リマインドと想起の不一致(42)
加点法と減点法。あゆみに対して意識的に加点法を採用する。彼女は、なかなかよくやっているじゃないか、という自分の立場を度外視した態度で。だが、結局は、ひじりではないという決定的なたった一点だけで減点される。彼女の責任ではない。ぼくが変わらなければならないのだ。ぼくは、過去を掘り起こし、もてあそぶことを止めるよう約束させられた。
それにしても約束を守るのも、破るのもぼくのこころの自由だった。責任も追及もない領域。失うというのを恐れない態度。ぼくは、かけがえのないものを一度、失ったのだから、あとはその余波としてすべてを無頓着に考えてしまっていた。
だが、その状態になってみなければ分からないのも事実だった。試すことはできない。その判断はあゆみがするだろう。ぼうは低空飛行のままなんとかやり過ごそうとしている。効果的な風があればうまい具合に気流に乗って上昇することも起こり得た。
自分ではエンジンを一向に吹かせようとしていない。グライダーのようなものであり、ヨットにも似ていた。ぼくは自分の思い通りにならなかったことであきらめを知り、あとは風にまかせるがまま流れた。そこにあゆみの自然な、かつ大らかな温かさがあった。演歌なら港と評するだろう。
そこは確かに温かかった。ぼくは充分に幸福だと設定をリセットさせることもできた。だが、解除のボタンは押さなかった。いつもではない。たまにしなかった。
あゆみといることによって、ひじりとの季節が塗り替えられた。下地に影響されて、どんな色を重ねても映えることはなかなかむずかしかった。ぼくは狂っているのかもしれない。誰しもが二番目のことや三番目に訪れることを受容する。それを普通は経験と呼ぶ。ぼくは経験を素直に受け入れずに頑なに拒んでいる。まるで歯医者の前で泣く子どもであり、注射におびえる幼児だった。その好意自体が流行りの病原菌を予防する役目があるにしろ。痛みを奪ってくれる最良の治療法だとしても。
ぼくは虫歯そのものすらなつかしんでいるのだろうか。早期に片付けなければならないことは重々、承知していた。取り除かなければ、ぼくを蝕んでいくだけなのだ。身体の奥まで浸潤したら取り返しがつかない。ぼくはあゆみに賭け、頼りにしてもいいのだ。そして、多くの時間をそうするようにもなってきた。
桜は散り、新緑の季節になり、あじさいのそばにはカタツムリがいる。その間にあゆみといた。海に行く。彼女の水着姿はチャーミングだとわざと旧式な表現を用いてみる。タオルで髪を拭いている。化粧もしていない肌はきれいに水を転がしていく。ぼくにだけ与えられた瞬間。栄誉にも似た歓喜。
太陽は頂上から傾いていき、日も段々と陰っていく。この日のぼくを知っているのはあゆみだけであり、同時に彼女の一日を網羅しているのはぼくだった。充分、幸福だといえた。否定するものもまったくない。秋にぼくはあゆみとなにをして、冬にはどこに行くのだろう。未来を想像する。大学生になるあゆみ。会社に勤めているあゆみ。ぼくはその同伴者だ。そこに不足はない。ぼくはビーチサンダルの片方を波にさらわれる。まだ、取り戻せる範囲に浮かんでいる。プカプカとただようものを取り戻せなくなるには浅瀬は急でもなく、波も徐々に静まってきたようだった。
加点法と減点法。あゆみに対して意識的に加点法を採用する。彼女は、なかなかよくやっているじゃないか、という自分の立場を度外視した態度で。だが、結局は、ひじりではないという決定的なたった一点だけで減点される。彼女の責任ではない。ぼくが変わらなければならないのだ。ぼくは、過去を掘り起こし、もてあそぶことを止めるよう約束させられた。
それにしても約束を守るのも、破るのもぼくのこころの自由だった。責任も追及もない領域。失うというのを恐れない態度。ぼくは、かけがえのないものを一度、失ったのだから、あとはその余波としてすべてを無頓着に考えてしまっていた。
だが、その状態になってみなければ分からないのも事実だった。試すことはできない。その判断はあゆみがするだろう。ぼうは低空飛行のままなんとかやり過ごそうとしている。効果的な風があればうまい具合に気流に乗って上昇することも起こり得た。
自分ではエンジンを一向に吹かせようとしていない。グライダーのようなものであり、ヨットにも似ていた。ぼくは自分の思い通りにならなかったことであきらめを知り、あとは風にまかせるがまま流れた。そこにあゆみの自然な、かつ大らかな温かさがあった。演歌なら港と評するだろう。
そこは確かに温かかった。ぼくは充分に幸福だと設定をリセットさせることもできた。だが、解除のボタンは押さなかった。いつもではない。たまにしなかった。
あゆみといることによって、ひじりとの季節が塗り替えられた。下地に影響されて、どんな色を重ねても映えることはなかなかむずかしかった。ぼくは狂っているのかもしれない。誰しもが二番目のことや三番目に訪れることを受容する。それを普通は経験と呼ぶ。ぼくは経験を素直に受け入れずに頑なに拒んでいる。まるで歯医者の前で泣く子どもであり、注射におびえる幼児だった。その好意自体が流行りの病原菌を予防する役目があるにしろ。痛みを奪ってくれる最良の治療法だとしても。
ぼくは虫歯そのものすらなつかしんでいるのだろうか。早期に片付けなければならないことは重々、承知していた。取り除かなければ、ぼくを蝕んでいくだけなのだ。身体の奥まで浸潤したら取り返しがつかない。ぼくはあゆみに賭け、頼りにしてもいいのだ。そして、多くの時間をそうするようにもなってきた。
桜は散り、新緑の季節になり、あじさいのそばにはカタツムリがいる。その間にあゆみといた。海に行く。彼女の水着姿はチャーミングだとわざと旧式な表現を用いてみる。タオルで髪を拭いている。化粧もしていない肌はきれいに水を転がしていく。ぼくにだけ与えられた瞬間。栄誉にも似た歓喜。
太陽は頂上から傾いていき、日も段々と陰っていく。この日のぼくを知っているのはあゆみだけであり、同時に彼女の一日を網羅しているのはぼくだった。充分、幸福だといえた。否定するものもまったくない。秋にぼくはあゆみとなにをして、冬にはどこに行くのだろう。未来を想像する。大学生になるあゆみ。会社に勤めているあゆみ。ぼくはその同伴者だ。そこに不足はない。ぼくはビーチサンダルの片方を波にさらわれる。まだ、取り戻せる範囲に浮かんでいる。プカプカとただようものを取り戻せなくなるには浅瀬は急でもなく、波も徐々に静まってきたようだった。
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