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償いの書(124)

2011年11月13日 | 償いの書
償いの書(124)

 その日は、普通にはじまる。昨日と変わらない、多分、明日もこのような平凡な朝があるのだろうという予感のような日。記憶にも残らないような日常の営みをつづける朝。

 ひげを剃り、首もとにはネクタイをしめ、この柄や色だけは、昨日と違う。愛用の角に傷みがあるカバンを持ち、裕紀に見送られる。「今日の夕ご飯、なにが食べたい?」と訊かれ、なにか答えたような気がするも、もう覚えていない。彼女は、ときには、質問や注文に答えないぼくにちょっと不服そうな顔をしたが、キッチンの横にレシピの本が数冊あり、またそれを開くのだろうというぼくにとっての安心感もあった。

 午前中の初めは電話をして過ごし、10時過ぎには外出した。名刺を渡し、名刺をもらう。裏にその際の情報をメモした。ぼくは、自分の人生でいったい、何人と会い、話を交わし、何人を覚えているのだろう、という数値の不確かさを考え、そこを後にする。そして、自分にとって、掛け替えのない人間は何人ぐらいなのだとも考えた。

 昼ごはんは、以前、仕事で関係のあったひとと待ち合わせて、外で食べた。彼は、裕紀のことも知っていた。それで、
「奥さん、大病したんだろう? 大変だったな」と心配そうな表情で言ってくれた。
「もう過去のことだし、忘れる段階に入ってきているよ」と気楽にぼくは答えた。そうなのだ、あれは過去の出来事として封印されるべきものなのだ。

「なら、いいよ。今度、時間ができたら一緒に会おう。うちのチビも大きくなった。裕紀ちゃんにとてもなついていた」
「あいつになつかない子どもって、いないみたいです」その彼女には子どもができなかった。その事実をぼくは可哀想なことであると認識し、不憫にも思っている。

 彼と別れ、職場にもどった。コーヒーを飲み、怠惰な時間を過ごす。次回の会議の資料をとなりの女性に頼み、その出来栄えを点検する。それは、直ぐに合格点だと分かったが、ぼくは数回見直した。

 それから、1週間でたまった資料を整理して先程もらった名刺を、名刺をストックするためのバインダーに収めた。見当たるその中の何人かの顔はもう思い出せず、何人かはまた連絡をする必要があることを知る。その何枚かを取り出し、今週中に連絡をすることを決めた。

 もう夕方になりかけていたのだろうか、ぼくは、ちらっと裕紀のことを思い出し、今日の夕飯に何を告げたかふたたび考えたが、何かの用で直ぐに忘れてしまった。しかし、ある電話でぼくは、また裕紀のことを思い出すことになった。
 携帯電話が鳴る。それは、裕紀の叔母からだった。
「どうか、されました?」
「きょう、いまさっき、家に遊びに行ったら、裕紀ちゃんが倒れて、救急車で病院に向かった」
「叔母さんは?」
「いま、一緒にいる。ひろしさんも来れる?」
「直ぐに、行きます。裕紀は、大丈夫ですか?」
「洗面所で血を吐いた」

 それは、大丈夫かという質問の答えではなかった。しかし、その言葉から想像できる映像は、重大なものであった。ぼくは、自分の机の前に戻り、となりの女性に「妻が倒れたので、病院に行く」と告げ、同じ内容のメモを書き、不在の上司の机の上に置いた。

 ぼくは、タクシーをつかまえ、数ヶ月前と同じようにその病院に向かった。その建物の色や、夕日が反射する窓や、廊下の薄暗さや、その匂いを思い出していた。また、裕紀があそこにいる。ぼくに絶望などなかったのだが、このときだけは、絶望という言葉の深い真実の意味を知った。

 あっという間にそこに着き、ぼくは料金を払い、入り口に向かった。直ぐに叔母の顔を見つけ、ぼくは裕紀の容態をたずねる。
「緊急で治療をしている。ゆうちゃん、大丈夫かしら?」

 と、ぼくが持ってもいない情報を彼女は訊いた。ぼくは、ただ自分に言い聞かせるために「大丈夫でしょう」と小さな声で呟いた。本当に大丈夫なのだろうか? 普通の人間は救急車などで運ばれない。まだ、彼女は30代の半ばなのだ。ぼくと永続する未来があるはずなのだ。ぼくは不安で、またこのような仕打ちをする世界に怒りをもった。それだが、誰にあたるわけにもいかず、また逆に叔母の気持ちをなだめる必要もあった。ぼくは缶ジュースを2つ買い、ひとつを叔母に渡した。ぼくは、その自動販売機を蹴飛ばしたくて仕方がなかった。あたるに相応しい形状をそれはもっていた。だが、ぼくは、それも出来ず、叔母の横にすわった。彼女は、その缶が命の象徴でもあるように、ぎゅっと力強く握った。ぼくは、また外に出て、大きな声でなにかを叫んだ。もしかしたら、音としてそれは生まれなかったのかもしれないが、ぼくの耳には大音量で聞こえていた。

 何時間も経ったのだろう。そとは夕暮れをとっくに過ぎ、夜の暗さに覆われていた。治療を終えた通院患者もいなくなり、入院のお見舞いにきていたひとびとも消えた。病院は夜の病院らしい雰囲気を見せ始めた。どこか、陰気で湿っぽかった。

 それから、ぼくらは医師の説明を受け、今日は一先ず安静の状態になったので、帰ってもらって結構ですと告げられた。また、明日以降、きちんと病状を説明するとも言われた。叔母は泣き、ぼくはズボンの布をきつく掴んでいた自分に気付いた。そこはしわになり、裕紀と歩きながらクリーニング屋に洋服を引き取りにいった何でもない時間を、ぼくは見ながら思い出していた。また、あのような普通の日々が戻るのだろうか?

 叔母をタクシーに乗せて見送った。ぼくは何か食べなければと思い、病院のそばの定食屋にはいったが、頼んだものはほとんどのどを通らなかった。

 家に着くと、流し台や洗面所に裕紀が吐いたらしい血が消えないまま付着していた。彼女にどんな痛みがあり、またどんな戦いがあったのか、それは証明していた。ぼくは、スポンジでそこを洗い、疲れてソファに座り込む。普通の一日としてはじまった今日は、普通ではなくなってしまった。それが悲しく、ぼくは涙を流した。

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