ケンのブログ

日々の雑感や日記

恋人がサンタクロース

2021年12月18日 | 日記歌入り
大阪の北の中心地で放火によるものと思われる火災があったと新聞に出ている。

新聞の写真を見るとなんとなく見覚えのある風景だけれど、写真の範囲が狭いのでどこだかピンとこないところもある。

地図を見ると、梅田からフェスティバルホールやその近辺の他のホール(このあたりにはホールが結構ある)に行くときにいつも歩いて通っていた道であることはすぐにわかる。

それでグーグルマップで付近の火災のあった現場の写真を一回転させると、火災にあったビルの道路を隔てて真向いの吉野家は見覚えがある。

地図で位置を確認すると、僕がホールに行くとき時間調整などのためによく行っていた吉野家の店舗であることは確実にわかる。

(パソコンでちょこちょこっとやるだけでそこまでわかってしまうのは怖いけれど、、、)

あそこの吉野家で一人でカレーを食べていたら背後から「牛丼 頭の大盛」という声が聞こえて、聞き覚えのある声なので振り返ったら同じ歌声教室に通っていたおじさんだった
ということも記憶している。

※頭の大盛というのはごはんはそのままで、牛丼の具だけを大盛にする注文の仕方です。

そのときは、歌声教室の先生のコンサートがこの近くのホテルの中のホールであったので僕もおじさんもそのコンサートに行くところだった。

いやあ、あそこで放火と思われる火災かと考えるとぞっとする。

あそこの吉野家は近くのオフィスに勤める人がよく来ていて、吉野家のなかでは女性客の多い部類の店舗だったと思う。

近くのスターバックスやサンマルクカフェでは、修飾のOB面談などをしていることもあった。
(そういうのって、なんとなく話の雰囲気でわかる)

これだけ中心地だと、本当にショックが大きいことと思う。

新聞には避難経路が一つしかなかったとか問題点がいろいろ書いてあるけれど、そもそも放火を想定して、いろいろ考える人もいないだろうし、、、。

大阪でも不特定多数のひとが集まる場所だけに怖いと思う。

今後の経過が、できるだけ穏やかなものであることを祈ります。

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松任谷由実さんの「恋人がサンタクロース」をカラオケボックスで歌って、机の上に置いたICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。
聴いていただけると嬉しいです。

カラオケの機種はDAMです。

昔、隣のおしゃれなお姉さんが私に言った。
「今夜、8時にサンタクロースがうちに来るのよ」

「違うよ、それは絵本だけのお話だよ」と幼い私が言う。

「大人になれば、あなたもわかるはずよ。恋人がサンタクロースなのよ」とお姉さんは私にウインクして言う。

そのお姉さんは、サンタクロースに連れられて、遠い町に行ったきりになっている。

私にもわかるかな?恋人がサンタクロースだと。

松任谷由実さんにしか書けない、メルヘンのストーリーをちりばめた歌詞ですね。

そういえば、先日言った本屋にもサンタクロースの絵本がいっぱい並んでました。

なるほど、サンタクロースって絵本のお話ですね。

恋人をサンタクロースに見立てる想像力が素晴らしい。

京都の庭園は、水がなくても石を水に見立てたり、いろいろ見立ての想像ってありますね。

サンタから日本庭園は話の飛躍とは思いますが、、、。




恋人がサンタクロース 松任谷由実 DAM

松任谷由実さんの恋人がサンタクロースをカラオケボックスで歌い机上のICレコーダーで簡易に録音しました。カラオケの機種はDAMです。

youtube#video

 

信じて行なう

2021年12月18日 | 中ノ島観音
律法によっては罪の自覚が生じるのみである。
新約聖書ローマ人への手紙3章20節
人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰によるのである。
新約聖書ローマ人への手紙3章28節

※ローマ人への手紙にはパウロの言葉が書かれています。

日本語ではキリスト教の律法は律法と訳しますが英語ではlawつまり法律です。

法律、つまり決まりごとのことです。

キリスト教文化圏はたとえばモーセの十戒などキリスト教やユダヤ教の決まりがそのまま今でも法律として生きていることが多いので、律法も法律も等しくlawと言いますが、日本はそのような歴史文化的背景がないので法律と律法というように言葉を使い分けていると思われます。

さて、今日の全国紙に50代の女性からこんな主旨の相談があります。

“”30代の娘は大学を出で数年は一人暮らしをしていたけれど、仕事にやりがいがみつからなくて実家に戻ってきた。

いろいろ努力しているが、今は娘に収入はない。

娘も30代であせりを感じているようだが社会に出ることを怖がっているようにも
感じられる。

私もこのまま私たち夫婦の年金で娘を養うことになるかもしれないと思う。

娘がこうなったのは私たちの育て方のせいだと言われることもありつらい。“”と。

本当に、今の時代、身につまされる相談だなと思う。

このようになったのは私たちの育て方のせいだと言われるとつらい、と相談の最後に書いてあるので一番相談者がつらいのはあるいはこの点なのだと思う。

娘は、何としてでも養うくらいの覚悟はある、でも、こうなったのは育て方のせいだと言われることもありそれがつらいと。

この つらさって今を生きる人ならある程度、だれでも想像がつくのではないだろうか。

しかし、こういう場合に育て方のことを人から言われたり、それがつらいと感じるのも、一般に、子育てとは子供の自立を確立するものという一般認識 つまり律法があるからだと思う。

パウロは言っている「律法によっては罪の意識が生じるだけだ」と。(このブログ記事の冒頭の引用を参照してください)

本当に、こういう問題に即して考えてみても実にパウロの言うとおりだな思う。

子育ては子供の自立が終わって成功 そういう律法のためにつらい思いをすることになってしまう。

そしてパウロは「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく信仰による」と言っている。(このブログ記事の冒頭参照)

律法、つまり、決まり通りに行うことで義とされるのではなく信仰によって義とされる。

本当にそうだなと思う。

決まり通りに、子供の自立を促すことだけが教育と思い込んでいたら、子供が自立できなかった時に、自分の育て方が悪いと自分を責めることになってしまう。

では、どうすればいいのか。

それは、具体的にその場合に即して考えるしかないけれど、大きな目に見えない力を信じて、それぞれの状況に応じて精一杯進むしかない。

決まりからはずれたから、失敗と決めつけてはいけないと思う。

八王源先生は
「昔の信仰は 信じて仰ぐ(あおぐ)。そんな、仰いでおっても何にもなりません。これからの信仰は 進行、つまり信じて行なう。みなさん信じて行なうようにしましょう」と常々おっしゃっていた。

そうでありたいなと思う。

また、逆に私たちの周りを見回すと、決まりを振りかざして「それって、決まりでしょ?
決まりを守らなきゃダメじゃない」とやたら決まりを振りかざしてくる人って案外、うっとおしがられていることも多いのではないだろうか。

「律法によっては罪の自覚が生じるのみ」
パウロの言葉は奥が深くて普遍性も高いなと思う。

うらまないことで うらみに打ち勝つ

2021年12月18日 | 中ノ島観音
“”「彼は私を罵った、彼は私を害した。彼は私に打ち勝った。彼は私から強奪した」という思いを抱く人には
うらみはついにやむことがない。

「彼は私を罵った、彼は私を害した。彼は私に打ち勝った。彼は私から強奪した」という思いを抱かない人には
ついにうらみがやむ。

実にこの世においては、うらみに報いるにうらみをもってしたならば、ついにうらみはやむことがない。

うらみをすててこそやむ。これは永遠の真理である。“”
ブッダ真理のことば 感興のことば 中村元訳 岩波文庫より

うらまないことによってうらみがやむとブッダは言っています。

あまりにもあたりまえで、あまりにもシンプルなことをブッダは言っています。

あまりにもあたりまえであまりにもシンプル。これはブッダの考え方のおおきな特色の一つです。

うらみだけではないと思います。

怒らないことによって怒りがやむ

これもうらみと全く同じことです。

アンガーマネッジメントという言葉が最近ははやりです。

しかし、どんなメソッドが生まれても、怒らないことで怒りがやむというのは変わることのない真理です。

ならば、怒らないことで怒りがやむ というこの言葉こそをアンガーマネッジメントに使えばいいと思います。

怒りたくなった時、また、怒ってしまったとき

「怒らないことによって怒りがやむ」、こう考えればいいのではないでしょうか。

手を繰り返し執拗に洗ってしまったり、何度も確認してしまったり、
そういう 強迫性の行動をしないようにするには やはりそのような行動をしないことにつきる
という理論もあります。

強迫行動をしないと最初は、不安になりますが、その不安を我慢していると、時間の経過とともに必ず不安は下がる
ということが証明されているそうです。

だから、強迫行動をしないことによって強迫行動にうちかつ。

うらみや 怒りについても うらまないこと 怒らないことでそれにうちかつ。

そういう 当たり前すぎて、実は忘れてしまっていることを私たちは折に触れて思い返してみるべきだと思います。