Untrue Love(3)
ぼくがデートをする相手のひとりは、デパートで靴を売っていた。細い足をもち、繊細な指をもっていた。汚れたスニーカーを履く自分とは不釣り合いかもしれないが、ぼくが荷物を運ぶうちに話すようになった。きれいな言葉づかいをして、いつも優しくねぎらってくれた。メジャーを指に絡ませ、その指先のきゃしゃな感じが痛々しいぐらい美しかった。24才。
「いつも、ありがとう。さっき、貰ったの。よかったら、これ、飲んで」彼女は缶コーヒーを手渡してくれる。「大学生?」
「そうです」
「また、よろしくね。お疲れさま」
彼女は背中を向け、季節が変わるため、商品の靴の陳列を並び替えている。閉店したあとの店内は静かで、小さな彼女の声も不思議なエコーが加わり、よく響いた。ぼくは、それをもらい、手に握られた缶から季節感のない自分の足元に目を移し、スニーカーを見下ろしている。見なくても気づいていたが、それは少し汚れ、いくらかくたびれている。彼女が丁寧に並べている優雅な靴たちとは大違いだ。そして、店内で雑用をするだけの物体であったかもしれない自分(まるで、汚れたスニーカーのよう)に、こころを宿した人間として扱ってくれる彼女の優しさに思いを寄せる。ただの偶然の邂逅と、彼女の優しさ。ぼくは、外に出て、さっきの缶コーヒーを飲み干した。
秋に履く靴を並べていたが外は、まだまぎれもなく夏だった。それでも、夏の峠は越え、いくぶん涼しくなりはじめている。しかしながら、虫の声などない都会の雑踏の中だった。
「ピザでも食べる?」それから、数日経った暑さがもどった夜だった。靴を並べていた女性に不意に誘われる。
「ピザ?」
「そう、わたしも同じぐらいの弟がいて、いつもお腹を空かしている。山本くんも、そうでしょう?」
「ぼくの名前を知っているんですか・・・」
「話しかけるときに、名前がなかったら、どうするの?」
「そういう意味でもなかったんですけど」
「食べる?」
「食べます」ぼくは、彼女が木下という苗字を持っていることは知っていた。誰かが、そう呼んでいたからだ。それに振り返ってこたえる彼女は、木下さんに間違いがなかった。「木下さんは、ピザの美味しい店を知っているんですよね」
「この前、教えてもらって、食べた。また、行きたいなと思っていたんだ。たまにピザが食べたい気持ちにならない?」
「ぼく、店で食べたことがあるかな。友人たちと配達されたものを食べたことはあるけど」
「それは、残念ね。いつか、女性と行けるかもしれない」
「今日、行きますけど」
ぼくらは、デパートが終わった時間の照明が少なくなり始めている町をいっしょに歩く。彼女が履いている靴のかかとの音が、ここちよく鳴り響いている。ぼくは、急に財布の中身が心配になった。ここで、財布を開くわけにもいかない。頭のなかで、あれこれと数字を転ばす。あれに使って、これに使った。まあ、大丈夫か、どうにかなるか。
しかし、その不安も消えないうちに店の前に着いてしまった。ぼくは扉を押し、賑やかなお客さんの声をきく。店に入った木下さんは指を示し、座席を決めた。
「仕事、なれた?」
「なれるも何も、右のものを左に持って行き、左のものを右に持って行くだけですから。それで、サインもらって」
「それでも、どこに何があるか、分からないこともあったでしょう?」
「そう言われると、そうですね」
彼女は注文を取りに来た店員に微笑みかけ、数品を頼む。それが届く前に、すでに隣の座席のテーブル上に置いてあるピザが香ばしいにおいを発していて、ぼくらの鼻にまで到達した。
「おいしそうなにおいでしょう?」
「途端にお腹が空きました」
「いつも、夜ご飯どうしているの?」
「作ったり、買ったり」
「ひとり暮らしなの? 両親は遠いの?」
「横浜の先」
「じゃあ、通えるんだ」
「通えますね」
「脛かじり」
「そう、脛かじり」
ピザが運ばれ、彼女は一切れつかむ。ぼくも隣の一切れをつかむ。木下さんは別の皿の違った種類のピザをつかむ。そして、ぼくもその横の一切れをつかむ。ピザって、こんなにおいしいものなのか。
「おいしいでしょう?」
「はい。爪きれいですね」
「あ、うれしい。なにか、おかわりする?」ぼくのジュースのグラスは空になっていた。彼女は目敏く見つけ、また注文してくれた。
「靴って、一日何足ぐらい売れるものなんですか?」ぼくは、間が抜けていると思いながらも、そのような質問を口に出した。しかし、きれいな女性に質問をする内容でもない。だが、何も会話がない状態も同時に避けたかった。
「雨が降れば、それなりの靴が売れるし、冬になれば、ブーツや暖かそうな靴が売れる。統計かなんか取っているの?」
「いや、自分でも間が抜けた質問だなとか思いながらも話してしまった」
「別に気にしなくてもいいのよ。付き合ってくれてありがとう。他に何が好き?」
ぼくは、いろいろなものを思い浮かべたが、即答はできなかった。ただ、同級生たちより数歳上だけの彼女が、とても大人に見えたのだけは事実だった。
店を出る。地下鉄の駅まで一緒に歩く。その階段の上で、彼女はそっとぼくの頬にキスをした。ぼくは、そこから自分の意志のようなものが抜けたような気持ちになった。それで、階段を下りる彼女を見下ろすような形になりながら、穴でも開いていないか確かめるため頬に手の平をくっつけた。
「いっしょの方角でしょう」階段の上で立ち竦むぼくを彼女は下から見上げる。
ぼくがデートをする相手のひとりは、デパートで靴を売っていた。細い足をもち、繊細な指をもっていた。汚れたスニーカーを履く自分とは不釣り合いかもしれないが、ぼくが荷物を運ぶうちに話すようになった。きれいな言葉づかいをして、いつも優しくねぎらってくれた。メジャーを指に絡ませ、その指先のきゃしゃな感じが痛々しいぐらい美しかった。24才。
「いつも、ありがとう。さっき、貰ったの。よかったら、これ、飲んで」彼女は缶コーヒーを手渡してくれる。「大学生?」
「そうです」
「また、よろしくね。お疲れさま」
彼女は背中を向け、季節が変わるため、商品の靴の陳列を並び替えている。閉店したあとの店内は静かで、小さな彼女の声も不思議なエコーが加わり、よく響いた。ぼくは、それをもらい、手に握られた缶から季節感のない自分の足元に目を移し、スニーカーを見下ろしている。見なくても気づいていたが、それは少し汚れ、いくらかくたびれている。彼女が丁寧に並べている優雅な靴たちとは大違いだ。そして、店内で雑用をするだけの物体であったかもしれない自分(まるで、汚れたスニーカーのよう)に、こころを宿した人間として扱ってくれる彼女の優しさに思いを寄せる。ただの偶然の邂逅と、彼女の優しさ。ぼくは、外に出て、さっきの缶コーヒーを飲み干した。
秋に履く靴を並べていたが外は、まだまぎれもなく夏だった。それでも、夏の峠は越え、いくぶん涼しくなりはじめている。しかしながら、虫の声などない都会の雑踏の中だった。
「ピザでも食べる?」それから、数日経った暑さがもどった夜だった。靴を並べていた女性に不意に誘われる。
「ピザ?」
「そう、わたしも同じぐらいの弟がいて、いつもお腹を空かしている。山本くんも、そうでしょう?」
「ぼくの名前を知っているんですか・・・」
「話しかけるときに、名前がなかったら、どうするの?」
「そういう意味でもなかったんですけど」
「食べる?」
「食べます」ぼくは、彼女が木下という苗字を持っていることは知っていた。誰かが、そう呼んでいたからだ。それに振り返ってこたえる彼女は、木下さんに間違いがなかった。「木下さんは、ピザの美味しい店を知っているんですよね」
「この前、教えてもらって、食べた。また、行きたいなと思っていたんだ。たまにピザが食べたい気持ちにならない?」
「ぼく、店で食べたことがあるかな。友人たちと配達されたものを食べたことはあるけど」
「それは、残念ね。いつか、女性と行けるかもしれない」
「今日、行きますけど」
ぼくらは、デパートが終わった時間の照明が少なくなり始めている町をいっしょに歩く。彼女が履いている靴のかかとの音が、ここちよく鳴り響いている。ぼくは、急に財布の中身が心配になった。ここで、財布を開くわけにもいかない。頭のなかで、あれこれと数字を転ばす。あれに使って、これに使った。まあ、大丈夫か、どうにかなるか。
しかし、その不安も消えないうちに店の前に着いてしまった。ぼくは扉を押し、賑やかなお客さんの声をきく。店に入った木下さんは指を示し、座席を決めた。
「仕事、なれた?」
「なれるも何も、右のものを左に持って行き、左のものを右に持って行くだけですから。それで、サインもらって」
「それでも、どこに何があるか、分からないこともあったでしょう?」
「そう言われると、そうですね」
彼女は注文を取りに来た店員に微笑みかけ、数品を頼む。それが届く前に、すでに隣の座席のテーブル上に置いてあるピザが香ばしいにおいを発していて、ぼくらの鼻にまで到達した。
「おいしそうなにおいでしょう?」
「途端にお腹が空きました」
「いつも、夜ご飯どうしているの?」
「作ったり、買ったり」
「ひとり暮らしなの? 両親は遠いの?」
「横浜の先」
「じゃあ、通えるんだ」
「通えますね」
「脛かじり」
「そう、脛かじり」
ピザが運ばれ、彼女は一切れつかむ。ぼくも隣の一切れをつかむ。木下さんは別の皿の違った種類のピザをつかむ。そして、ぼくもその横の一切れをつかむ。ピザって、こんなにおいしいものなのか。
「おいしいでしょう?」
「はい。爪きれいですね」
「あ、うれしい。なにか、おかわりする?」ぼくのジュースのグラスは空になっていた。彼女は目敏く見つけ、また注文してくれた。
「靴って、一日何足ぐらい売れるものなんですか?」ぼくは、間が抜けていると思いながらも、そのような質問を口に出した。しかし、きれいな女性に質問をする内容でもない。だが、何も会話がない状態も同時に避けたかった。
「雨が降れば、それなりの靴が売れるし、冬になれば、ブーツや暖かそうな靴が売れる。統計かなんか取っているの?」
「いや、自分でも間が抜けた質問だなとか思いながらも話してしまった」
「別に気にしなくてもいいのよ。付き合ってくれてありがとう。他に何が好き?」
ぼくは、いろいろなものを思い浮かべたが、即答はできなかった。ただ、同級生たちより数歳上だけの彼女が、とても大人に見えたのだけは事実だった。
店を出る。地下鉄の駅まで一緒に歩く。その階段の上で、彼女はそっとぼくの頬にキスをした。ぼくは、そこから自分の意志のようなものが抜けたような気持ちになった。それで、階段を下りる彼女を見下ろすような形になりながら、穴でも開いていないか確かめるため頬に手の平をくっつけた。
「いっしょの方角でしょう」階段の上で立ち竦むぼくを彼女は下から見上げる。
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