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壊れゆくブレイン(125)

2012年09月14日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(125)

 ぼくは飛行機に乗っている。出張が目的であった。だが、その土地には大学時代の友人が設計したビルがあった。それも見たいと思っている。

 ぼくらの可能性はスタートの時点では同じようなものだった。彼女は自分の能力を発揮する機会を与えられ、自分は会社員として日常の業務に追われた。それは望んだことでもあり、それを続けてきたことによって、自分は自分になった。仕事が影響していまの自分になり、それらしい容貌も手にした。ときには愛想良く、ときには信頼される人間。ぼくと対面して接したひとはそう評した。

 空港に到着し、見知らぬ町の匂いや雰囲気を肌で感じる。ぼくはさらに電車に乗り、約束の相手がいる場所に向かった。会うのは午後からだったので、その前に昼飯の場所を探した。ぼくはいくつかのメモをもっていた。会社の仲間がそこらの美味しい店をピックアップしてくれていた。そのメモのなかの情報と、いまの空腹感と、望んでいるものを混ぜ合わせ、選別してひとつの店に入った。店には数名の列ができていた。ぼくは数分並び椅子にすわった。

 鮮度が命という食材がすこし手を加えられ、より美味しいものに化けた。ぼくと大学時代の友人は当時、互いのことを気兼ねなく評価し合った。評価というよりもそれは手厳しい批判に変わることも度々だった。だが、ぼくらは憎み合ったりすることもなかった。友人というものは概してそういうものかもしれない。そして、彼女の意見を取り入れ、ぼくは勉強の成果を一ランクアップさせる。自分自身で見えないことが彼女の指摘を通して、より具体化させられた。

 ぼくは満足して外にでた。地元とも違う空気の質や空の色や雲の形状をぼんやりと眺める。まだまだぼくは新鮮さをもっているのだと裁定し、外部からの力によって内面をも変革させたいという魔法のようなことを願った。

 その後の仕事は段取りよく進み、予定通りに終わった。そもそも顔を会わせる必要もなかったのかもしれないが、実際の表情を見た方が、信頼感は違ってくる。そのスパイスをぼくの顔と長年の経験はもっているようだった。

 ぼくはホテルに荷物を置き、印刷された地図だけをもって町を歩いた。革靴の固い音の響きがする。ぼくはきょろきょろと辺りを見回す。そして、角を曲がると目的のビルがあった。ぼくはポケットからカメラを取り出し、その外観を写真に残す。25年も前になるある女性との会話。自分の設計した建物を日本のあらゆる場所に残したいと言った。そのことが実現されている。ぼくはその流れた月日の長さを感じ取っていた。

 ぼくはその間に何をしてきたのだろう。何を成し遂げたのだろうか。成果として目に見える何が残っているのだろう。悲観していたわけではない。ぼくは蜘蛛の糸のように張り巡らされた関係性を持っていた。雪代がいて、義理の娘が東京にいた。姪や甥は成長し、それぞれの能力を開花させるのだろう。裕紀はいないが、彼女によく似た姪がぼくの前にあらわれた。そのどちらが、建物と、ぼくとの関連があるひとびとと、どちらが重いのかをぼくは写真を撮りながらも考えていた。答えはでないが、ぼくに似つかわしいのは人間を通した間柄であり、簡単にいえば人脈だった。それはビルの内部の配管や電気の線のように生きる力をつなげ、喜びやさまざまな感情を呼び起こす源流のような働きを帯びている。そのどれもがどこかにつながり中断させることはない。ぼくは、内部のために見えないひとつひとつのそれらの機能を見つけ出し入念に誉めたかった。そして、ぼくの人生はそれだけでも成功だったのだと自分に合格点を与えたかった。

 見知らぬ町の見知らぬ店に入る。瓶のビールが運ばれる。その店員がどういう人生を送ってきたのかはまったく分からない。ぼくが理解しているのは、彼もあのビルを眺めたであろうという事実であった。しかし、そのビルに注意を払うこともないのかもしれない。あまりにも身近にありすぎて、それは風景の一部として埋没しているのだろう。それでも良いのだ。存在していること自体が否定されるわけでもないのだから。ぼくの身体のなかを流れている血液と同じだ。血管もあらゆる臓器も外部からは見えない。しかし、そのひとつひとつがぼくの思い出を運んでいるような錯覚をもった。それは本当のことを言えば脳が記憶し管理し、留めておいてくれるのだろう。裕紀の死も覚え、同時に笑顔も覚えている。彼女が触れたぼくの腕は微細な感覚を有し、その一本一本の毛にまで彼女のぬくもりを感じている。その腕は裕紀の死を自覚する必要もない。触れられた記憶だけ認識つづければ満足なのだ。

 ぼくはビールが喉を通るときの冷たい刺激を感じていた。ぼくはビールを飲むというたくさんの機会を数えることはない。しかし、そこには雪代がいて、目の前でグラスに付着した口紅を取る仕種も覚えているし、裕紀の繊細な指が箸を器用に扱った様も覚えている。娘の広美は大口を開けて笑っていた。ビルがその町のモニュメントのようになり皆の記憶にとどまることが美しければ、ぼくの無尽蔵に与えられていない命の一部をつかって記憶させることも同様に美しいものだった。それは負け惜しみでもない。見知らぬ町でひとり過ごしているときの実感だった。

「お客さん、お仕事で?」
「ここのひとじゃないって分かる?」
「もちろんですよ。客商売ですから。きれいな奥さんがいて、子どもがひとり。多分、女の子ですね」カウンターの向こうで包丁をもつ手を休めながら彼はそう言った。
「あたっているよ」
「そうですか、良かった」

 だが、それはどこまで当たっているのだろう。二人目の妻。義理の娘。ぼくの人生はもっと複雑であり、また別の視点から見ればもっとシンプルでもあった。納得できる幸福につつまれ、多少の喪失感も抱えていた。でも、実力以上に応援されるひとのようにぼくは大切なひとびとに好かれた。それにきちんとお返しをしてきたかといえば、実際はそうでもなかった。だが、店の主にそこまで言う必要はない。ぼくは彼の前にあらわれたただのストレンジャーであり、ぼくの内部に記憶しつづけるほど深い喜びも悲哀もまだ与えてくれそうにない。

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