壊れゆくブレイン(2)
お酒を飲まなければ裕紀の存在は消えず、逆にお酒を飲んでもむかしの裕紀が蘇ってきた。どちらにしろ、ぼくはその存在をより一層リアルに感じている。現実に出会う人間よりも、より深く。
ある場所で、あまり良い酔い方もできないまま、店を追い出される。もうそこで2時間以上も飲んでいた。それでも、まだ夜は終わることもなく、商店街はまだまだ閑散とする時間にならなかった。惣菜でも買って、このまま家で飲み直そうと考えていた。陳列ケースの前で指をさしながら、品物を注文した。足取りはもたつき、口から出る言葉もすらすらとはいかなかった。そのときに後方から自分の名前を呼ぶ声がする。
「ひろし君ですよね?」
ぼくは、当然、振り返る。だが、その顔に見覚えがない。いや、その年代に知り合いなどいないということで気持ちを遮断したのだろう。
「誰? こんな若い子に知り合いなどいないけど・・・」
「わあ、ひどい」
「ひどくっても知らないよ」
「お酒くさい。まゆみですよ。思い出してください」
「まゆみちゃん? こんな大人になったの?」
「わあ、思い出せた。まだ、なんか買うんですか? お茶でも飲みますか?」
「もう買っちゃった。これから、家でお酒を飲むんだ」
「まだ?」その様子にむかしの少女のころが思い出せた。ぼくが大学時代にバイトをしたスポーツ・ショップの店長の可愛いひとり娘。その子がぼくの酒への耽溺に説教をする。「そうか、奥さんを忘れるため?」
「そういえば、一回、うちに来てくれたね」
「憶えてます?」
「憶えてるよ。ぼくは、自分のベッドから追い出された」
「残念でしたね。わたしもあんなに優しくしてもらったのはじめてだった」
「まゆみちゃんにも良い思い出があって良かった。ありがとう」ぼくは今更ながら彼女に対しての目線が対等であることに驚いていた。「でも、大きくなったね」
「バスケットをやっていたんです」
「ああ、どっかで聞いた」
「また、うちに遊びに来ます?」
「いつかね。店長とも会いたいな」
「もう、ずっとこっちなんですよね?」
「そうだよ」
「そうだ。今度、映画でも付き合ってくれません?」
「だって、若い子がいるんだろう。好きになってくれるひとが」
「最近、別れました」
「あのまゆみちゃんに彼氏ができて、それが別れた」
「そういう言い方おじさんみたいです。もっとさっぱりとして、楽しみましょう」
「何の映画?」
「目の見えない元軍人が都会に行くんですって。友だちが前に見て面白かったって。学校の行事のために見ておかなければならないけど、ひとりじゃ恥ずかしいし」
「彼氏もいないし?」
「おじさんを若返らせなくちゃいけないし」
「いいよ。電話するよ。ぼくなら親も安心だろう」
「分かりました。あまり飲まないでくださいね」そして、彼女は悲しそうな顔をした。少女のころは同情などという表情を知らなかったはずだ。だが、彼女も大人になり憐れみや慰めという言葉や感情を身につけていくのだろう。
しかし、ぼくの華やいだこころは一瞬にして消え、家に帰ってまた飲んだ。前後不覚になって、そのままベッドに転がり込んだ。こうしたことを東京の生活から離れても相変わらず続けていた。ある女性の面影が、突然に失われたからこそ、ぼく自身に刻み付けられ、消せない肌の模様のように、このままぼくにくっついていくのだろうか?
翌日も、翌々日も同じような生活をした。きちんと働き、それが終われば気分転換させてくれるものはなく、ただお酒に溺れた。誰も裕紀の代わりになってくれず、ぼくのこころの穴を埋めてくれるものはなかった。いくつかの約束を忘れ、いくつかの予定をキャンセルした。計画をつくることを無視し、未来というものをまったく信じていなかった。だが、不思議とまゆみちゃんの件は忘れることができなかった。ぼくは彼女を小さなころから知っていて、彼女が悲しむことを世間から守るような立場にいなければいけないとも思っていた。あまりにも幼稚で陳腐な紳士のような気持ちで。
ある時、電話がかかってくる。
「あの、映画を見るって約束したと思ってるんですけど・・・」
「忘れてないよ」
「いつまでも上映していると思ってれば、困りもんですよ」
「いつまで?」彼女は日付を言った。
「もう直ぐじゃん」
「だから、電話した。女性から電話させるような態度って、よくないよ」
「分かった。ぼくからきちんと電話する。また、あとで」
スケジュール帳をみて、日付を決める。ぼくにほとんど用らしき用はなかった。裕紀はいなく、ただ時間があればお酒を飲んでいるような状態だったのだ。甥や姪のイベントごともなく、ぼくは誰かと会話をする週末をもたないこともあったのだ。
「まゆみちゃん? この日はどう? 楽しそうな映画を見つけてね、できれば一緒に見に行かないか?」
「そんなにまで言うなら、行って上げてもいい。ご飯もおごって」
ぼくは電話を切る。そして、こころのなかで裕紀に話しかける。ぼくが、むかし君と最初に会ったような年代の子と映画を観に行くことになった。応援してくれるかな? 嫉妬するのかな。もちろん、返事はない。
お酒を飲まなければ裕紀の存在は消えず、逆にお酒を飲んでもむかしの裕紀が蘇ってきた。どちらにしろ、ぼくはその存在をより一層リアルに感じている。現実に出会う人間よりも、より深く。
ある場所で、あまり良い酔い方もできないまま、店を追い出される。もうそこで2時間以上も飲んでいた。それでも、まだ夜は終わることもなく、商店街はまだまだ閑散とする時間にならなかった。惣菜でも買って、このまま家で飲み直そうと考えていた。陳列ケースの前で指をさしながら、品物を注文した。足取りはもたつき、口から出る言葉もすらすらとはいかなかった。そのときに後方から自分の名前を呼ぶ声がする。
「ひろし君ですよね?」
ぼくは、当然、振り返る。だが、その顔に見覚えがない。いや、その年代に知り合いなどいないということで気持ちを遮断したのだろう。
「誰? こんな若い子に知り合いなどいないけど・・・」
「わあ、ひどい」
「ひどくっても知らないよ」
「お酒くさい。まゆみですよ。思い出してください」
「まゆみちゃん? こんな大人になったの?」
「わあ、思い出せた。まだ、なんか買うんですか? お茶でも飲みますか?」
「もう買っちゃった。これから、家でお酒を飲むんだ」
「まだ?」その様子にむかしの少女のころが思い出せた。ぼくが大学時代にバイトをしたスポーツ・ショップの店長の可愛いひとり娘。その子がぼくの酒への耽溺に説教をする。「そうか、奥さんを忘れるため?」
「そういえば、一回、うちに来てくれたね」
「憶えてます?」
「憶えてるよ。ぼくは、自分のベッドから追い出された」
「残念でしたね。わたしもあんなに優しくしてもらったのはじめてだった」
「まゆみちゃんにも良い思い出があって良かった。ありがとう」ぼくは今更ながら彼女に対しての目線が対等であることに驚いていた。「でも、大きくなったね」
「バスケットをやっていたんです」
「ああ、どっかで聞いた」
「また、うちに遊びに来ます?」
「いつかね。店長とも会いたいな」
「もう、ずっとこっちなんですよね?」
「そうだよ」
「そうだ。今度、映画でも付き合ってくれません?」
「だって、若い子がいるんだろう。好きになってくれるひとが」
「最近、別れました」
「あのまゆみちゃんに彼氏ができて、それが別れた」
「そういう言い方おじさんみたいです。もっとさっぱりとして、楽しみましょう」
「何の映画?」
「目の見えない元軍人が都会に行くんですって。友だちが前に見て面白かったって。学校の行事のために見ておかなければならないけど、ひとりじゃ恥ずかしいし」
「彼氏もいないし?」
「おじさんを若返らせなくちゃいけないし」
「いいよ。電話するよ。ぼくなら親も安心だろう」
「分かりました。あまり飲まないでくださいね」そして、彼女は悲しそうな顔をした。少女のころは同情などという表情を知らなかったはずだ。だが、彼女も大人になり憐れみや慰めという言葉や感情を身につけていくのだろう。
しかし、ぼくの華やいだこころは一瞬にして消え、家に帰ってまた飲んだ。前後不覚になって、そのままベッドに転がり込んだ。こうしたことを東京の生活から離れても相変わらず続けていた。ある女性の面影が、突然に失われたからこそ、ぼく自身に刻み付けられ、消せない肌の模様のように、このままぼくにくっついていくのだろうか?
翌日も、翌々日も同じような生活をした。きちんと働き、それが終われば気分転換させてくれるものはなく、ただお酒に溺れた。誰も裕紀の代わりになってくれず、ぼくのこころの穴を埋めてくれるものはなかった。いくつかの約束を忘れ、いくつかの予定をキャンセルした。計画をつくることを無視し、未来というものをまったく信じていなかった。だが、不思議とまゆみちゃんの件は忘れることができなかった。ぼくは彼女を小さなころから知っていて、彼女が悲しむことを世間から守るような立場にいなければいけないとも思っていた。あまりにも幼稚で陳腐な紳士のような気持ちで。
ある時、電話がかかってくる。
「あの、映画を見るって約束したと思ってるんですけど・・・」
「忘れてないよ」
「いつまでも上映していると思ってれば、困りもんですよ」
「いつまで?」彼女は日付を言った。
「もう直ぐじゃん」
「だから、電話した。女性から電話させるような態度って、よくないよ」
「分かった。ぼくからきちんと電話する。また、あとで」
スケジュール帳をみて、日付を決める。ぼくにほとんど用らしき用はなかった。裕紀はいなく、ただ時間があればお酒を飲んでいるような状態だったのだ。甥や姪のイベントごともなく、ぼくは誰かと会話をする週末をもたないこともあったのだ。
「まゆみちゃん? この日はどう? 楽しそうな映画を見つけてね、できれば一緒に見に行かないか?」
「そんなにまで言うなら、行って上げてもいい。ご飯もおごって」
ぼくは電話を切る。そして、こころのなかで裕紀に話しかける。ぼくが、むかし君と最初に会ったような年代の子と映画を観に行くことになった。応援してくれるかな? 嫉妬するのかな。もちろん、返事はない。
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