当人相応の要求(11)
例えば、こうである。
アウシュビッツ。地理的には、ポーランドの都市の一部。だが、その名前が伝達してしまうイメージ。負の遺産。
彼は、人類が起こした最大の惨事として、この出来事を勝手にこころの中で認定する。もし、神がいるならば。
潰える希望。逃れない希望。「それでも人生にイエスと言う」
数字の発明とタトゥー。ナンバリング。
商品が配達途中に行方不明にならないとでもいうように番号化される人々。実際は、行方など追われなくなってしまうのだが。
彼は、人間の悲惨さの極限と、強迫観念に迫られつつある人間の行動を知るために、その歴史の記録を、一歩退いた地点から眺める。もちろん、影響がないように離れてはいるが、人類の一員として、知れば知るほど、ある種の純粋なこころを失ってしまう。もし、誰かが、この行動を止める力を持っているならば。タイムマシンという理想の輸送手段があるならば、彼は活用するだろう。
「それでも、人生にイエスと言えるのか?」
長年の主題。落ち込んだときの人生のテーマ。ビクター・フランクル。悪夢のような30代。ある時期の最低な境遇に負けなかった人。ユーモアをもって、自分の人生を遠くから眺めること。
彼は、思う。この勇気ある人が、この極限的な生活に足を踏み込まなかったとしたら、彼の物語を読む情熱は消えてしまったのだろうか。人のピンチを、離れたところで安楽にむさぼり読む自分の怠惰さ。
身代わりになること。ある一人の人生が、強制的に終わろうとしている。瞬時にではなく、餓死という期間を経て。「わたしには、家族がいる」と呟く男性。その反対に、
「神に仕えているわたしには家族はいない」と身代わりになるコルベという名前の男性。
彼は、考える。自分は、その状況を受け入れるだろうか。極限を試されたとして、軽快でも、滑稽でもよいから、また泣き喚いたとしても構わないから、その自分の人生を投げ捨てることなど出来るだろうか?
反対の立場。収容所の看守。いや、もっと権力のある所長という立場のヘスという人物。彼は、その人の残した自伝というか日記というか、自分について書かれたものを読む。感想は、人を殺すという重いことをまったく考えていないような、ただ義務感と勤勉さのあらわれとして職務をたんたんとこなす男性像にあきれる反面、おそろしさも感じる。こうした人が、ある責任ある立場にいると、何をしでかし、また何に気づかないのだろう。
それ以外にも、読み物や映画も耽読したり、あさって見たりもした。しかしであるが、その現実のもっている重みには当然のごとく、近寄れないでいる。
「それでも、人生にイエスと言う」
1945年1月27日。ソ連軍を通して、その場所は解放される。待つ、ということ。
人体に残る金を取り除き精製し、再利用する。
1492年。スペインからユダヤ人追放。
彼は、いろいろなことを考える。それとは別に、どうしても口を閉ざしてしまいたくなる。知識を得てしまうということは、もの凄く大切なものを捨ててしまうことなのだろうか。書店の本棚に手を延ばさなかった自分を、取り戻すことは可能だろうか?
数字。犠牲者は何人という数字。なにも意味をもたない数字の羅列。彼は、思う。ひとりひとりの人生を知りたいのだと。だが、時間が過ぎる。関係者も存在しなくなり、また居たとしても頭脳や記憶は褪せてしまい、それでも、だれかが語り継げたりするのだろうか。
満腹になって眠るということを自然の状態と受け入れている彼の態度。腹が減ったといっては憂鬱になる彼のガールフレンド。
1945年。解放された人たちは、何をしたのだろう。最初にしたかったことは、一体どんなことだろう。彼の単純すぎる脳細胞は、答えを見つけられないでいる。でも、暖かい布団と、ダイエットの心配をする境遇を真底、愛していたりもする。誰かの眠りを妨げないように。
例えば、こうである。
アウシュビッツ。地理的には、ポーランドの都市の一部。だが、その名前が伝達してしまうイメージ。負の遺産。
彼は、人類が起こした最大の惨事として、この出来事を勝手にこころの中で認定する。もし、神がいるならば。
潰える希望。逃れない希望。「それでも人生にイエスと言う」
数字の発明とタトゥー。ナンバリング。
商品が配達途中に行方不明にならないとでもいうように番号化される人々。実際は、行方など追われなくなってしまうのだが。
彼は、人間の悲惨さの極限と、強迫観念に迫られつつある人間の行動を知るために、その歴史の記録を、一歩退いた地点から眺める。もちろん、影響がないように離れてはいるが、人類の一員として、知れば知るほど、ある種の純粋なこころを失ってしまう。もし、誰かが、この行動を止める力を持っているならば。タイムマシンという理想の輸送手段があるならば、彼は活用するだろう。
「それでも、人生にイエスと言えるのか?」
長年の主題。落ち込んだときの人生のテーマ。ビクター・フランクル。悪夢のような30代。ある時期の最低な境遇に負けなかった人。ユーモアをもって、自分の人生を遠くから眺めること。
彼は、思う。この勇気ある人が、この極限的な生活に足を踏み込まなかったとしたら、彼の物語を読む情熱は消えてしまったのだろうか。人のピンチを、離れたところで安楽にむさぼり読む自分の怠惰さ。
身代わりになること。ある一人の人生が、強制的に終わろうとしている。瞬時にではなく、餓死という期間を経て。「わたしには、家族がいる」と呟く男性。その反対に、
「神に仕えているわたしには家族はいない」と身代わりになるコルベという名前の男性。
彼は、考える。自分は、その状況を受け入れるだろうか。極限を試されたとして、軽快でも、滑稽でもよいから、また泣き喚いたとしても構わないから、その自分の人生を投げ捨てることなど出来るだろうか?
反対の立場。収容所の看守。いや、もっと権力のある所長という立場のヘスという人物。彼は、その人の残した自伝というか日記というか、自分について書かれたものを読む。感想は、人を殺すという重いことをまったく考えていないような、ただ義務感と勤勉さのあらわれとして職務をたんたんとこなす男性像にあきれる反面、おそろしさも感じる。こうした人が、ある責任ある立場にいると、何をしでかし、また何に気づかないのだろう。
それ以外にも、読み物や映画も耽読したり、あさって見たりもした。しかしであるが、その現実のもっている重みには当然のごとく、近寄れないでいる。
「それでも、人生にイエスと言う」
1945年1月27日。ソ連軍を通して、その場所は解放される。待つ、ということ。
人体に残る金を取り除き精製し、再利用する。
1492年。スペインからユダヤ人追放。
彼は、いろいろなことを考える。それとは別に、どうしても口を閉ざしてしまいたくなる。知識を得てしまうということは、もの凄く大切なものを捨ててしまうことなのだろうか。書店の本棚に手を延ばさなかった自分を、取り戻すことは可能だろうか?
数字。犠牲者は何人という数字。なにも意味をもたない数字の羅列。彼は、思う。ひとりひとりの人生を知りたいのだと。だが、時間が過ぎる。関係者も存在しなくなり、また居たとしても頭脳や記憶は褪せてしまい、それでも、だれかが語り継げたりするのだろうか。
満腹になって眠るということを自然の状態と受け入れている彼の態度。腹が減ったといっては憂鬱になる彼のガールフレンド。
1945年。解放された人たちは、何をしたのだろう。最初にしたかったことは、一体どんなことだろう。彼の単純すぎる脳細胞は、答えを見つけられないでいる。でも、暖かい布団と、ダイエットの心配をする境遇を真底、愛していたりもする。誰かの眠りを妨げないように。