快気分析

何か快適な気分になれるような記事にしたいです。

仕組みとアプローチ -  来年に向けて

2022-12-31 17:27:30 | 日記
 今年も世界的では災害で少なからぬ被害と犠牲者が出てしまいました。
 国内に限らずこれまで世界で発生した災害によりお亡くなりになられた犠牲者の方々に謹んでお悔やみを申し上げますとともに被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。
 来年はより良き年でありますように。

仕組みとアプローチ -  海水温度上昇や海水酸性化の原因が殆ど二酸化炭素のせいとする説には違和感がある理由

2022-12-31 17:19:23 | 地球温暖化
 昨今では海水温度の上昇は温室効果ガスのせいで地球が温暖化しその為に海水温度が上昇していると言う説がまかり通っています。
 ですが前回の記事で書いた通り、火山性活動による地中からの熱の放出で海水が温められている割合も程度の差は有れ有ると考えています。
 それと海水の酸性化も二酸化炭素によるものだけでなく、火山性活動やその他には化石燃料の燃焼などによる硫黄酸化物により海水が酸性化している面も大きいかと考えています。
 実は海水が二酸化炭素で酸性化すると言う理論そのものについて、個人的には疑問を持っています。
 何故かと言うと、海水中に溶け込んだ二酸化炭素は植物プランクトンや海藻などが光合成をするのに必要なわけで、だったら太陽光が十分に有れば二酸化炭素が海水中に多く溶ている程、それだけ光合成も盛んになるケースも多くなる、と考えられるからです。
 つまり二酸化炭素以外の成分、つまり火山性活動による硫黄酸化物や人間の活動による化石燃料の燃焼ガスや激増した人口が肉食する事で排泄された硫黄分などによって海水が酸性化している割合も少なくないと思うのです。
 そして「それまで光合成を十分に出来ていた植物プランクトンや海藻などが、海水の酸性化が進むと、これまでのように光合成できなくなり、つまり海洋に与えられた太陽光エネルギーが光合成で植物プランクトンなどに吸収され蓄えられずにそのまま海水温度の上昇となってしまう」、と言うケースも少なからず有るのではないでしょうか。
 実は通説とは原因と結果が逆で「二酸化炭素が多くなったから海水酸性化が進んだのではなく、他の要因で海水酸性化が進んだので植物プランクトンが減った為に光合成が減り、それで海水温度が上昇した面も少なくない」と言う「仕組み」について、今後はもっと考えてみるべきなのではないでしょうか?

仕組みとアプローチ -  トンガ沖海底火山大噴火で考えた事

2022-12-31 15:38:53 | 火山 地震 津波 
 今年は1月にトンガ沖海底火山大噴火が有りました。
 概要は次の通りです。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/2022%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%83%95%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AC%E5%99%B4%E7%81%AB

南太平洋・トンガ諸島の海底火山「フンガトンガ・フンガハアパイ火山」が1月15日に噴火した際、噴煙の高さは57キロに達したことが日米韓の静止気象衛星の観測データで分かった。英オックスフォード大などの研究チームが4日付の米科学誌サイエンスに発表した。観測史上最高で、地球大気の対流圏や成層圏を突き抜け、中間圏に到達していた。 [11]ニュージーランドの航空路火山灰情報センター(ウェリントン)は航空会社に対し、航空路火山灰情報を発表した[12]。爆発音は170キロメートル (110 mi)離れた地点でも聞こえたと報じられた[13]。最初の噴火は12月21日午前2時まで続いた[11]。その後も活動は継続し、12月25日に撮影された衛星画像では、島の面積が拡大したことが確認された[14]。

火山活動は2022年1月5日には一旦弱まったが[15]、1月14日4時ごろに活動を再開して大規模噴火が発生し、高度17 km (55,000 ft)にも達する噴煙が上がった[16][17]。トンガの地質学者チームによると、直径5kmの噴煙が18~20kmの高さに昇るのを確認した[18]。トンガ政府は住民に津波警報を発出した[19][20][21]。

そして1月15日17時ごろ(日本時間15日13時ごろ)、さらに大規模な噴火が発生した。前年12月20日の噴火よりも約7倍強かったとみられている[要出典]。噴火に伴う轟音は、トンガ国内のみならず、火山から500km以上離れたフィジーや、さらに遠く離れたニュージーランドとオーストラリアでも聞こえたとの報告が多数ある。噴煙は高度約16,000mまで上昇し[22]、半径260キロに広がった[6]。なお、イギリスのNERC国立地球観測センターによると、噴煙の傘は高度35kmに達し、その頂上部は高度55kmまで上昇した可能性がある[23]。 衛星の観測によると、約40万トンの二酸化硫黄が放出された。 また、この噴火によって成層圏に146テラグラムの水蒸気が流入した。これは、成層圏全体の水蒸気量の10%程度に相当し、滞留期間も硫酸塩エアロゾル(英語版)の2~3年を超えると予想される。この水蒸気滞留による温室効果によって温暖化が生じる可能性があるとしている[24]。

引用終了

 と言う事で他のネット資料でも殆どが大気に放出された水蒸気や二酸化硫黄やエアロゾルなどについての説明についてでした。
 個人的に気になるのは「噴火とその後に海中に放出された熱エネルギーや硫黄酸化物」です。
 例えば噴火時はそれ程ではなくてもその後に海底から直接や海底からの火山性ガスから海中に放たれた熱や硫黄酸化物により、どれだけ海水温度上昇の影響となったのか? 或いはどれだけ海水酸性化につながったのか?です。
 残念ながら私がネットで調べた範囲ではあまりはっきりしたデータが現時点では検索できていません。
 ですが、仮に熱が相当に海中に放出されれば、それはかなりの海水温度上昇になるでしょうし、更に仮に硫黄酸化物が海中に放たれていればこれは海水の酸性化に大きく影響するかと思われます。
 何でこんな事を書くか?と言うと、今日の千葉県の天気予報はほぼ晴れだったのに実際は昼過ぎまでかなりどんよりと曇っていて、これはもしかして海水温度が高く水蒸気が多いからこうして曇りや雨が多いのではないか?と思ったからです。
 実際にどう影響したのかは今の所わかっていません。
 何しろ、トンガ沖海底火山大噴火の後に現場周辺の海水温度を正確に時系列で多点観測したデータがどうも現時点ではネットで見当たらないからです。
 この海底火山噴火に限らず、日本でも今年の3月に北硫黄島近海で海底火山が噴火し、7000mの高さまで噴煙が上がりました。
 火山性活動でどれだけ海水が温められているのか?どれだけ海水が酸性化されているのか?と言うのはかなり重要なテーマと考えているのですがどうでしょう。
 

仕組みとアプローチ -  「新型コロナ死者数が急増、直近3カ月前年の16倍」の報道 これをどう見るか

2022-12-31 14:26:08 | 新型コロナウィルスやパンデミック
 新型コロナ死者数が急増したとの報道が最近有りました。

引用開始(一部抜粋)

https://mainichi.jp/articles/20221230/k00/00m/040/005000c

コロナ死者数が急増、直近3カ月前年の16倍 70歳以上が9割
毎日新聞 2022/12/30 09:00(最終更新 12/30 11:36)

 新型コロナウイルスに感染して死亡した人が29日、全国で新たに420人報告され、前日に続き過去最多を更新した。「新型コロナの死者数ってこんな規模感だっただろうか」。3年ぶりの行動制限のない年末年始を迎え、感覚がまひしているのかもしれない。そこで前年と比較してみると、驚くほどの急増ぶりと分かった。【デジタル報道センター】

1年前とは桁違いに多い死者数
 厚生労働省の公表資料を基に、まずは直近1週間の1日ごとの死者数を比較した。2021年12月は、23日3人▽24日0人▽25日1人▽26日0人▽27日0人▽28日2人▽29日4人――で計10人だった。

 一方、22年12月は、23日315人▽24日339人▽25日306人▽26日217人▽27日271人▽28日415人▽29日420人――で計2283人。単に1週間の死者数を比較したに過ぎないが、それでも22年は桁違いに多いことが分かる。

 比較する期間を直近3カ月(10月1日~12月29日)に広げてみると、21年が744人だったのに対し、22年は1万1853人。なんと15・9倍にもなっていた。

新型コロナウイルスのオミクロン株の電子顕微鏡写真=国立感染症研究所提供拡大
新型コロナウイルスのオミクロン株の電子顕微鏡写真=国立感染症研究所提供
やはり、高齢者は要注意
 では、どの年代が多く亡くなっているのか。直近の約4カ月間(22年8月31日~12月27日)について年代別の死者数の割合を見ると、80代(40・8%)が最多。90歳以上(34・7%)、70代(17・0%)と続いた。この年代だけで92・4%を占め、やはり高齢者ほど注意が必要なことが分かる。男女それぞれの死者の年代別割合は次の通り。

 男性は、10歳未満0.1%▽10代0.0%▽20代0.1%▽30代0.4%▽40代0.5%▽50代1.6%▽60代6.7%▽70代22・8%▽80代42・9%▽90歳以上24・8%――。

 女性は、10歳未満0.1%▽10代0.1%▽20代0.1%▽30代0.2%▽40代0.8%▽50代1.2%▽60代3.1%▽70代10・7%▽80代38・4%▽90歳以上45・3%――だった。

脇田座長「かなり増えている」
 厚労省に新型コロナ対策を助言する専門家組織「アドバイザリーボード」の座長で国立感染症研究所(感染研)の脇田隆字所長は、22年12月28日の記者会見で「死者数がかなり増えており注視している。地域差があるので分析が必要だ」と話した。

引用終了

 この数字ですが、本当に新型コロナウィルス感染が原因で死亡したのかどうか?について、もっと詳細な内訳を示して欲しいところです。
 確か以前は新型コロナで死亡jするのはサイトカインストームによるものが殆どだったとかのはずですが、ならば今回の発表についてはどうなのか?
 この点についてはっきり示してもらわないと、危機がどういうレベルなのかがわかりません。
 「ただ単に風邪やインフルエンザ、或いは老衰や誤嚥性肺炎や心筋梗塞や他のなどで亡くなった人達でたまたま新型コロナウィルスの抗体検査、或いはPCR検査で陽性だったから「新型コロナで死亡したのか?」、 それとも「新型コロナとの合併症で死亡したのか?」、 それとも「新型コロナによるサイトカインストームで死亡したのか?」、 或いは「新型コロナによるものだがサイトカインストームでない原因で死亡したのか?」、 一体どれなのでしょう。
 このあたりの内訳はわかりやすいように詳細を開示してもらいたいものですね。

仕組みとアプローチ -  家康と海賊豪族「正木氏」

2022-12-31 12:16:59 | 家康
 秀吉が瀬戸内海の海賊大名を巧妙に取り込み、その水軍力で支配を固めて行ったのは史実ですが、一方で家康は?と言うとそれなりに水軍強化をした形跡が残っています。
 例えば家康が1593年に側室として迎えたお万(後の養珠院)は房総半島の安房水軍の主力である正木頼忠の娘ですが、よほど家康はこの養珠院にぞっこんだったのか、後に養珠院と家康との間に生まれた子が後に紀州徳川家の家祖である徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖である徳川頼房となっています。
 何と徳川御三家の内、2つまでが正木氏の流れを汲んでいるのですね。

引用開始(一部抜粋)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A4%8A%E7%8F%A0%E9%99%A2

養珠院(ようじゅいん、天正5年(1577年)/天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。紀州徳川家の家祖徳川頼宣、および水戸徳川家の家祖徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。
以下の呼称は実名の万で統一する。

生涯
出自については『寛政重修諸家譜』などでは勝浦城主正木頼忠と智光院との間に生まれた娘とあり、『南紀徳川史』では河津城主蔭山氏広と智光院との間に生まれた娘もしくは冷川村百姓夫婦の娘など諸説ある。また母とされる智光院は『寛政重修諸家譜』などでは北条氏隆の娘[1]とあり、『南紀徳川史』では田中泰行の娘(板部岡江雪斎の姉、氏隆養女)という説がある。血筋は三浦義村の娘矢部禅尼を先祖に持つ三浦宗家の末裔である。

天正5年(1577年)4月4日、三浦庶流の正木頼忠を父として生まれたが、同年8月正木憲時の挙兵により勝浦城から三原(和田町)に移り、その後、小田原に居住した。天正12年(1584年)、母親が蔭山氏広と再婚したことより蔭山一族となったとされる[2]。小田原征伐の際に蔭山氏広は山中城籠城軍に加わるも、落城時に脱出し居城の河津城に戻ったが、伊豆国修善寺にて蟄居したと伝わる。一説に伊豆国冷川村の出身で幼いころに百姓である両親と死別した。

引用終了

 その正木氏ですが、次の史料によると里見氏だけでなく内房の正木氏は北条方として勢力が有ったようになっています。

引用開始(一部抜粋)

https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/kanzenban/kan_3shou/k3shou_2/k3shou_2.html
内房正木氏
正木氏登場のなぞ 戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。
(中略)
 亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
(中略)
正木氏登場のなぞ
 戦国時代の房総に里見氏とともに現われてきた有力な豪族に正木氏があります。三浦半島を中心に平安時代の末から鎌倉時代にかけて、房総半島にも勢力をのばして、東京湾の制海権を握っていた三浦氏の系統だといわれています。鎌倉幕府の有力御家人だった三浦氏や和田氏などは滅亡しましたが、その後も三浦半島にはその一族が勢力を持ちつづけ、三浦氏の家督も一族の中から相続するものがあり、戦国時代に北条早雲に滅ぼされるまでつづきました。三浦氏の一族には安房にも土着していったものが多く、多々良荘(富浦町)の多々良氏・佐久間郷(鋸南町)の佐久間氏・三原郷(和田町)の真田氏などが三浦一族とされています。安房を代表する武士である安西氏も三浦氏とつながる一族だといわれていたり、また三浦と安房を行き来して行動する糟屋氏などもいたりと、安房と三浦は強く結びついていました。この正木氏もこれまでは、明応三年(一四九四)の三浦氏の内部抗争に敗れた三浦時高の遺児が安房に
逃れて正木郷(館山市)に住み、正木時綱と名乗ったのが初代とされてきました。里見氏と同じように由緒のある武士が安房へ逃れてきたという話になっていたわけです。この時はまだ一、二歳の幼児でした。しかしこの話は不合理だということが以前から指摘されていました。
 亡命から十四年後の永正五年(一五〇八)に里見義通が鶴谷八幡宮(館山市)に奉納した棟札では、正木氏には安房国主の里見義通につぐナンバー2の国衙奉行人という地位が与えられてるのです。亡命してきたうえまだ十代の少年が、ナンバー2の地位にあるの不合理だというのです。しかも正木氏はこれ以後も決して里見氏の家臣ではなく、里見氏とは同等の立場の戦国武将であり、里見氏に協力をする独立性の強い存在でありつづけていました。永正五年の時点で安房国のナンバー2の地位にあるのは、すでに安房国内でも里見氏に次ぐ勢力をもっていたからこそといえます。そうした実力は正木氏がもっと早くから安房に土着し、三浦系
の武士たちの支持をえて着々と獲得した力だと考えられています。そして当主は通綱という名前が書かれています。当時の他の資料でも、正木氏は通綱という名でしかでてきていません。名前は時綱ではなく、義通から「通」の一字をもらって通綱と名乗っているのです。
 正木通綱がその勢力圏にしていたのは、正木氏が本城にしていたという山之城(鴨川市)がある長狭郡を拠点に、朝夷郡の北部(千倉町以北)にも及んだようです。三原郷の真田氏や久保郷(千倉町)の上野氏は正木氏の重臣になっています。丸山町から和田町・鴨川市にかけて正木氏の伝承やゆかりの寺院が多いのもそのためなのです。この地域には源頼朝の挙兵のときに三浦義澄が長狭氏を滅ぼして以来、三浦氏の影響力が浸透し残っていたということのようです。
 通綱は里見義通・義豊のもとで、大永六年(一五二六)には里見氏の指示によって、北条氏の監視下にはいった品川方面への攻撃をおこなっています。この港湾都市品川をめぐる攻防は、もちろん水軍による攻撃です。これは正木氏が水軍をつかいこなすことができる海の領主という面をもっていたということで、それが正木氏の力の源でもあったのです。
 そしてその力が里見氏の房総支配に大きな役割をはたし、また逆に里見氏を困難に陥れもしたのです。正木氏は独自の勢力として里見氏の歴史に大きな影響を与えました。

正木大膳
 ところで、正木氏といえば正木大膳の名が里見氏の史書のなかによく出てきます。正木通綱も大膳亮とか大膳大夫などと名乗りました。この大膳というのは戦国期の正木氏歴代のなかに少なくとも四人登場します。こうした名乗りを官途といいますが、家ごとに歴代が同じ官途をつかうケースはごく一般的に行なわれていたことでした。
 ひとりめが正木通綱で、天文二年(一五三三)に里見義豊に殺されて内乱のきっかけになった人物です。次にその跡を継いだ時茂が大膳亮と名乗りました。後世に槍の大膳と呼ばれて勇猛な武将として名を知られたのがこの時茂で、永禄十年の三船山合戦などで正木大膳の活躍する様子がえがかれていますが、じつは時茂は永禄四年(一五六一)に没しています。この大膳は当時から有名で、時茂は当時、房総からは遠くはなれた越前国の武将朝倉教景からさえも「人づかいの上手」と評されるほど、関東を代
表する武将として名を知られていました。
 三人目が天正九年(一五八一)に里見義頼に滅ぼされた正木憲時です。四人目はその跡へ養子に入った二代目の正木時茂で、里見家が慶長十九年(一六一四)に滅びたときにいた大膳です。家を継ぐと名前も継ぐことから、正木大膳が百年にわたって活躍することになり、そのうえ時茂がふたりもいるため正木大膳についての混乱がおこりがちです。さらに戦国時代の正木氏には独自の勢力をもっていた家が三家あったことから、なおさら分かりにくさを増してくるので気をつけなくてはなりません。つぎにその三家について紹介しておきます。

三つの正木氏
 正木氏は大きく分けるとふたつの系統ということになります。ひとつは内房の水上勢力を握っている正木氏で、もうひとつは外房に勢力を広げた正木氏です。そして外房の正木氏がさらにふたつの家に別れるのです。
 内房に勢力をもった正木氏は、外房の正木氏よりも古くから安房に入りこんでいた三浦氏ではないかと考えられている一族です。外房の正木氏も含めて房総正木氏の本家にあたるかもしれないといわれています。その勢力圏は勝山城のある佐久間(鋸南町)あたりから百首城のある造海(富津市)にかけての海岸部が中心で、対岸の三浦半島にも古くから所領をもっていたようです。つまり三浦半島と内房を股にかけて活動する海の豪族といえる存在です。 正木氏はもともと安房国の国衙の役人だったのではないかと考えられています。それは東国経済の大動脈になっていた東京湾で、関銭徴収や海上勢力の支配などに関する権限は国衙がもっていたからです。役人として正木氏がその権限を握っていたからこそ、戦国時代になっても水軍などの海上勢力を動かすことができたのだというわけです。水軍を動かす力をもつ内房正木氏が、房総正木氏の本家といえる理由もそこにあるわけです。

内房正木氏
 現在正木(館山市)という地名は国衙があった府中(三芳村)の隣にありますが、府中は慶長期には東国府とよばれて正木村のうちに含まれていました。国衙は正木郷のうちにあったわけで、そこを拠点にしていた正木氏が国衙の有力な役人だったことは充分に考えられるわけです。
 この内房正木氏については、天文十六年(一五四七)に正木弥五郎が保田郷の地頭として現れるのが最初に確認できる人物です。もちろんそれ以前からこの地域に勢力をもっていたはずです。その後天文二十二年(一五五三)から二十四年にかけて、上総峰上城を中心とする湊川流域の勢力を組織して北条方として活動し、里見氏に対して逆乱とよばれる争乱を引き起こしています。天文年間の末から天正年間の初めにかけては金谷城(富津市)を拠点にしていて、正木兵部大輔が内房正木一族の中心人物でした。永禄二年(一五五九)には北条氏から三浦半島で高額の所領を与えられていて、里見氏にも敵対する独自の勢力だったことがわかります。永禄年間には里見氏に帰順しますが、同じ一族の正木淡路守が入れ替わって金谷城にはいったようです。
 そして天正五年(一五七七)に里見氏が北条氏と和睦すると金谷城の役割は薄れ、淡路守は子源七郎とともに百首城に移って拠点とするようになり、兵部大輔の系統も安芸守が勝山城を拠点にするようになりました。百首の正木氏と勝山の正木氏は、ともに里見家のなかでは特別な家柄としての地位があったようで、天正十三年(一五八五)に里見義康が鶴谷八幡宮の神前で元服したときには、左右について介添えの役を勤めています。やがて義康の弟たちがそれぞれの家を継ぐことになり、里見家の御一門衆になりました。

引用終了

 尚、田喜正木氏、勝浦正木氏についてもこの引用資料によく出ているのですが、正木氏が海賊豪族と陸域支配の豪族として、まるで正木氏の掌に里見氏も北条氏も乗せるかのように房総半島や東京湾の多くのエリアを実質支配していた事がわかります。
 こうなるともう豪族とかでなく実質「海賊大名」なのではないかとも思えて来ます。
 当時の家康は正木氏との縁組で江戸周辺の制海権を強化したかった、それはいずれ戦う事になるであろう秀吉の豊臣側勢力との戦闘準備だった、と言う事がわかるのは「関ヶ原の戦い」の後になってからだったのでしょう。