ところで関口越後守氏経ですが、筆者は現時点ではやはり関口親永の親族で関口一族だったと考えています。
関口一族にとっては築山殿の存在も有り、井伊家には廃絶になって欲しくはなかったはずと見られ、仮に徳川家がその後に更に勢力拡大した場合、関口家にとっては井伊家が存続していた方が存続していない場合よりも遥かに有利になわけですが、その後の歴史を見ればわかる通りで実際にそうなりました。
引用開始(一部抜粋)
http://www.sankei.com/photo/story/news/161215/sty1612150003-n1.html
同美術館によると、古文書は、直虎を補佐していた今川家の武将、新野左馬助親矩(にいのさまのすけちかのり)の娘らから、彦根藩(井伊家)の家老(左馬助の孫)が寛永17(1640)年に聞き書きし、子孫が約100年後にまとめた『雑秘説写記(ざつひせっしゃき)』。「(領地は)新野殿のおいの井伊次郎殿に与えられた」「関口越後守氏経(うじつね)の子が井伊次郎」とあるのが見つかった。
(中略)
過去には、関口氏経と次郎直虎の連署がある書状も見つかっていたことも合わせ、井伊直虎が男子だった可能性があるとした。
ただ、ここには「井伊次郎(直虎)」が井伊家の当主だったかどうかなどは触れられていなかった。
これまで直虎については、江戸時代中期に龍潭寺(りょうたんじ)(浜松市)の和尚が記した『井伊家伝記』で、度重なる当主の戦死などで幼い男子しか残らず、その後見人として井伊直盛の一人娘の「次郎法師」が「井伊直虎」と名乗って井伊家を救ったとの内容が、記されている。
引用終了
この資料については筆者はもっと強く認識していれば良かったと今になって思っています。
2/19の記事で、「そして男が女装したのが今川氏真の知る所となれば、本当に直虎は命を狙われたと考えるのが普通ではないでしょうか。」と書いたのですが、更に調べていくうちに、確かにその可能性も無かったわけでもないのですが、他のケースとして「どうも今川氏真にとっては井伊谷の領主が男であろうが、女であろうがそんな事はかまわなかった」と言う状況を想定できる事がわかって来ました。
それは何の事は無い、「今川氏真により都合の良い家臣に首を挿げ替える事」です。
それは関口越後守氏経と言う人物がどう言う人だったのか、について調べていた時の事です。
確か、築山殿に父が関口親永でしたが、関口越後守氏経とはどう関係があるのか?についての情報には辿りつけませんでした。
しかし関口氏については次のように有りました。
引用開始(一部抜粋)
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sekiguti.html
関口氏
(清和源氏今川氏一族)
乱世に翻弄される
教兼・政興は今川氏親に仕え、明広年中駿府の守りにつき、府中城の外城花沢持舟城を筑城し、同城に在住した。政興は天文十七年(1550)、今川、織田合戦の時三州小豆坂において戦傷、その傷がもとで同年九月三州大滝城にて死亡した。その子氏緑は永禄三年(1560)、今川義元の上洛の軍に参加し、桶狭間の合戦において戦死した。
氏緑の跡は、氏興が継いだ。氏興は『関口系図』には刑部大輔和泉守とあり、『瀬名系図』には陸奥守氏貞の二男義広伊豆守、刑部大輔政興の養子となるとし、今川・関口系図、瀬名親類書上げには氏広、義広、氏興は同一人で妻は、今川氏親の娘で義元の妹と載せている。いずれにしても、関口氏興は瀬名陸奥守氏貞の二男で、関口政興の養子となったものであろう。氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており、初代経国以来領有した三州関口庄は松平氏の攻略によって失っていた。そのため、岩淵分だけが関口氏の知行所という寂しさであった。しかも、その岩淵も天沢寺領として次々に今川氏に没収されるという状況であった。氏教の死亡の時期は不明で、家伝譜に、ただ駿州にて死亡と伝えられるばかりである。
永禄十一年十二月、駿州興津河原の戦で、今川氏真に向背した一門衆のなかに瀬名陸奥守兄弟をはじめ、多くの譜代の重臣、一門衆がみられる。また、今川氏家臣団の将士が、武田信玄に内通したことは、史実に認められるところである。関口伊豆守一統も、義元戦死以来、ことあるごとに氏真に事を構えた譜代の重臣の一人であったろう。
やがて、今川氏が没落すると、関口氏の子孫は徳川家に仕え旗本として続いた。また、紀州藩に仕えた関口流柔術の始祖・関口氏心もこの関口一族という。
引用終了
これを見るとわかるのですが、「氏興の娘は徳川家康の室となり「築山殿」と称され、信康を生んだ。
桶狭間において、義元が織田信長の奇襲によって討死したのち、駿河の用宗城にあった。ところが、義元の跡を継いだ氏真にその去従を疑われ、永禄五年(1562)今川氏真により駿府尾形町の屋敷にて切腹を命じられて果てた。
氏興自殺後、氏教が氏真に命じられて家督を相続したが、すでに関口氏の旧領花沢持舟四万二千石は氏真に没収されており」 の部分です。
疑い深い今川氏真は今川方の国人達などの当主を暗殺、自害などに追い込み、そして所領を没収する、と言う事をしていたらしいのですが、この例が1562年です。
そして井伊家の当主である井伊直親は、
引用開始(一部抜粋)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E8%A6%AA
井伊直親
永禄3年(1560年)、従兄であり養父でもある直盛が桶狭間の戦いで戦死したため、家督を継ぐ。しかし当時の遠江国は「遠州錯乱」と呼ばれる混乱状態にあり、直親は小野政直の息子・小野道好(政次)の讒言により、主君の今川氏真から松平元康(のちの徳川家康)との内通の疑いを受ける。縁戚であった新野親矩の取りなしで、弁明のためにわずかな供で駿府へ向かう道中の永禄5年12月14日(1563年1月8日)または同年3月2日[注釈 1]、掛川で今川家の重臣・朝比奈泰朝の襲撃を受けて討ち死にした。享年27。
引用終了
関口氏興のパターンとまるで同じで時期もほぼ同じです。
このパターンが繰り返されたと考えると、「今川氏真は井伊直親を暗殺した後、自分により都合の良い者を当主にするつもりだった、そしてそれは井伊家の者でなくても、更には男でも女でもどうでも良かった」、と言う事にもなるわけです。
そして今川氏真の手先としてターゲットの井伊の当主を暗殺や自害に追い込む役を、小野政次が担っていて、こうした小野政次と同じような任務を遂行する同様の者が他の国人にも配置されていたのではないか、とも考えられます。
ところで関口越後守氏経ですが、筆者は現時点ではやはり関口親永の親族で関口一族だったと考えています。
関口一族にとっては築山殿の存在も有り、井伊家には廃絶になって欲しくはなかったはずと見られ、仮に徳川家がその後に更に勢力拡大した場合、関口家にとっては井伊家が存続していた方が存続していない場合よりも遥かに有利になわけですが、その後の歴史を見ればわかる通りで実際にそうなりました。