ケンのブログ

日々の雑感や日記

本当に不可解なことが続いている

2020年11月14日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説に次のような記述がある。

“”
教祖は九十歳を過ぎてから、幾度も警察署に連行され、留置場に入れられた。警察が連行に来て周囲の人々が驚愕していると、いつも「反対するのも可愛い子供」と微笑んでいそいそと腰縄をつけられて出ていかれたという。反対するのも可愛い子供・・・そう森老人は口の中でそっと言ってみたが、目頭があつくなった。“”
※森老人とは人間の運命の主人公、森次郎の父

小説の中の話だから教祖(中山みき)が実際に「反対するのも可愛い子供」と言ったのが事実かどうか僕にはわからない。

ただ、作者の芹沢光治良はこういうことに関してはたとえ小説でも全く根拠のないことは書かない方だと僕は思う。

中山みきが晩年に警察に連行されたのは少なくとも事実だし、また中山みきのおふでさきの文章にも
「なにもかもしらずにくらすこの子供
神の目にはいじらきこと」
という下りがあるので、それらのことをつなぎ合わせて考えると作者の芹沢光治良は事実かもしくはそれに近いことを書いているように僕には思える。

人からそしられたり、非難されたりしても、あれは子供が言っていることと思えれば、それは心づよいことのように僕には思える。

ブッダの言葉にも「戦場の象がささった矢を耐え忍ぶように、私たちも人のそしりを忍ぼう」というものがある。

眞子内親王殿下もいろいろと忍んでおられるのだろうか。

今日の新聞に昨日の眞子内親王殿下の結婚延期に関するお言葉の全文が載っている。

その全文を読むと不敬な言い方ではあるけれど、特別な進学校の生徒ではなく、ごく普通の学力の、中学生・高校生が書いた作文レベルの文章のように僕には思える。

宮内庁などからの添削は受けた文章なのだろうと想像するけれど、それでも、中高生の作文レベルの文章。

一体、どうなっているんだろうと思ってしまう。

文章の中に
「様々な理由からこの結婚に対して否定的に考えている方がいらっしゃることも承知しております。しかし、わたしたちにとっては、お互いこそが幸せなときも不幸せなときも寄りそえあえるかけがえのない存在であり、結婚は私達の心を大切に守りながら生きていくために必要な選択です」という下りがある。

ここを読んだとき、内親王殿下もずいぶんいい気なことをおっしゃるもんだと思った。

“”わたしたちにとってはお互いこそが幸せなときも、不幸せなときも寄りそえあえるかけがえのない存在“”って、キリスト教式で結婚式をあげるときの神父さんの決まり文句を連想させる。

皇室って神道ではなかったのか。

僕はそうだと思っていたのだけれど。

神道で大切な考え方の一つがおかげさまということ。

内親王殿下は天皇ではない。

しかし、日本国憲法には「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基づく」と書いてある。

確かに眞子内親王殿下は天皇ではないけれど、天皇家の一員として、国費でここまで育てられてこられた方ではないのか。

そして、それは日本国憲法に書いてあるように、主権の存する、日本国民の総意に基づいて、そのようになっているのではないのか。

少なくとも僕はそのように考えている。

主権の存する国民の総意のおかげさま、という考えがこの文章からほとんど読み取ることができない。

個人の意思の尊重という変な意味で西洋式の考え方になってしまっている。

昨日、ネットに眞子内親王殿下のお考えの発表があったというニュースが出たとき、それに関連して、3年くらい前の眞子内親王殿下の婚約記者会見の動画が出てきた。

それを見ていても、眞子内親王殿下もそして、その配偶者になろうとしている方も、あらかじめ暗記したことを心もこめずに棒読みしているような感じで、あれも本当にわざとらしいものに僕には感じられる。

そして今回のごく普通の中学・高校生の作文レベルの文章としか思えない、内親王殿下のお言葉の全文。

本当に、最近コロナに始まって、ちょっと今までの常識では考えられないことが、次々と起こっていると思ってしまう。

せいさんと言う方がどこかに「私は天皇家という家柄に生まれただけで、いわれのない尊敬を人々から受けるということに関して疑問に感じてきました」という主旨の文章をどこかに書いておられたと記憶している。

そのときは、せいさんと僕の考えは相容れないと思ったけれど、今回こういう事態に遭遇すると、いわれのない尊敬という気持ちもわかるように思えてくる。

結婚はプライベートなことなので、自分たちにしかわからない事情があって、こういう作文レベルでお茶を濁したような文章しか発表できないのだとは思うけれど、本当に眞子さまにとってよきみちが開けますようにと願っている。

※作文レベルの文章しか発表できないのは今の閉塞した状況ではやむを得ないこととは思います。











なんとか良い方向に

2020年11月14日 | 日記
眞子内親王殿下の結婚がさらに延期されるというような内容のニュースがネットに出ている。

結婚ってプライベートなことではあるので本当の事情は当事者にしかわからないことと思う。

が、最近本当に皇室のことも含め、理解に苦しむようなことが多い世の中になったものだとは思う。

いつまでも先延ばししていると当然、歳をとっていくし、このまま結婚ということになれば、ちょっとその後の展開を想像すると怖くなるし。

でも、破断ということにもそうたやすくはできない事情があるのかと想像してしまう。

国民の一人としては特に眞子内親王殿下にとってなんとか良き道が開けますようにと願っている。

互いに傷つくだけ

2020年11月11日 | 読書
芹沢光治良の「人間の運命」という小説で、松木という登場人物がある宗教団体のスキャンダルのようなものを描いた小説で懸賞戯曲の二等に当選する。

その小説について主人公の次郎と、松木が話をする場面がある。その話の中で次郎は次のように語る。

「(〇〇教を)批判するには愛情によらなければ、真の批判にはならないから・・・冷たい心だったり、敵視したり、単なる好奇心で批判したら、互いに傷つくだけだからね・・・あの作品に書いたことはすべて、事実だと、君は言っていたけれど、君の友達にしろ、若い管長にしろ、あの事実は、私的なことで、人に知られたくない生活の恥部のようなもので、文学の名でも発表することは許されないと思うなあ。 中略 だからこのスキャンダルのような事実は、せめて20年あたためて、それに関係ある人々の運命を見た上で、書いたら、スキャンダルではなくなって、人を打つ文学作品に昇華できると思うがな・・・」

“”冷たい心だったり、敵視したり、単なる好奇心で批判したら、互いに傷つくだけだからね“”

本当に、50年以上前に刊行された小説で、このシーンの時代設定は1930年ころと思われるけれど、とりわけ情報化社会にある現在の私達が心に刻んでおかなければならない考え方だと思う。

互いに傷つくだけというところが、的をいていると思う。

他者を傷つけることを言うと結局、自分が傷つく。一時の、感情の高まりや怒りのために私達はそのことを忘れてしまうことがあまりにも多いと思う。

“”せめて20年あたためて、それに関係ある人々の運命を見た上で“”
というのも、本当に単に物事は長い目で見るべきという一般論でくくられるような考え方ではないように思う。

しかし、目の前にある出来事の本当の意味がわかってくるのには、実はそのくらいの年月の経過が必要というのは真実であるし、また、そういう真実を大切にする心で生きるということが大切と感じる。

結局、長い目で見て本当の意味がわかってきて、それをかみしめるという生き方をするためには、感謝と辛抱の気持ちが必要ということは言えると思う。

ブッダの言葉に、「自分を苦しめず、また他人を害しないようなことばのみを語れ。これこそ実によく説かれたことばなのである」
というものがあるけれど、本当にいつもそういうことを意識することが結局は自分のために大切だなとしみじみと思う。


宣伝と誇張に満ちたメッセージ

2020年11月11日 | 日記
アメリカの大統領選挙は、バイデン氏勝利ということで、報道がなされている。トランプさんがいろいろ抵抗しても結果は覆らないだろうという見方がなされているからこの報道になっていおると思う。

もう僕が読んでいる全国紙の社説にはトランプ政権で失われたものは何かという内容の社説が載っている。

その中で社説は次のように論じている。

「(トランプ氏が)実業界出身のアウトサイダーとして既存政治の打破を図る手法は多くの弊害を招いた。宣伝と誇張に満ちたメッセージをひっきりなしに発信するツイッター政治はその象徴だろう」と。

本当にそのとおりだなと思う。

そしてそのような誇張に満ちた宣伝というのはトランプさんの情報発信に限らず、日本でも様々なメディアで知名度の高い人のなかで少なからぬひとが用いている手法でもあるように感じる。

そういう社会はやはり何か浮足立っていて、どこか信頼性にかけていて、私たちは本当に何をよりどころにしたらいいのだろうという思いにかられる。

政治も、社会も、本当に真摯で信頼性のあるものになっていくようにと願わずにはいられない。

知らなかったの愛したら 男の人って

2020年11月09日 | 日記
昨日の新聞に、2005年4月25日の福知山線脱線事故の車両を保存するという話が出ていた。

その話に関連してもうJR西日本では、事故後に入社した社員が全社員の過半数を占めると出ていた。

事故が2005年で今年が2020年だから事故から15年。JRのような巨大企業でも15年経てば社員の過半数が入れ替わるのかと思うと本当に人材の流動が激しい時代になったものだなと思う。

ネットのニュースをちょっと見たら、共同通信のニュースとして
「同意なき性交 犯罪に」という見出しで
何かの委員会のような組織が同意のない性交を犯罪とする提言をしたとか、いうような記事が出ている。

そんな同意なき性交は犯罪って言っても。

同意ある性交って何?

「ではこれから性交しましょうか。同意しますか?」

「はい。同意します。」

「では、いたしましょう」
って、そんなシーン、ドラマでも映画でも小説でもお目にかかったことない。

いったい、この提言をした人ってどういうつもりなのだろう。

それは、実際の立法ということになれば、同意なき性交とはという定義はなされるだろうし、また裁判でも当然、同意なき性交とはという議論がなされて、それがある程度、判例ということで定着する時期はくるだろうけれど、大概のニュースって、そこまで詳しく書いてあることはあまりないし、もし書いてあったとしてもそこまで詳しく読むことはそれほどないだろう。

同意なき性交は犯罪、という見出しだけが独り歩きすると、結局、奥手な人は一体、どうすれば同意のある性交ってできるのだろうと考えて、なかなか性交ができなくなってしまって結婚する人が少なくなったり、逆に変なうっぷんがたまってかえって性犯罪が増えるのではないかと心配になってくる。

本当に、ややこしい世の中になったものだなあと思う。

昭和の高度成長期に伊東ゆかりという人が、(とてもきれいでかつ歌のうまい人だった)が「知らなかったの」という歌を歌っていた。

かなりヒットした歌だ。

その歌はこんな歌詞になっている

“”
知らなかったの愛したら、男の人って強いのね。
いきなり口づけされた夜
私は蜜になりました
あなたがくれた幸せで
こんなにほほがバラ色よ
だからきれいに
もっときれいになりたいの “”

伊東ゆかりさんはこの歌を大真面目で歌っていたし、サビの部分はかなり高音で伸びのある歌声がないと歌えない歌だから、この歌を歌う伊東ゆかりさんのことを、ふざけた目で見る人はいなかったと思う。

むしろこの歌を堂々と歌える伊東ゆかりさんってすごいなという目で見ていた人のほうが多いように思う。

本当にあのころは今よりも、人がのびのびとしていたように思う。