最後の火花 91
英雄が風邪を引いた。ひとりで生きているときは自分の身体だけを労わっていればよかった。資本でもあり、唯一の財産でもあった自分の身体。オレはたらいに氷を入れ、ぬるくなった手拭いをしぼって、また額に載せた。
「ありがとう」と小さな声で英雄は感謝を述べる。そんなお礼などいう状態でもないのに。
しばらくすれば元気になるのは分かっているが、それが心配感を軽減させるわけでもない。いま、損なってしまえば永遠に後悔することも考えられるのだ。だからといって身代わりになれるわけもなく、たっぷりと愛情を注ぐことしかできない。そのあらわれが冷たいタオルとなっている。
「どう、落ち着いた?」あいつは医者のところから帰ってきた。
「先生は?」
「同じような病気が流行っているらしいので、もう一軒よってから、こっちにも廻ってくれるって」
「そうか」
あいつは英雄の額に手の甲を当てた。「まだ、熱いね」それから、体温が下がるおまじないのように自分の額を当てた。「やっぱり、同じか」
「先生がくるまで少し休めば」彼女は、昨夜、ほとんど寝ていないはずだった。
「でもね」
間もなく医者がきた。医者というより地域の世話役のような風貌だった。科学に命を捧げたというより町の調停をはかるひとのように。
「どれどれ」台所で手を洗ってから英雄の横で正座をして、聴診器を取り出した。
「どうですか?」
「あと二、三日はこのままですが、それが過ぎればピタッと熱は引きますよ」
「じゃあ、それまで待つだけ?」
「そういうことですな。汗をかいたら身体を拭いて、着替えをして、水分を与えて」
「ご飯は?」
「これじゃ、お腹は空かないでしょう。本人が食べたくなるまで控えても」
彼の仕事は治療というより声を通して保護者に安心感を与えることが使命のようだ。彼はふたたび手を洗い、お茶をすすって世間話をした。オレの過去をどことなく知っているようだ。そのことによって偏見をもっているようでもなく、ただもう悪いことには戻るな、と静かに懇願している目を向けていた。
「守るものがあるっていうのは大切なことだよ。医者の仕事は、そのお手伝いに過ぎない」
「いいえ、ありがとうございます。料金は?」
「明日、うちに薬を用意しておくから、そのときにいっしょに。朝一でもかまわないよ」
「分かりました」オレとあいつは同時に返事をした。
オレは仕事前に小さな医院に寄った。消毒くさい独特のにおいがする。玄関脇の花壇には花が咲き、狭いながらもよく手入れがなされていることが彩りで理解できた。オレはベルを鳴らして、老齢の看護婦から薬を受け取った。専属の看護婦なのか、医者の妻がその制服を着ているだけなのかは不明だ。
オレは家に戻り薬を置いてから工場に向かった。あいつは仕事を休む。一日休んだからといってその会社が転覆するわけでもない。翌々日に遅れは完全に挽回できる。
大人は頑張ったり、手を抜いたりとうまいこと調整ができた。子どもは突然、倒れる。前例というものがない状態で生きているのだ。ある時期まで保護と諭しが必要だ。しかし、その期間もあと十年ぐらいかもしれない。十代の半ばになれば反抗期を迎えるだろう。正しいことにも、正しいという理由だけで背を向け、間違えた結果すらも跳ね返す力があり、すべてに歯向い自力で育ったような気持ちになって、それでも未来を独自に切り開いていく。いまの経験でオレは語っている。当時のオレはなにも知らなかった。未経験と率直さの合間で大人になるのだ。しかし、一旦大人になったら、変更は利かない。本の途中まで読み進んでしまったのだ。そこから、後半部分を自分の望んだように書き直す。書き直すといっても、前のページと内容を踏襲しなければ筋が通らない。オレは孤独な幼少時をあたたかな大人となってと書き換えようとしていた。その為に働いて看病をした。
昼休みになっても容態は分からない。家にも電話が引かれていれば直ぐに最新の情報が加わるが、夕方まで待たなければいけない。不便なものだ。オレは恨めしく職場の黒い電話をにらんだ。にらんだからといって、それがあいつの声を耳にまで運んでくれることもなかった。
オレは家に着く。昨日と大して様子は変わらなかったが、昼におかゆを食べたということだった。健康というのはつまりは食欲の有無で計られるべきものだろうか。その通りだろう。オレは疲れていて空腹だったが、いつもより飯は不味かった。ふたりだけで味気ない飯を片付け、オレは風呂に入った。
窓の外で秋の虫の声が響く。姿が分からない。どこで彼らは演奏方法を学習するのだろう。オレは学校では音楽がもっとも苦手だった。ある賢そうな少女は金属製の横笛を流暢に吹いていた。オレは手品以上に驚いている。いくつかの穴をふさいで息を吹き込んでいるだけなのだ。自分の身体がそのような運動に向いているとも思えない。オレの身体は棒で力いっぱいにボールを叩き付け、ときには同級生の顔や手足にあざを作ることぐらいしかできなかった。不器用で、無様で、愛情にも成長にも縁遠く、すべての事柄に対して無頓着だった。
英雄が風邪を引いた。ひとりで生きているときは自分の身体だけを労わっていればよかった。資本でもあり、唯一の財産でもあった自分の身体。オレはたらいに氷を入れ、ぬるくなった手拭いをしぼって、また額に載せた。
「ありがとう」と小さな声で英雄は感謝を述べる。そんなお礼などいう状態でもないのに。
しばらくすれば元気になるのは分かっているが、それが心配感を軽減させるわけでもない。いま、損なってしまえば永遠に後悔することも考えられるのだ。だからといって身代わりになれるわけもなく、たっぷりと愛情を注ぐことしかできない。そのあらわれが冷たいタオルとなっている。
「どう、落ち着いた?」あいつは医者のところから帰ってきた。
「先生は?」
「同じような病気が流行っているらしいので、もう一軒よってから、こっちにも廻ってくれるって」
「そうか」
あいつは英雄の額に手の甲を当てた。「まだ、熱いね」それから、体温が下がるおまじないのように自分の額を当てた。「やっぱり、同じか」
「先生がくるまで少し休めば」彼女は、昨夜、ほとんど寝ていないはずだった。
「でもね」
間もなく医者がきた。医者というより地域の世話役のような風貌だった。科学に命を捧げたというより町の調停をはかるひとのように。
「どれどれ」台所で手を洗ってから英雄の横で正座をして、聴診器を取り出した。
「どうですか?」
「あと二、三日はこのままですが、それが過ぎればピタッと熱は引きますよ」
「じゃあ、それまで待つだけ?」
「そういうことですな。汗をかいたら身体を拭いて、着替えをして、水分を与えて」
「ご飯は?」
「これじゃ、お腹は空かないでしょう。本人が食べたくなるまで控えても」
彼の仕事は治療というより声を通して保護者に安心感を与えることが使命のようだ。彼はふたたび手を洗い、お茶をすすって世間話をした。オレの過去をどことなく知っているようだ。そのことによって偏見をもっているようでもなく、ただもう悪いことには戻るな、と静かに懇願している目を向けていた。
「守るものがあるっていうのは大切なことだよ。医者の仕事は、そのお手伝いに過ぎない」
「いいえ、ありがとうございます。料金は?」
「明日、うちに薬を用意しておくから、そのときにいっしょに。朝一でもかまわないよ」
「分かりました」オレとあいつは同時に返事をした。
オレは仕事前に小さな医院に寄った。消毒くさい独特のにおいがする。玄関脇の花壇には花が咲き、狭いながらもよく手入れがなされていることが彩りで理解できた。オレはベルを鳴らして、老齢の看護婦から薬を受け取った。専属の看護婦なのか、医者の妻がその制服を着ているだけなのかは不明だ。
オレは家に戻り薬を置いてから工場に向かった。あいつは仕事を休む。一日休んだからといってその会社が転覆するわけでもない。翌々日に遅れは完全に挽回できる。
大人は頑張ったり、手を抜いたりとうまいこと調整ができた。子どもは突然、倒れる。前例というものがない状態で生きているのだ。ある時期まで保護と諭しが必要だ。しかし、その期間もあと十年ぐらいかもしれない。十代の半ばになれば反抗期を迎えるだろう。正しいことにも、正しいという理由だけで背を向け、間違えた結果すらも跳ね返す力があり、すべてに歯向い自力で育ったような気持ちになって、それでも未来を独自に切り開いていく。いまの経験でオレは語っている。当時のオレはなにも知らなかった。未経験と率直さの合間で大人になるのだ。しかし、一旦大人になったら、変更は利かない。本の途中まで読み進んでしまったのだ。そこから、後半部分を自分の望んだように書き直す。書き直すといっても、前のページと内容を踏襲しなければ筋が通らない。オレは孤独な幼少時をあたたかな大人となってと書き換えようとしていた。その為に働いて看病をした。
昼休みになっても容態は分からない。家にも電話が引かれていれば直ぐに最新の情報が加わるが、夕方まで待たなければいけない。不便なものだ。オレは恨めしく職場の黒い電話をにらんだ。にらんだからといって、それがあいつの声を耳にまで運んでくれることもなかった。
オレは家に着く。昨日と大して様子は変わらなかったが、昼におかゆを食べたということだった。健康というのはつまりは食欲の有無で計られるべきものだろうか。その通りだろう。オレは疲れていて空腹だったが、いつもより飯は不味かった。ふたりだけで味気ない飯を片付け、オレは風呂に入った。
窓の外で秋の虫の声が響く。姿が分からない。どこで彼らは演奏方法を学習するのだろう。オレは学校では音楽がもっとも苦手だった。ある賢そうな少女は金属製の横笛を流暢に吹いていた。オレは手品以上に驚いている。いくつかの穴をふさいで息を吹き込んでいるだけなのだ。自分の身体がそのような運動に向いているとも思えない。オレの身体は棒で力いっぱいにボールを叩き付け、ときには同級生の顔や手足にあざを作ることぐらいしかできなかった。不器用で、無様で、愛情にも成長にも縁遠く、すべての事柄に対して無頓着だった。
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