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償いの書(129)

2011年11月26日 | 償いの書
償いの書(129)

 何人かから電話をもらい、別の何人かから哀悼の手紙をもらい、そして、何人もから慰められた。言葉のもつ威力を感じ、また、同じように言葉のむなしさを知った。結局は、裕紀は戻ってこないという事実は覆されることがなく、ただ、自分のこころのなかで色褪せさせるしかないのだ。忘れてしまおう、とか、次の段階があるのだと思うように。

 身の入らない仕事をつづけ、良き模範にもならなかった。そろそろ甘えも効かない時期になり、ぼくの陰口がささやかれる。ひとは、不幸に対しても、やはり冷たいものなのだ。それで、外回りを繰り返し、無為に時間を潰した。裕紀のいない世界では無為に時間を過ごすしか、方法はなかった。

 ある日、昨日や明日と同じように会社を出た。夕方には早く、昼ごはんがお腹に残っている時間でもなかった。ぼくが知っている犬がいて、ぼくの方に近付いてきた。その犬が愛らしい鳴き声を出し、ぼくは見返りとして撫でる。誰かが自分の意思に応えてくれる。それが、単純に素晴らしいものだと思っていた。

「大変だった?」犬の飼い主の女性がぼくにささやく。
「何がです?」
「奥さんのこと」
「誰かから聞きました」ぼくは、ふと、思い出す。彼女は、未来のいくつかの断片を読み取れるのだ。「あ、そうか。もしかしたら、最初から、こうなることを知ってました?」
「うん」彼女は優雅に、だが自然にこっくりと頷く。
「なんで、前もって教えてくれなかったんです?」ぼくは、犬を撫でながらも、視線を変え、詰問調に彼女に問うた。
「言ったからって、どうなったの?」
「もっと違うやり方がもてたかもしれない。もっと、優しくしたし、もっと時間を割いた。もっと、喜ばすことをたくさんした」
「普通に働いていて、そんなことは無理よ。それに、あなたは、充分にした。自分でも、こころの奥では認めている」
「だけど、10年は短い。あまりにも短いよ」
「あの子にとっては、長いかもしれない」

「ぼくは、ひどいことを彼女にいっぱいした」
「してない。彼女はよい思い出をたくさん貯金した」
「なんで、分かる?」
「分かるから。そのぐらい怒って、怒りを誰かにぶつけなさい」
「すいません、失礼な言い方をした」
「いいのよ。わたしもいろいろなひとの未来を告げ、厭な思いをさせ、たくさんの怒りを買った。もうしないつもりだったけど、勝手に戻ってきた。あなたの場合は」
「じゃあ、ぼくのこれからは、何か見えます?」彼女は少し思案する。
「これは、未来か過去かも分からない。ただ、小学生ぐらいの女の子の手を引いている後ろ姿が見える。あなたはその対象に愛情を感じ、その子もあなたをしっかりと尊敬している。だけど、その子は、小さくなったり、大きくなったりしている。ときには、高校生のようにも見えるし、あなたの子どものようにも見える。ただ、それだけ」
「ぼくの子ども? それは、裕紀がいないから無理だよ」

「じゃあ、その情景を思い出せる?」
「妹かもしれない。一緒に学校から帰ったとき。高校生なら若い裕紀。いや、その子は、バイト先の店長の娘だ。思い出した。小学生になるとき、文房具をいっしょに買いに行った。ぼくに、とてもなついていた」
「過去か、未来かは、わたし、はっきりと分からないと言った」
「そうですね。でも、それがぼくを表す情景なのか」
「ただ、未来はあるのよ。忘れないで、疲れすぎないで、憑かれすぎないで。違い分かる?」
「まあ、なんとなく。じゃあ、仕事に行きます」ぼくは、名残惜しく犬の頭をなでた。もしかしたら、この行為が媒体となって彼女にぼくの気持ちを読み取られてしまうのだろうか、という疑問をもった。もちろん、そんなことはないのだろうが。

 ぼくは、駐車場から車を出す。念のため、その前に携帯を取り出して、履歴を見た。そこには、裕紀の番号もあった。彼女には、どうやっても、どんな道具を使ってもつながらないのだ。ぼくは番号を消そうかどうかを迷っている。そして、最終的にはそのままにした。

 駐車場から歩道へ、そして道路へと車をゆっくりと出した。考えることもなく、先程の交わされた会話を反すうしている。ぼくの子ども? それは、ありえないことだった。また、同じように誰かと出会い、裕紀以上に愛せる自信などなかった。また、それをしたくもなかった。

 すると、手を握った感触が蘇ってくるような気持ちにもなった。あれは、ぼくが大学生でスポーツ・ショップでバイトをしていた。ラグビーで一時代を築いたお兄さんのような役割。そこで後輩たちに新品のスパイクを売り、店長のひとり娘と遊んだ。彼女の小さな手。まゆみちゃん。その前に裕紀を失い、ぼくは別の女性と待ち合わせて、バイトの後で食事をした。路上シンガーが歌い、彼女はそれにつられて身体を揺すった。みな、年をとりさまざまなものを失う。「でも、未来はあるのだ」と、告げられた。その未来をぼくは愛せるのだろうかと悩んでいる。でも、ささやかなものから始めようと小さな力も湧いてきた。これから、会う相手に先ずは優しく接しようと誓う。もしかしたら、裕紀と同じように、もう会うことができなくなってしまうかもしれないのだ。ぼくの最後の印象は、良きものであってもらいたい。いま、裕紀は振り返って、ぼくをどう思っているのだろう? つまらない男。話をきかなかった男。自分勝手な男。ぼくは自分に低い評価をした。しかし、良い思い出をたくさん貯金した、とさっき言われた。できれば、そうであってほしいと願い、また、裕紀以外の人間にもそうであってほしいと思っていた。

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