償いの書(121)
「ずっと、ひろし君に秘密にしていたことがある。黙っているのが、もういやになった」
「どんなこと?」ぼくも、裕紀にはなるべくなら隠しごとも少なく暮らしていきたいと思っていたが、すべてを開けっ広げにできて来た訳でもない。話せないこともあった
「わたしは、アメリカにいた。ゆり江ちゃんとたまに手紙のやり取りをしていた。ひろし君が、どんな大学生活を送っているか、教えてもらいたかった」
「それで?」
「教えてもらった」
「それが、秘密?」
「そう」
「それだけ?」
「それだけ。嫌いになる?」
「全然。ゆり江ちゃんとは友だちだった。いや、妹の友だち」
「ゆり江ちゃんに、そんな若い子にそんな役目をしてもらうべきじゃない。もっと素直な時代を与えるべきだった」
「いまでも、素直な子じゃない」裕紀は、ぼくとゆり江の本質的な確信を知らないのだろう。
「そうだけど、無邪気な少女のある一日を偵察みたいなことをさせたことについて、いまでも罪悪感をもっている」
「気にしすぎだよ」
「ひろし君は、わたしにはある? もし、今日が最後の日だったら胸の奥のものを告白してくれる?」
「基本的にはないけど、最後の日だったら、2、3話して置かなければならないことを見つけておく」
だが、なにがあってもぼくは話さないだろう。それが愛情だった。ぼくと、ゆり江は一時的だが、本気で愛し合った。ぼくらには、拘束されているものが多く、それを振り切る勇気もなかった。努力もしなかった。だが、その結果の積み重ねが今日につながっていることを、大人になったぼくは知っていた。
「ぼくの大学時代の報告は? どうだったリサーチの雇い主として」どうしても、話をそらす必要があった。
「あんなに好きだったラグビーをやめてしまった。その打ち込んでいた気持ちを、どこに割り当てるのだろう、彼は、と心配した。それで、休日にはサッカーを子どもたちに教えるお兄さんになった。ゆり江ちゃんの弟さんもそこにいた。だが、運動神経が発達していたのに、それは優秀すぎる彼にとって、もったいない気もした」
「その当時、ラグビーを辞めたことをなんども訊かれた。その度に、ぼくは過去の人間になったような気がして、厭だった。思い出したよ」
「素敵な彼女がいて、建築を学んでいる。知りえたのは、でも、それだけ」
「裕紀にもボーイ・フレンドがいたんだろう」
「いたよ。でも、あまり訊かないね」
「嫉妬に狂える鬼にでもなった方がいい?」
「別に。でも、自分に自信があるんでしょう? それで訊かない」
「このぼくが? 東京のコンビニで迷子のように心細かったぼくを見つけたくせに」裕紀は、笑った。彼女にとって、秘密というのは、そういう無邪気なものらしい。誰も傷つかなければ、憎しみもこの世に持ち込まない類いのものだった。
しかし、彼女の放ったどんな言葉も質問も、ぼくは記憶していこうと思っていた。そして、なるべくなら誠実にすべてを答え、嘘やごまかしが入り込まないようにしたかった。それは、裕紀に対してだけではないが、とくに永続的な関係を保つ彼女にとっては大切で必要でもあった。
彼女は飲み終わったコーヒーのカップを洗った。それを横のステンレスのかごに裏返しにして置いた。ぼくは、空想する。ゆり江は手紙を書いている。彼女の小さな部屋。ぼくは、なんどかそこを訪れる。彼女がぼくの態度を文字にすることによって、それは普遍的なものに変わり、海を越え、向かいの大陸にいるある女性が封を開け、その文字を読む。しかし、それがぼくの何を表し、どれほどの実態の証明になるのかは分からなかった。その文字をある意味で信じるしかなく、またある意味では目の前にいないものを信じることなどできないのだという圧倒的な事実を知る。そして、会いたいとか思ったり、憎もうという決意が芽生えるかもしれなかった。ぼくは、ずっと裕紀に憎まれているという恐れのもと暮らしてきた。そうされることを当人がしたわけでもあるし、また正当なことでもあった。裕紀にとって。だが、ゆり江は教えてくれなかった。裕紀は、ぼくのことを知りたいと思っていることや、憎しみなど微塵ももっていないことなどを。それを、教えるには自分に対しての愛情が減ることにつながるのかもしれない。ぼくは、雪代と交際して、それで二番目の立場にゆり江を置いていた。敢えて、三番目になる必要などもなかった。ぼくは、彼女の幼いこころを苦しめ、これが秘密であるということも覚った。いつか、口に出すのか? 決して、そのようなことはしないのだろう。
「その時の、手紙は?」テーブルの前に戻ってきた裕紀にたずねた。
「日本に戻ってくるときに処分した。そういう行為も好きになれなかったし、日本にいれば、自分の目でその少年の成長を確かめられるかもしれないという単純な信念のもと」
「悪くない? その成長は」
「どうなんでしょう」彼女は笑った。「今度、ゆり江ちゃんに会ったときにでも訊いてみれば。第三者の判断が正確なものかもしれない。いつでも」
「ぼくについて、そんなに興味ももってないよ。どうでもいい他人」
「なおさら、客観的」今度は、まじめな顔になった。
「ずっと、ひろし君に秘密にしていたことがある。黙っているのが、もういやになった」
「どんなこと?」ぼくも、裕紀にはなるべくなら隠しごとも少なく暮らしていきたいと思っていたが、すべてを開けっ広げにできて来た訳でもない。話せないこともあった
「わたしは、アメリカにいた。ゆり江ちゃんとたまに手紙のやり取りをしていた。ひろし君が、どんな大学生活を送っているか、教えてもらいたかった」
「それで?」
「教えてもらった」
「それが、秘密?」
「そう」
「それだけ?」
「それだけ。嫌いになる?」
「全然。ゆり江ちゃんとは友だちだった。いや、妹の友だち」
「ゆり江ちゃんに、そんな若い子にそんな役目をしてもらうべきじゃない。もっと素直な時代を与えるべきだった」
「いまでも、素直な子じゃない」裕紀は、ぼくとゆり江の本質的な確信を知らないのだろう。
「そうだけど、無邪気な少女のある一日を偵察みたいなことをさせたことについて、いまでも罪悪感をもっている」
「気にしすぎだよ」
「ひろし君は、わたしにはある? もし、今日が最後の日だったら胸の奥のものを告白してくれる?」
「基本的にはないけど、最後の日だったら、2、3話して置かなければならないことを見つけておく」
だが、なにがあってもぼくは話さないだろう。それが愛情だった。ぼくと、ゆり江は一時的だが、本気で愛し合った。ぼくらには、拘束されているものが多く、それを振り切る勇気もなかった。努力もしなかった。だが、その結果の積み重ねが今日につながっていることを、大人になったぼくは知っていた。
「ぼくの大学時代の報告は? どうだったリサーチの雇い主として」どうしても、話をそらす必要があった。
「あんなに好きだったラグビーをやめてしまった。その打ち込んでいた気持ちを、どこに割り当てるのだろう、彼は、と心配した。それで、休日にはサッカーを子どもたちに教えるお兄さんになった。ゆり江ちゃんの弟さんもそこにいた。だが、運動神経が発達していたのに、それは優秀すぎる彼にとって、もったいない気もした」
「その当時、ラグビーを辞めたことをなんども訊かれた。その度に、ぼくは過去の人間になったような気がして、厭だった。思い出したよ」
「素敵な彼女がいて、建築を学んでいる。知りえたのは、でも、それだけ」
「裕紀にもボーイ・フレンドがいたんだろう」
「いたよ。でも、あまり訊かないね」
「嫉妬に狂える鬼にでもなった方がいい?」
「別に。でも、自分に自信があるんでしょう? それで訊かない」
「このぼくが? 東京のコンビニで迷子のように心細かったぼくを見つけたくせに」裕紀は、笑った。彼女にとって、秘密というのは、そういう無邪気なものらしい。誰も傷つかなければ、憎しみもこの世に持ち込まない類いのものだった。
しかし、彼女の放ったどんな言葉も質問も、ぼくは記憶していこうと思っていた。そして、なるべくなら誠実にすべてを答え、嘘やごまかしが入り込まないようにしたかった。それは、裕紀に対してだけではないが、とくに永続的な関係を保つ彼女にとっては大切で必要でもあった。
彼女は飲み終わったコーヒーのカップを洗った。それを横のステンレスのかごに裏返しにして置いた。ぼくは、空想する。ゆり江は手紙を書いている。彼女の小さな部屋。ぼくは、なんどかそこを訪れる。彼女がぼくの態度を文字にすることによって、それは普遍的なものに変わり、海を越え、向かいの大陸にいるある女性が封を開け、その文字を読む。しかし、それがぼくの何を表し、どれほどの実態の証明になるのかは分からなかった。その文字をある意味で信じるしかなく、またある意味では目の前にいないものを信じることなどできないのだという圧倒的な事実を知る。そして、会いたいとか思ったり、憎もうという決意が芽生えるかもしれなかった。ぼくは、ずっと裕紀に憎まれているという恐れのもと暮らしてきた。そうされることを当人がしたわけでもあるし、また正当なことでもあった。裕紀にとって。だが、ゆり江は教えてくれなかった。裕紀は、ぼくのことを知りたいと思っていることや、憎しみなど微塵ももっていないことなどを。それを、教えるには自分に対しての愛情が減ることにつながるのかもしれない。ぼくは、雪代と交際して、それで二番目の立場にゆり江を置いていた。敢えて、三番目になる必要などもなかった。ぼくは、彼女の幼いこころを苦しめ、これが秘密であるということも覚った。いつか、口に出すのか? 決して、そのようなことはしないのだろう。
「その時の、手紙は?」テーブルの前に戻ってきた裕紀にたずねた。
「日本に戻ってくるときに処分した。そういう行為も好きになれなかったし、日本にいれば、自分の目でその少年の成長を確かめられるかもしれないという単純な信念のもと」
「悪くない? その成長は」
「どうなんでしょう」彼女は笑った。「今度、ゆり江ちゃんに会ったときにでも訊いてみれば。第三者の判断が正確なものかもしれない。いつでも」
「ぼくについて、そんなに興味ももってないよ。どうでもいい他人」
「なおさら、客観的」今度は、まじめな顔になった。
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