壊れゆくブレイン(122)
ぼくは美緒という少女が通う塾があるビルの玄関まで送っていく。同じような年代の子たちがそれぞれの向上心を胸に秘め、ビルのなかに入る。彼らは一様に下を向いている。それで、ぼくの存在に誰も気付かないようだ。でも、なぜぼくはそのような行動を無神経にも取っているのだろうか。
ぼくと彼女の年齢差は30年ほどあった。彼女が産まれたのはぼくが30前後のはずだった。ぼくはその当時、裕紀と結婚していた。およそ2年ぐらいの結婚生活を迎えていた時期だ。もし、そのころにぼくらの子どもがいたら、その子は美緒ぐらいの年齢になっていたはずだった。すると、ぼくはどこかの町でその架空の子どもを塾に行かせ、その送り迎えをしていたのかもしれない。
「ありがとうございます。お店の飲み物も」しかし、自分の子どもでもない彼女は別れ際に丁寧に礼を言った。ぼくは気恥ずかしさを隠し、同じように会釈した。それから、待ち合わせのひとと会うため、道をすすんだ。
ぼくは空想をもてあそぶ。もし、裕紀が死んだときにぼくに娘がいたらどうなっていたのだろう。悲しさをひた隠しにしてその子のために懸命に生きたのだろう。自分の悲しみに溺れることはできなかったはずだ。すると、そこからの救出は必要ではなく、雪代がぼくを助けてくれたという物語も消滅する。ぼくは誰かに浮き輪を海上に投げ込んでもらうことを欲していた。波は強く、がむしゃらに首だけ水面から出し塩辛い水を飲んでいた。ぼくは遠くにあるその浮き輪を抱き囲む。
いや、その子の未来など考えることなく、ぼくは自分の悲しみを最上級の感情として自慢し披露するのだ。誰一人としてぼくほどの悲しみを得ていないという下らない言い草を見つけ。その悲しみに敬意をはらってもらいたく、またさらに悲しむ。誰からも疎んじられ、娘もぼくを手放す。すべての責任を放棄して、ぼくはぼくだけの道を歩む。結局は最終的に雪代と会うのだ。
ぼくは仕事相手と会ったときはさすがにこのことを忘れたが、仕事もうまくまとまり会社に戻った後、先ほどの空想を再開させるためだけにひとりで酒場に向かった。
「何か良いことありました?」ぼくはただ普通にその場所にいるだけだった。感情の揺れなど一切なく、ただここに座っているだけ。いつものように。
「別に。どうして?」ぼくは店のひとがぼくに投げかけた理由が知りたく質問する。
「別にって、何となくですよ。何となく」
ぼくが美緒という少女を見つけたことはそもそも良いことなのだろうか。さらに裕紀を思い出すきっかけを追加することになっただけではないのだろうか。そのようなことがなくてもぼくは執拗に思い出していた。だが、もしかしたら今日は違かった。ぼくは裕紀とは別個の存在として、あの少女を見たのだ。ひとつの可能性をもった女性として。幸福になる無限の潜在力をもっている人間。しかし、外見がよく似ているため再び裕紀と結び付けてしまう。
裕紀も塾に通っていたのだろう。その数年後にぼくと会う。ぼくらは互いを必要とした。幼いこころは同一になることを望んでいた。そして、ぼくらの身体は隙間もなく密着する。だが、雪代がいたために、また自分の不甲斐なさのためにぼくらの関係は裂かれる。その原因を作ったのは自分なので、被害者のように言うのは適当ではない。ぼくらは、そうすると会った方が良かったのだろうかという根本的な問題にぶつかる。しかし、会ってしまったのだ。帽子を拾った美緒を見つけ、避けられなかったように。
「帰るね」とひとり言のようなセリフを呟き、店をあとにする。夕飯が家で待っている。ぼくは、この半日の出来事をカバンにでもしまうように歩いている。それは忘れてしまえることでもない、あとでもう一度思い出してみるのだ。
「風、強かったね。大丈夫だった?」雪代がキッチンで振り返る。
「うん。でも、もうおさまった」
「なんか、良いことでもあった? 楽しそうだよ」
「仕事がうまくいったからだろう」
「気に入ってもらえたんだ・・・」
「やり直しは満足につながる」
「どうしたの。何かの標語?」
「違うよ。いまの気持ち。手伝おうか」
「これ、テーブルに置いて」雪代は料理されたものが盛り付けられた皿を指差す。湯気が浮かび、鼻腔を喜ばす匂いだった。ぼくはさらに顔を近づけた。
「水泳どう? なかには泳げなくて溺れそうなひともいるんだろう?」
「そんなひとはいないよ。健康のためプールのなかを歩いているひとはいるけど」
「でも、溺れそうなひとには浮き輪がある」
「インストラクターが泳いで助けに行くでしょう、緊急のときは」
「緊急だよな」ぼくも緊急に助けを必要としていた時期があった。いや、溺れている状態と知りながらそこから抜けることを心底では望んでいなかった。ぼくも自分の命を終わらせたかったのだ。彼女のいない世界なんて。だが、その女性に似た少女が今日、強風のなかでしっかりと自分で立っていた。力強さもないが、ぼくはその普通の事実に感動していた。大雨でもなく、照りつける強い日差しの下でもない。太い枝すら折ってしまうような強風のなか美緒はいた。ぼくはそのなかに裕紀の一部を認め、できれば彼女しか知らないぼくの秘密や癖を言ってほしかった。だが、それはあまりにも欲張り過ぎていた。中学生の少女はぼくの何も知らない。あそこで溺れた日々があったことも知りもしないのだろう。塾の先生も教えない。これが妻を亡くして死ぬ寸前までいった人間ですとは。
ぼくは美緒という少女が通う塾があるビルの玄関まで送っていく。同じような年代の子たちがそれぞれの向上心を胸に秘め、ビルのなかに入る。彼らは一様に下を向いている。それで、ぼくの存在に誰も気付かないようだ。でも、なぜぼくはそのような行動を無神経にも取っているのだろうか。
ぼくと彼女の年齢差は30年ほどあった。彼女が産まれたのはぼくが30前後のはずだった。ぼくはその当時、裕紀と結婚していた。およそ2年ぐらいの結婚生活を迎えていた時期だ。もし、そのころにぼくらの子どもがいたら、その子は美緒ぐらいの年齢になっていたはずだった。すると、ぼくはどこかの町でその架空の子どもを塾に行かせ、その送り迎えをしていたのかもしれない。
「ありがとうございます。お店の飲み物も」しかし、自分の子どもでもない彼女は別れ際に丁寧に礼を言った。ぼくは気恥ずかしさを隠し、同じように会釈した。それから、待ち合わせのひとと会うため、道をすすんだ。
ぼくは空想をもてあそぶ。もし、裕紀が死んだときにぼくに娘がいたらどうなっていたのだろう。悲しさをひた隠しにしてその子のために懸命に生きたのだろう。自分の悲しみに溺れることはできなかったはずだ。すると、そこからの救出は必要ではなく、雪代がぼくを助けてくれたという物語も消滅する。ぼくは誰かに浮き輪を海上に投げ込んでもらうことを欲していた。波は強く、がむしゃらに首だけ水面から出し塩辛い水を飲んでいた。ぼくは遠くにあるその浮き輪を抱き囲む。
いや、その子の未来など考えることなく、ぼくは自分の悲しみを最上級の感情として自慢し披露するのだ。誰一人としてぼくほどの悲しみを得ていないという下らない言い草を見つけ。その悲しみに敬意をはらってもらいたく、またさらに悲しむ。誰からも疎んじられ、娘もぼくを手放す。すべての責任を放棄して、ぼくはぼくだけの道を歩む。結局は最終的に雪代と会うのだ。
ぼくは仕事相手と会ったときはさすがにこのことを忘れたが、仕事もうまくまとまり会社に戻った後、先ほどの空想を再開させるためだけにひとりで酒場に向かった。
「何か良いことありました?」ぼくはただ普通にその場所にいるだけだった。感情の揺れなど一切なく、ただここに座っているだけ。いつものように。
「別に。どうして?」ぼくは店のひとがぼくに投げかけた理由が知りたく質問する。
「別にって、何となくですよ。何となく」
ぼくが美緒という少女を見つけたことはそもそも良いことなのだろうか。さらに裕紀を思い出すきっかけを追加することになっただけではないのだろうか。そのようなことがなくてもぼくは執拗に思い出していた。だが、もしかしたら今日は違かった。ぼくは裕紀とは別個の存在として、あの少女を見たのだ。ひとつの可能性をもった女性として。幸福になる無限の潜在力をもっている人間。しかし、外見がよく似ているため再び裕紀と結び付けてしまう。
裕紀も塾に通っていたのだろう。その数年後にぼくと会う。ぼくらは互いを必要とした。幼いこころは同一になることを望んでいた。そして、ぼくらの身体は隙間もなく密着する。だが、雪代がいたために、また自分の不甲斐なさのためにぼくらの関係は裂かれる。その原因を作ったのは自分なので、被害者のように言うのは適当ではない。ぼくらは、そうすると会った方が良かったのだろうかという根本的な問題にぶつかる。しかし、会ってしまったのだ。帽子を拾った美緒を見つけ、避けられなかったように。
「帰るね」とひとり言のようなセリフを呟き、店をあとにする。夕飯が家で待っている。ぼくは、この半日の出来事をカバンにでもしまうように歩いている。それは忘れてしまえることでもない、あとでもう一度思い出してみるのだ。
「風、強かったね。大丈夫だった?」雪代がキッチンで振り返る。
「うん。でも、もうおさまった」
「なんか、良いことでもあった? 楽しそうだよ」
「仕事がうまくいったからだろう」
「気に入ってもらえたんだ・・・」
「やり直しは満足につながる」
「どうしたの。何かの標語?」
「違うよ。いまの気持ち。手伝おうか」
「これ、テーブルに置いて」雪代は料理されたものが盛り付けられた皿を指差す。湯気が浮かび、鼻腔を喜ばす匂いだった。ぼくはさらに顔を近づけた。
「水泳どう? なかには泳げなくて溺れそうなひともいるんだろう?」
「そんなひとはいないよ。健康のためプールのなかを歩いているひとはいるけど」
「でも、溺れそうなひとには浮き輪がある」
「インストラクターが泳いで助けに行くでしょう、緊急のときは」
「緊急だよな」ぼくも緊急に助けを必要としていた時期があった。いや、溺れている状態と知りながらそこから抜けることを心底では望んでいなかった。ぼくも自分の命を終わらせたかったのだ。彼女のいない世界なんて。だが、その女性に似た少女が今日、強風のなかでしっかりと自分で立っていた。力強さもないが、ぼくはその普通の事実に感動していた。大雨でもなく、照りつける強い日差しの下でもない。太い枝すら折ってしまうような強風のなか美緒はいた。ぼくはそのなかに裕紀の一部を認め、できれば彼女しか知らないぼくの秘密や癖を言ってほしかった。だが、それはあまりにも欲張り過ぎていた。中学生の少女はぼくの何も知らない。あそこで溺れた日々があったことも知りもしないのだろう。塾の先生も教えない。これが妻を亡くして死ぬ寸前までいった人間ですとは。
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