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ケンのブログ

日々の雑感や日記

今年もあと二日

2021年12月30日 | 日記歌入り
新聞の一面に新年にそなえて、寅の大きなお札を飾り付けた東京、浅草の参道の写真が出ている。

もうすぐ、お正月なんだなと思う。

ラジオでは31日にしめ飾りを出すと急ぎすぎで神様に失礼だからできれば本日中にということを結構アナウンサーが真面目な口調で話している。

そういうのは名古屋という地域性もあるのかなと思ったりする。

昨日、実家に帰って新聞を見ていたらある一流のテニス選手の話が出ていた。

新聞が手元にないので記憶で概要をまとめると

“”原因はわからないが、プレーしていると呼吸ができないと感じることが多くなった。

今年のオリンピックは無観客だったので静か。呼吸の乱れが相手にわかってしまうと思うとなおさらプレーに集中できなくなってしまった。“”と。

そんな話を母にすると

「でもスポーツで呼吸が乱れるのはお互い様やから、そんなこと(会場が静かで)相手にわかってしまってもいいんじゃないの?」と母は言った。

「だから、そういう問題じゃなくて、相撲でも相手が息を吐いた瞬間に寄れ、というくらいで、スポーツで呼吸は大切。テニスでも一流の試合になると相手がこちらの呼吸を見計らって一気に勝負かけてくることもあると思うよ」と僕は言った。

母は、スポーツ音痴でこの手の勘違いというのが結構多い。

話しの聞き違いというのは誰にでもある。

その多くは
基礎知識の不足による場合
話しから意識がそれている場合
耳が遠いなどによる場合

特に、話から意識がそれているというのは、他ごとを考えていることもあるけれど、相手の発言に対して自分がどう応じようと思って考えているうちに相手の話の核心を聞き逃すということも多い。

相手の聞き違いに腹を立てる人は多くて、僕も、もちろん相手の聞き違いにイラっとすることはあるけれど、こういうのはお互い様と考えるようにするのが大切だと思う。

言い直したり、補足説明したりすることにはできるだけ寛容でありたいとは思う。

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年の瀬ということにかこつけて、サザンオールスターズの「Ya Ya あの時代を忘れない」をジョイサウンドの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップします。

聴いていただければ嬉しいです。

いつか、桑田佳祐さんが歌謡番組でこの歌を歌ったときの映像をユーチューブで見ました。

司会のアナウンサーに「Ya Yaって何ですか」と問われた桑田さんは
「特に意味ないんですけどぉ」と面倒くさそうに答えていました。

どんな意味だったか僕も忘れてしまいました。

歌詞の中で
“”もうあの頃のことは夢の中へ 知らぬ間に遠くyears go by“”

“”とびきり素敵な恋などもしたとおもう 帰らぬ思い出 time goes by“”

はとても印象深い言葉ですが
ここは音も三連符が出てきます。
三連符 意識して歌おうと思ったら、とぎれとぎれになってしまいました。

あと 歌詞の中で
“”互いにギター鳴らすだけで 分かり合えてやつもいたよ“”

というところも好きです。

言葉をかわさなくても分かり合えるのはいいなあと思います。

コミュニケーションは実際には非言語の部分が多いので、そこを大切にしたいと思います。

非言語の部分を大切にして、観察するからこそ、言語の部分でも思いやりのある言葉を出すことができると思います。









マウンティング

2021年12月30日 | 日記
ラジオを聞いていたら、マウンティングという話の流れの中でこんなリスナーのお便りが紹介された。

“”彼女が私に言った「あなた肌きれいね。どんな化粧水使ってるの?」

私が使っている化粧水の名前を言うと

「それって結構高い化粧水よね。私は安いの使ってるから駄目だわ」と彼女は言った。

それって、暗に自分は安い化粧水だけれどあなたより綺麗、と言ってるようなもんだと思って腹が立った。“”と。

お便りを紹介した女性パーソナリティは「これは女性、あるあるですよね。まあマウンティングですよね」と言った。

そんなものか、と僕は思った。

そう言われればそうかなと思った。

例えば、男どうしで
「お前、どんな車に乗ってるの?」
「ベンツ」
「そうか、俺はいつまでたっても軽やからあかんわ」
という流れで会話が進んでも、俺は軽やからあかん というのは単なる自虐でマウンティングということにはならないと思うけれど。

まあ、マウンティングになるかどうかは、言葉を発した時の、雰囲気もかなり影響するから、言葉のみの内容でマウンティングととられることはないのだろうけれど、、。

また、こんな話も紹介された。

“”彼女の家に遊びに行ったら彼女が料理をふるまってくれた。
「あなたは料理するの?」と彼女が聞いたから、私は多少は料理するけれど「まあ、料理はしない」と答えた。もちろん全くしないわけではないので謙遜してそう答えた。
ある時、彼女と男友達で飲みに行った。
運ばれてくる料理を前に彼女は男友達の前で「この人は料理しないから」と私を指さして言った。
私、謙遜して料理しないと言っただけなのに、と思いつつその場はがさつな女を演じた。あんなくらいなら謙遜するんじゃなかった“”と。
この話もマウンティングという文脈で紹介された。

そんなものだろうか。もし、そうだとすれば、家事が女性に偏るという現象は男の無理解や非協力のためによって生まれるだけでなく、女性同士の女らしくふるまいたい、という意識の中からも生まれてきそうな気もしてくる。

それに、一般に女性の方が家の中の細かいことには男以上に気づくし。

まあ、男友達の前で彼女から「この人は料理しないから」と露骨に言われたのは
以前料理をふるまったときに「私は料理しない」と言った答えが謙遜とは受け止められずに
「料理しない」と答えたばかりに料理の話に花が咲かなくて料理をふるまった方の女性は
うっぷんがたまっていたかもしれない。

そこまで考えているときりがないけれど。


まあ、こういうのは考えて結論が出る問題ではないけれど、、、。
寒い日が続くし雪も少し残っている。

寒いなと思っていたら宮沢賢治のこんな文が頭に浮かんだ。
“”「堅雪かんこ、凍(し)み雪しんこ。」
 四郎とかん子とは小さな雪沓(ゆきぐつ)をはいてキックキックキック、野原に出ました。“”
※宮沢賢治「雪渡り」より。

堅雪かんこ とかキックキックキックなどいわゆる言葉のリズムと思っていたけれど、実際に、雪とか寒さの中でこのリズムを心に思い浮かべるとこれは単なるリズムではなく雪の寒さの中でこそ生まれてくる必然性のあるリズムなのだなと思う。

理屈や科学ではとらえることのできない必然性をとらえるのかきっと芸術家の仕事なのだと思う。

そのような必然性が大切であることを改めて意識したいと思う。