繁栄の外で(56)
ある日、自分のこころから信仰心がなくなっていることを発見する。それは誰よりも、自分にとって驚きだった。その様子をセミの抜け殻を振り返ってみるように、確認する。あれは、置いて来てしまった自分であった。ある別のイメージでは流れ去ったそうめんであり、また別の面では飛んでしまった風船であった。自分は、もう掴むことはできないのであろう。それで、悲しい思いもしたが、抜けてしまった乳歯を忘れてしまうように、新たな自分と折り合いをつけることにする。
だが、理由はいくらかあり、決定的なものとしては、イエス・キリストの呼びかけの言葉である「疲れた人、重荷を背負っている人、私のところに来なさい。そうすればわたしが安らかにしてあげる」ということを本気で信じられなくなったのである。自分は、それを信じたばっかりに余分な荷物を負い、段々と疲労が蓄積され、誰かに話しかけられることにひたすら脅え、淀んでいったのである。だが、その選択をしたのもまぎれもなく自分であり、それを失っていくのも自分であった。
そこからは、選ばれなかった人間を全うするように、ふたたび悪に足を踏み入れるのであった。しかし、それは直ぐにではなく順々にだ。背番号のない補欠のような人間になっていくのだ。
すべてが一面的にとらえることが出来ないように、その信仰がきっかけで仲間が出来たのも事実であった。ある共通の信じているもののために集合し、その中で親切な人をみつける。
自分の過去の幸せなイメージのひとつとして、こんな場面もある。土台には同じ気持ちがあり、そのひとはぼくのことをよく自宅へ招いてくれた。たくさんの食事があり、招待された方は数本のワインなどを持ち寄って楽しく歓談した。ぼくは、その家で楽しんでいる自分がなにより好きであり、また自然な自分でもあった。あの経験がなかったら、本来の自分というものを最終的に発見しないで死んでいたかもしれない。それぐらいに自然な姿でそこにいられた。
また、ある面でぼくのユーモアと真面目さとを兼ね備えた変な性格を単純に愛してくれるひとたちがいるということも理解する。それを知ると、自分は甘えん坊のようになり、その位置に安住した。居心地の良い座布団をみつけた猫のようにである。
そこには女の子がふたりいた。まだ、最初は幼稚園ぐらいの子たちだった。そこから小学生になり、運動会で活躍したようすをきき、ものごころがついてきて、物事の好悪を自分で判断するようになる。そこから、もう一段うえの学校に進級する。彼女らの成長を自分の娘のように暖かく見守っていた。
その成長の段階自体が、ぼくの信仰心と重なり合った。目に見えるかたちでもあった。だが、ぼくはその両面を失ったのである。
それらがあった時には、神楽坂近辺で働いていた頃と一致する。ぼくは、ジャズのライブに足繁く通うようになる。時間のゆとりもいくらかできた。そこで見た、日本人のジャズ・プレーヤーで才能のある人たちを見出す。ある人はドラマーであり、ある人はベーシストであった。ふたりを別々に聴いたが、ある日、いっしょに演奏をする姿を見たときが、ぼくのジャズ体験の頂点のひとつであった。
ぼくは、ベースラインを追うことがそもそも好きであった。もともとは「モータウン」のベーシストの華麗なる音階を追い、彼の決定的な躍動感に魅了された。それ以来、どの音楽を聴いてもベースが気になった。馬鹿馬鹿しい話だが、「日本昔ばなし」のテーマ曲でさえベース音を追った。
それから、翌年にはドイツでワールド・カップが行われた。それを職場の同僚たちと酒を飲みながら、見たのも良い思いでのひとつになっている。いま(2009年の夏)から3年前の話だ。
ある日本の名選手は、選手であることを辞めた。彼のイタリアでの活躍が、いつも昨日のことのように思い出され、それは大切な記憶のひとつになっている。彼は、疲れ切った姿で芝生のうえに寝そべっている。相手に倒されそうになっているのを堪えてきて彼がである。しかし、人生にはさまざまな敗北の形があり、いくつかの勝利のかたちがある。
ぼくも自分の過去を振り返る。サッカー選手のように誰かがそれを追いかけ、分析してくれ、空港で待ってくれることもないが、自分ではいくつかのことを理解し、スター選手と重ね合わせることもできる。その芝生のうえで寝そべっている永久のような時間が、ぼくにもあったのだ。だが、自分で立ち直り、起き上がることをしないことには明日は来ないのである。観衆はいないが、それを自分はひとりでした。
ある日、自分のこころから信仰心がなくなっていることを発見する。それは誰よりも、自分にとって驚きだった。その様子をセミの抜け殻を振り返ってみるように、確認する。あれは、置いて来てしまった自分であった。ある別のイメージでは流れ去ったそうめんであり、また別の面では飛んでしまった風船であった。自分は、もう掴むことはできないのであろう。それで、悲しい思いもしたが、抜けてしまった乳歯を忘れてしまうように、新たな自分と折り合いをつけることにする。
だが、理由はいくらかあり、決定的なものとしては、イエス・キリストの呼びかけの言葉である「疲れた人、重荷を背負っている人、私のところに来なさい。そうすればわたしが安らかにしてあげる」ということを本気で信じられなくなったのである。自分は、それを信じたばっかりに余分な荷物を負い、段々と疲労が蓄積され、誰かに話しかけられることにひたすら脅え、淀んでいったのである。だが、その選択をしたのもまぎれもなく自分であり、それを失っていくのも自分であった。
そこからは、選ばれなかった人間を全うするように、ふたたび悪に足を踏み入れるのであった。しかし、それは直ぐにではなく順々にだ。背番号のない補欠のような人間になっていくのだ。
すべてが一面的にとらえることが出来ないように、その信仰がきっかけで仲間が出来たのも事実であった。ある共通の信じているもののために集合し、その中で親切な人をみつける。
自分の過去の幸せなイメージのひとつとして、こんな場面もある。土台には同じ気持ちがあり、そのひとはぼくのことをよく自宅へ招いてくれた。たくさんの食事があり、招待された方は数本のワインなどを持ち寄って楽しく歓談した。ぼくは、その家で楽しんでいる自分がなにより好きであり、また自然な自分でもあった。あの経験がなかったら、本来の自分というものを最終的に発見しないで死んでいたかもしれない。それぐらいに自然な姿でそこにいられた。
また、ある面でぼくのユーモアと真面目さとを兼ね備えた変な性格を単純に愛してくれるひとたちがいるということも理解する。それを知ると、自分は甘えん坊のようになり、その位置に安住した。居心地の良い座布団をみつけた猫のようにである。
そこには女の子がふたりいた。まだ、最初は幼稚園ぐらいの子たちだった。そこから小学生になり、運動会で活躍したようすをきき、ものごころがついてきて、物事の好悪を自分で判断するようになる。そこから、もう一段うえの学校に進級する。彼女らの成長を自分の娘のように暖かく見守っていた。
その成長の段階自体が、ぼくの信仰心と重なり合った。目に見えるかたちでもあった。だが、ぼくはその両面を失ったのである。
それらがあった時には、神楽坂近辺で働いていた頃と一致する。ぼくは、ジャズのライブに足繁く通うようになる。時間のゆとりもいくらかできた。そこで見た、日本人のジャズ・プレーヤーで才能のある人たちを見出す。ある人はドラマーであり、ある人はベーシストであった。ふたりを別々に聴いたが、ある日、いっしょに演奏をする姿を見たときが、ぼくのジャズ体験の頂点のひとつであった。
ぼくは、ベースラインを追うことがそもそも好きであった。もともとは「モータウン」のベーシストの華麗なる音階を追い、彼の決定的な躍動感に魅了された。それ以来、どの音楽を聴いてもベースが気になった。馬鹿馬鹿しい話だが、「日本昔ばなし」のテーマ曲でさえベース音を追った。
それから、翌年にはドイツでワールド・カップが行われた。それを職場の同僚たちと酒を飲みながら、見たのも良い思いでのひとつになっている。いま(2009年の夏)から3年前の話だ。
ある日本の名選手は、選手であることを辞めた。彼のイタリアでの活躍が、いつも昨日のことのように思い出され、それは大切な記憶のひとつになっている。彼は、疲れ切った姿で芝生のうえに寝そべっている。相手に倒されそうになっているのを堪えてきて彼がである。しかし、人生にはさまざまな敗北の形があり、いくつかの勝利のかたちがある。
ぼくも自分の過去を振り返る。サッカー選手のように誰かがそれを追いかけ、分析してくれ、空港で待ってくれることもないが、自分ではいくつかのことを理解し、スター選手と重ね合わせることもできる。その芝生のうえで寝そべっている永久のような時間が、ぼくにもあったのだ。だが、自分で立ち直り、起き上がることをしないことには明日は来ないのである。観衆はいないが、それを自分はひとりでした。
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