償いの書(125)
あるひとの存在がなくなる。だが、物体としてはまだそこにあった。息をすることもなく病院のベッドで静かに寝ていた。いや実際には眠っていない。意識もなく横たわっていた。医師はここ数時間で何度かの手術を繰り返したが、その生命の根源的な糸はもどってくることはなかった。
ぼくは、その事実を簡単に受け止めることができない。ある女性の人生はたったの36年間で潰えた。ぼくは、後半の10年をともに過ごし、その前の学生だった若い頃、2、3年をいっしょに楽しんだ。そして、別の魅力的な女性がいたために、その関係を意図的に終わらせ、今度は、意図せずに終わってしまった。悲しさよりも無力感があり、やり切れなさがあった。彼女は、もうぼくを見つめることはなく、ぼくは彼女を笑わすこともできない。表情の変化や感情の揺れを楽しむこともできない。
叔母は、彼女のベッドの足元にひれ伏し、号泣していた。ハンカチが何枚あってもその涙は枯れることはなかった。ぼくは、ある面でそのように泣ける彼女をうらやましいと思った。ぼくのこころは凍りつき、冷え切ってしまっていた。もう、何事もぼくを暖めることはないだろうという恐れがあった。しかし、それは恐れでもなかった。ぼくは裕紀がいない世界を許すこともできず、そこから心地よさや快楽を取り入れることなどないだろうと決意した。それは裏切りであり、身勝手だと判断した。
「叔母さん、ごめんね。ぼくは、裕紀をこんな目に合わせてしまった」
「ひろしさんの所為じゃないのよ。ゆうちゃんは、このぐらいしか生きられないようになっていたのよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいけど、やっぱり責任がある」
不意にその部屋のドアが開き、思いがけない人間が入って来た。その人物は何度か見かけた裕紀の兄だった。
「近藤さん、お久しぶりです。こういう風には会いたくなかった。もしかしたらだけど、いずれ和解する可能性もあった」
「すいません。こんな状態になってしまって」
「正直な話、君と接するとうちの家族は、みな命を縮め、不幸になる。裕紀もその順番に追加された」
その言葉は、ぼくのこころを打ちのめしてしまうほど、れっきとした事実でもあった。ある意味、裕紀の死はこの言葉で決定的なものになり、確定されたのだ。
「そんな言い方はないわよ」
「叔母さんも、ほんとうはそう思っている。言わないだけで」
「ゆうちゃんは彼と暮らせて、とても、幸せだった。わたしは、この目で見たけど、あなたたちは知ろうともしなかった」
「知る必要もない」もしかしたら、この兄は自分のもろいこころを隠すためにわざと冷淡にしているのだろうかという冷静な判断を、ぼくはしている。しかし、ぼくの傷が徐々にひろがっていくのも実感できた。血のような形状の傷がぼくから生まれる。それは足元にしたたり落ち、この部屋の狭さを越え、廊下にも出てしまうようだった。
「すいません。紛れもない事実です」
「裕紀のことは、ぼくらが引き受ける。葬式もぼくがして、ぼくらの墓に埋める。君に口出しをさせない。それでいいだろう?」
「それは、ないんじゃない。ひろしさんは夫なのよ」
「叔母さん、いいんです。そうして下さい。ぼくは、なんらかのことで裕紀の命を縮めさせたのかもしれない。お任せします」
ぼくは、そこで卑怯な人間になった。ぼくは、裕紀と無関係であるような形を取り、これ以上、関わることを辞めた。それは、18歳のときに裕紀を捨てたときと寸分変わらない自分の卑劣さの積み重ねがあった。だが、許されるとすれば、裕紀を弔ったり、葬ったりする行為は、それほど裕紀を愛していない人間がするべきなのだ。誰よりも愛していた自分には逆にその資格もなく、またそれに耐えられなかっただろう。
ぼくは、あきらめた気持ちで頭を幾分下げ、その部屋をあとにする。ラグビーの決勝でぼくらのチームが負けたことをぼくは自分に起こった不幸として最前列に置いていた。だが、このときのぼくは、それ以上のものがあることを痛烈に知った。
ぼくは、そのあとどの道をどう通って帰ったのだろう。裕紀の兄の声がぼくに響き、叔母の悲痛な鳴き声が耳の奥でこだました。すれ違う男女の表情を見ることもできず、裕紀との10年の思い出が細切れに思い出された。それは連続した映像になり、いつの間にかストップする。観終わってしまった映画のように、新しいストーリーはもう生み出されないのだ。もう一度、同じ映画をなぞるしかぼくらの関連性をつなぐ方法はない。
気付くと、ぼくは自宅のソファに座っていた。電気もつけずにいたが暗くなっていたことも忘れていた。裕紀のいない未来の時間などぼくには毛頭なく、過去の時間のしがらみの中だけに生きようとしていた。ソファの横のライトをつけると、いつか貰った壁の絵が照らされた。それは裕紀の少女時代に不思議と似ていた。ぼくは、生きた裕紀をふたたび見ることができなかった。その絵を見ながら、ぼくはあらためてその悲しさの深い入口に立っていることを怖がり、同時に打ちのめされていた。
あるひとの存在がなくなる。だが、物体としてはまだそこにあった。息をすることもなく病院のベッドで静かに寝ていた。いや実際には眠っていない。意識もなく横たわっていた。医師はここ数時間で何度かの手術を繰り返したが、その生命の根源的な糸はもどってくることはなかった。
ぼくは、その事実を簡単に受け止めることができない。ある女性の人生はたったの36年間で潰えた。ぼくは、後半の10年をともに過ごし、その前の学生だった若い頃、2、3年をいっしょに楽しんだ。そして、別の魅力的な女性がいたために、その関係を意図的に終わらせ、今度は、意図せずに終わってしまった。悲しさよりも無力感があり、やり切れなさがあった。彼女は、もうぼくを見つめることはなく、ぼくは彼女を笑わすこともできない。表情の変化や感情の揺れを楽しむこともできない。
叔母は、彼女のベッドの足元にひれ伏し、号泣していた。ハンカチが何枚あってもその涙は枯れることはなかった。ぼくは、ある面でそのように泣ける彼女をうらやましいと思った。ぼくのこころは凍りつき、冷え切ってしまっていた。もう、何事もぼくを暖めることはないだろうという恐れがあった。しかし、それは恐れでもなかった。ぼくは裕紀がいない世界を許すこともできず、そこから心地よさや快楽を取り入れることなどないだろうと決意した。それは裏切りであり、身勝手だと判断した。
「叔母さん、ごめんね。ぼくは、裕紀をこんな目に合わせてしまった」
「ひろしさんの所為じゃないのよ。ゆうちゃんは、このぐらいしか生きられないようになっていたのよ」
「そう言ってもらえるのは、ありがたいけど、やっぱり責任がある」
不意にその部屋のドアが開き、思いがけない人間が入って来た。その人物は何度か見かけた裕紀の兄だった。
「近藤さん、お久しぶりです。こういう風には会いたくなかった。もしかしたらだけど、いずれ和解する可能性もあった」
「すいません。こんな状態になってしまって」
「正直な話、君と接するとうちの家族は、みな命を縮め、不幸になる。裕紀もその順番に追加された」
その言葉は、ぼくのこころを打ちのめしてしまうほど、れっきとした事実でもあった。ある意味、裕紀の死はこの言葉で決定的なものになり、確定されたのだ。
「そんな言い方はないわよ」
「叔母さんも、ほんとうはそう思っている。言わないだけで」
「ゆうちゃんは彼と暮らせて、とても、幸せだった。わたしは、この目で見たけど、あなたたちは知ろうともしなかった」
「知る必要もない」もしかしたら、この兄は自分のもろいこころを隠すためにわざと冷淡にしているのだろうかという冷静な判断を、ぼくはしている。しかし、ぼくの傷が徐々にひろがっていくのも実感できた。血のような形状の傷がぼくから生まれる。それは足元にしたたり落ち、この部屋の狭さを越え、廊下にも出てしまうようだった。
「すいません。紛れもない事実です」
「裕紀のことは、ぼくらが引き受ける。葬式もぼくがして、ぼくらの墓に埋める。君に口出しをさせない。それでいいだろう?」
「それは、ないんじゃない。ひろしさんは夫なのよ」
「叔母さん、いいんです。そうして下さい。ぼくは、なんらかのことで裕紀の命を縮めさせたのかもしれない。お任せします」
ぼくは、そこで卑怯な人間になった。ぼくは、裕紀と無関係であるような形を取り、これ以上、関わることを辞めた。それは、18歳のときに裕紀を捨てたときと寸分変わらない自分の卑劣さの積み重ねがあった。だが、許されるとすれば、裕紀を弔ったり、葬ったりする行為は、それほど裕紀を愛していない人間がするべきなのだ。誰よりも愛していた自分には逆にその資格もなく、またそれに耐えられなかっただろう。
ぼくは、あきらめた気持ちで頭を幾分下げ、その部屋をあとにする。ラグビーの決勝でぼくらのチームが負けたことをぼくは自分に起こった不幸として最前列に置いていた。だが、このときのぼくは、それ以上のものがあることを痛烈に知った。
ぼくは、そのあとどの道をどう通って帰ったのだろう。裕紀の兄の声がぼくに響き、叔母の悲痛な鳴き声が耳の奥でこだました。すれ違う男女の表情を見ることもできず、裕紀との10年の思い出が細切れに思い出された。それは連続した映像になり、いつの間にかストップする。観終わってしまった映画のように、新しいストーリーはもう生み出されないのだ。もう一度、同じ映画をなぞるしかぼくらの関連性をつなぐ方法はない。
気付くと、ぼくは自宅のソファに座っていた。電気もつけずにいたが暗くなっていたことも忘れていた。裕紀のいない未来の時間などぼくには毛頭なく、過去の時間のしがらみの中だけに生きようとしていた。ソファの横のライトをつけると、いつか貰った壁の絵が照らされた。それは裕紀の少女時代に不思議と似ていた。ぼくは、生きた裕紀をふたたび見ることができなかった。その絵を見ながら、ぼくはあらためてその悲しさの深い入口に立っていることを怖がり、同時に打ちのめされていた。
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