38歳-39
完璧さという言葉に憧れながらも、その完璧さなどどこにもないと教えられるのが人生だった。その実体に近付きそうになるが、いつの間にか、しぼんだり、割れたりした。また懲りずに夢中になって百点満点を目指すが、それはそもそも理想の最終形でもなければ、究極の美でもないのだ。そう見えているだけなのだ。完璧という言葉に結果としてまどわされている。辞書には、この世に歩む限りないもの、と率直に定義したらよいのだ。
ひと本来の性格がある。世間的に認知されたり、金銭や肩書の上昇をのぞむものもいる。ぼくは内面だけという小さな枠で、自分自身を上方にもちあげたかった。すると、完璧というものが、馬のためのにんじんのようにぶら下がってしまう。
しかし、しないこともある。もう少しだけ優しくなれるのは簡単だった。思いやりにあふれた人間になることも、いまの地点を考えれば伸びる余地は充分過ぎるほどあった。だが、結局はしない。あの少女や、希美を失った時点で完璧さなどないと教え込まれていたはずなのだ。だが、ぼくは、冤罪に苦しむ犯罪者の判決を覆す正義の弁護士のように、あいまいな証拠として過去の血痕に目をつぶる。あれだけ血が流れていれば、犯罪は成立していたのだ。いまも、あの当時も。
では、絵美は完璧ではないのか? ぼくは反論ができない。避けるということではない。この現在のぼくにとっては満点をつけたくなる。もう一度、では、欠点がないということなのか? それも違う。欠点などあることは、四十手前の人間が知らないはずもない。ひとは小さな嘘をつき、小さなごまかしをする。ぼくらは生きているのだ。生きているというのは、それらを許されることなのだ。できないなら、未然に自殺か、もしくは製造そのものがされる理由がない。
ここに完璧などない。だが、ぼくはましな人間にならなければならない。設定をして、それを果たし、別の基準を設ける。その繰り返しを到達してやり過ごすことが、まだ、ぼくにとって生きるということなのだ。今後、その基準を捨てたり、うやむやにするかもしれない。そうなれば、ぼくの悩みも根絶されるだろう。その地点のぼくは、もうぼくと呼べるのだろうか。ぼく自身は、なにでぼくと成らせているのだろう。
ほんとうの愛はないが、理想の愛はある。理想の女性はいるが、人間に完全さなど求めてはいけない。かたつむりが完全な生物ではないように。カエルが、どの変態の場面でも完全さなどあきらめているように。
ぼくらは息をして、病気になる生物なのだ。最後は死を迎えるのを拒めない生命体なのだ。頭脳も劣ることを傾向としてもっており、体力も、気高さも失わせようとすることに何度も直面させられる。ここにも完璧さなどない。だから、それに近いひとに会えただけで幸運だと思わなければならなかった。欠点を探している余分の時間もないのだ。
このようにいつも思考のために思考する。人間はカエルでもないし、アヒルでもない。沼には飛び込まないし、冷たい湖に裸で、裸足で入りもしない。
この思考を無理して止めれば、ぼくでいられなくなる。ぼくの性格や性向を直そうとしたひともいたが、あれはぼくのために成ったのだろうか? ぼくを、ぼく以外の何にしたかったのだろう。ぼくは怠けることを正当化させるためだけに、こんな発言をしているのだろうか。それとも、あのときに直さなかったから、ぼくは絵美と幸せになれないのだろうか。
結論などない。ぼくが決めるものでもない。死後に、ぼくの棺の周りで友人たちが語り合えばいいのだ。ゆっくりと。頑固さと妥協の産物としてのぼくの生存した日々のことを。必死さと倦怠の中間にいるぼくを。ぼくは両極端にいない。誰もいない。川上から下流にながれ、いずれ海へとでる。みな、その間に角が摩耗されていく石なのだ。完璧の角もどこかですり減っていく。その小さな芯が、そのひと自身でもあるのだろう。
ぼくは砂浜にある小石をつかむ。そして、遠くに投げる。だが、十メートルぐらいしか飛ばなかった。絵美も同じことをする。それは、海水のところまでもたどり着かず、波打ち際の手前で落ちた。彼女は普通に右利きであった。
「もしかして、左利きだったんじゃないの?」
「じゃあ、もう一回、投げてみる」
彼女の投球フォームはさらに不格好になった。それにならって飛距離も減った。歩幅でも数歩という感じだった。
「だまされた。おなじことしてみ!」
ぼくは左手で小石を拾う。左利きには冷たい世界。彼らにとって、この世界は反対でもあり、逆にできている。ぼくは勢いよく投げる。さっきよりもちろん遠くにはいかなかったが、それほど悪いこともなかった。ぼくは反対の世界に足を踏み込む。そうなれればよかった。絵美ももう一度、行う。ふたりは完全ではない社会に住み、完全ではない政府とその機能に従っている。覆すことなど想像もせず、歴史のなかでそうした人々にあこがれを抱いたのも、かなりむかしのことだった。反対を数回もくりかえせば、もちろん正面であり、裏側などどちらかも分からなくなった。そして、絵美の姿勢のよい背中が見えた。
完璧さという言葉に憧れながらも、その完璧さなどどこにもないと教えられるのが人生だった。その実体に近付きそうになるが、いつの間にか、しぼんだり、割れたりした。また懲りずに夢中になって百点満点を目指すが、それはそもそも理想の最終形でもなければ、究極の美でもないのだ。そう見えているだけなのだ。完璧という言葉に結果としてまどわされている。辞書には、この世に歩む限りないもの、と率直に定義したらよいのだ。
ひと本来の性格がある。世間的に認知されたり、金銭や肩書の上昇をのぞむものもいる。ぼくは内面だけという小さな枠で、自分自身を上方にもちあげたかった。すると、完璧というものが、馬のためのにんじんのようにぶら下がってしまう。
しかし、しないこともある。もう少しだけ優しくなれるのは簡単だった。思いやりにあふれた人間になることも、いまの地点を考えれば伸びる余地は充分過ぎるほどあった。だが、結局はしない。あの少女や、希美を失った時点で完璧さなどないと教え込まれていたはずなのだ。だが、ぼくは、冤罪に苦しむ犯罪者の判決を覆す正義の弁護士のように、あいまいな証拠として過去の血痕に目をつぶる。あれだけ血が流れていれば、犯罪は成立していたのだ。いまも、あの当時も。
では、絵美は完璧ではないのか? ぼくは反論ができない。避けるということではない。この現在のぼくにとっては満点をつけたくなる。もう一度、では、欠点がないということなのか? それも違う。欠点などあることは、四十手前の人間が知らないはずもない。ひとは小さな嘘をつき、小さなごまかしをする。ぼくらは生きているのだ。生きているというのは、それらを許されることなのだ。できないなら、未然に自殺か、もしくは製造そのものがされる理由がない。
ここに完璧などない。だが、ぼくはましな人間にならなければならない。設定をして、それを果たし、別の基準を設ける。その繰り返しを到達してやり過ごすことが、まだ、ぼくにとって生きるということなのだ。今後、その基準を捨てたり、うやむやにするかもしれない。そうなれば、ぼくの悩みも根絶されるだろう。その地点のぼくは、もうぼくと呼べるのだろうか。ぼく自身は、なにでぼくと成らせているのだろう。
ほんとうの愛はないが、理想の愛はある。理想の女性はいるが、人間に完全さなど求めてはいけない。かたつむりが完全な生物ではないように。カエルが、どの変態の場面でも完全さなどあきらめているように。
ぼくらは息をして、病気になる生物なのだ。最後は死を迎えるのを拒めない生命体なのだ。頭脳も劣ることを傾向としてもっており、体力も、気高さも失わせようとすることに何度も直面させられる。ここにも完璧さなどない。だから、それに近いひとに会えただけで幸運だと思わなければならなかった。欠点を探している余分の時間もないのだ。
このようにいつも思考のために思考する。人間はカエルでもないし、アヒルでもない。沼には飛び込まないし、冷たい湖に裸で、裸足で入りもしない。
この思考を無理して止めれば、ぼくでいられなくなる。ぼくの性格や性向を直そうとしたひともいたが、あれはぼくのために成ったのだろうか? ぼくを、ぼく以外の何にしたかったのだろう。ぼくは怠けることを正当化させるためだけに、こんな発言をしているのだろうか。それとも、あのときに直さなかったから、ぼくは絵美と幸せになれないのだろうか。
結論などない。ぼくが決めるものでもない。死後に、ぼくの棺の周りで友人たちが語り合えばいいのだ。ゆっくりと。頑固さと妥協の産物としてのぼくの生存した日々のことを。必死さと倦怠の中間にいるぼくを。ぼくは両極端にいない。誰もいない。川上から下流にながれ、いずれ海へとでる。みな、その間に角が摩耗されていく石なのだ。完璧の角もどこかですり減っていく。その小さな芯が、そのひと自身でもあるのだろう。
ぼくは砂浜にある小石をつかむ。そして、遠くに投げる。だが、十メートルぐらいしか飛ばなかった。絵美も同じことをする。それは、海水のところまでもたどり着かず、波打ち際の手前で落ちた。彼女は普通に右利きであった。
「もしかして、左利きだったんじゃないの?」
「じゃあ、もう一回、投げてみる」
彼女の投球フォームはさらに不格好になった。それにならって飛距離も減った。歩幅でも数歩という感じだった。
「だまされた。おなじことしてみ!」
ぼくは左手で小石を拾う。左利きには冷たい世界。彼らにとって、この世界は反対でもあり、逆にできている。ぼくは勢いよく投げる。さっきよりもちろん遠くにはいかなかったが、それほど悪いこともなかった。ぼくは反対の世界に足を踏み込む。そうなれればよかった。絵美ももう一度、行う。ふたりは完全ではない社会に住み、完全ではない政府とその機能に従っている。覆すことなど想像もせず、歴史のなかでそうした人々にあこがれを抱いたのも、かなりむかしのことだった。反対を数回もくりかえせば、もちろん正面であり、裏側などどちらかも分からなくなった。そして、絵美の姿勢のよい背中が見えた。