ケンのブログ

日々の雑感や日記

天神祭り

2022年07月26日 | 日記
7月25日という日付を見るといまだに大阪の天神祭りのことを思い浮かべてしまいます。

大阪天満宮の近くに住んでいる会社の先輩に 「天神祭り名物のギャルみこしはどうですか?」と尋ねたら 「最近はギャルみこしをかつぐ ギャルもおらんのですわ」という答えが返ってきたことを懐かしく思い出します。

ネイティブの大阪人だったので そういうテンポのいい会話をする人でした。

仕事でちょっと失敗をやらかすと
「しまった しまった 島倉千代子」とつい言ってしまって そのあと「困った 困った こまどり姉妹」も付け加えてしまって、、、。

僕は それらのギャクは島木譲二さんのものというよりも 会社の先輩のもののような気が今でもしています。

ネットのニュースをチェックすると

「大阪の夏の風物詩「天神祭」で、色とりどりの衣装を着た人たちがまちを練り歩く「陸渡御」が3年ぶりに行われ、多くの見物客などでにぎわいました」と出ています。

祇園祭も 岐阜の郡上踊りも 大阪の天神祭りも 3年ぶりというのが多いですね。

ところで 25日というのは大阪に限らず一般に天神様の縁日です。

岐阜の郡上節にも次のような歌詞があります。

「25日は天神祭りござれ 小瀬子の茶屋で待つ」と。

25日は天神祭りだから来ておくれ 小瀬子の茶屋で待っている という意味です。

田舎のお祭りの日の 楽しみが伝わってくるような歌詞で僕は好きです。

25日は新聞が休みで 夕刊はコンビニで売っていたので買ってきました。

水泳の授業で 紫外線防止のためにラッシュガードを着る場合の許可を得る方法が複雑でいろいな問題がある という記事がトップに来ています。

僕が中学生のころは 夏休みに 色が白いと 「お前 もっと日焼けして体力つけな」という先生もいましたが 今は紫外線を避けようという風潮が強いですね。

僕も 帽子をかぶったりしてほんのすこしだけ紫外線対策をしていますが 本当に僕が中学生の頃は 日焼けが元気の象徴のように思っている人もいたことを思えば 時代は変わったものだなあと思います。

学校のプールのわきには固形の塩素消毒剤が置いてあって 先生が 池の鯉にえさをやるような感じで プールにその固形塩素をまいていました。

みんなが目が痛いという日は お互いに「今日は 先生 ちょっと消毒まきすぎたんやないか」と言っていたりしました。

それで とくに 親から 塩素のまきすぎとかクレームがでることもなく 今から考えるとなんと大雑把な時代だったのだろうと思います。

塩素をまくと言って思い出しましたが 

川で まき餌をして釣りをしている人がいて  そのことに気づかずに 土手の上から 撒き餌がしてあるあたりに 友達と石を投げて遊んでいたら まき餌をした おじさんが 土手の下から 「こら 魚が逃げるやないか」と言って 土手を駆け上って僕たちの方に突進してきました。

友達が 「逃げろ」と言ったので 逃げました。

本当にあのときのおじさんの 土手を登ってくる形相を思い出すと逃げて正解だったと思います。

それはともかく 一日一日 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。



どうせあほなら Melody

2022年07月25日 | 日記歌入り
一週間くらい前に読み損ねた新聞を読んでいたら 京都の祇園祭山鉾巡行3年ぶりに行われる という記事が出ていました。

そうか 岐阜では郡上踊り3年ぶりと言っているけれど 京都は山鉾巡行3年ぶりかと思いました。

山鉾巡行は人に連れられて何度か見に行ったことがあるのですが とにかく暑かったという想い出がほとんどです。

これに対して 郡上踊りは 暑かったという記憶があまりありません。

それよりも 歌の響き 友達のT君が 踊りながら ホイ とか掛け声をかけていたこと そんなことを思い出します。

実際には暑い中で体を動かして踊っている方が暑いはずなのに 暑いという記憶がない。

これはきっと徳島の阿波踊りの歌詞にあるように

踊る阿呆に見る阿呆 どうせ阿呆なら踊らにゃそんそん ということなのだと思います。

山鉾巡行でも きっと 山鉾を動かしている人は暑いという記憶があまりないような気がします。(たぶん)

民謡の歌詞には その地域の特色が現れると思います。

どうせあほなら 踊らにゃそんそん という歌詞を見ると 本当に  徳島の友人が
「どうせ あほなんだから おどらなきゃ 損だよ」という声が聞こえてくるような気がします。

徳島の 冗談は そういう豪快なものが多いような気がします。

いつか 新聞の投書で 

“”北欧に旅行に行って いざ 買い物というときになったら ホテルのプールで 白人の女性が泳いでいて 夫が 「よし 俺も泳ぐ 買い物はいつでもできる」と言って プールに直行 私は 水着になって泳ぐ気にもなれず 結局 買い物もしないで終わってしまった。夫のことを一生恨んでやる。“”

というような面白い内容のものがあり 誰の投書かを見たら 徳島県の女性 となっていて いかにも徳島だと思ったことを思い出します。

一方 岐阜の郡上踊りの歌詞には 例えば
「浮気男と茶釜の水は 沸くも早いがさめやすい」というものがあります。

これも 岐阜の人なら 「まあ 浮気な男は とかくさめやすいからな 男は真面目に限る」といかにも言いそうな感じで やはり地方の気質が出ていると思います。

もちろん 徳島の男も真面目ですけれど、、、。

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7月24日付の全国紙を読む限りでは コロナの感染数は増えているけれど 重症者数は増えているわけではない ということがわかります。

こういう数も推移するものなのでわかりませんが 本当に こういうことが続くと コロナもインフルエンザの一種 かぜの 一種だ とみんなが悟ったときに コロナ騒動が終わるのかもしれないと感じます。

いずれにしても コロナというか コロナによる 生活の不安定さが収束することを祈っています。

■Melody
サザンオールスターズの「Melody」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップロードします。

聴いていただければ幸いです。

1985年のリリース。

ウィキペディアで調べるとミディアムなスローナンバーとなっています。

スローだけれどスローすぎずに ということでしょうか。

調べると ベートーヴェンの田園交響曲の第一楽章は
アレグロ マ ノン トロッポ となっていて
これは アレグロだけれど 急ぎすぎずにということです。

スローだーけれどスローすぎずに ということと アレグロだけれど急ぎすぎずにというのは ほとんど同じ意味なのではないか と屁理屈のようなことを頭の中で考えてしまいました。

でも きっと スローだけれどスローすぎずにと アレグロだけれど急ぎすぎずには意味は近いかもしれません。

しかし スローだけれどスローすぎずに という表現はスローが基調ですし
アレグロだけれど 急ぎすぎずには アレグロが基調です。

言葉を理解するときに何が基調になっているのかを考えるのは大切なことだと思います。

でも、適度にスローというところが 僕がMelodyという歌が好きな理由だったと気づきました。

サザンの歌は夏歌が多いですが このMelodeyも夏から秋にかけて僕がしばしば思い出す歌です。

↓サザンオールスターズの「Melody」をカラオケDAMの音源で歌いました。

社会慣習

2022年07月24日 | 日記
関西から故郷の東海地方に越して一年くらいになる。

やはり こちらは関西と随分 社会慣習が違うなと思うことも多い。

テレビを持たない生活を僕はしている。

関西でもそうだった。

関西の場合 テレビを持っていなくても 日本の放送協会の契約を促す書類がかなり頻繁にマンションの集合ポストに入っていた。

こちらでは まだ 一度も 協会の契約を促すような書類は集合ポストに入っていない。

僕の場合がたまたま そうなのかもしれないけれど なんとなくこれは 関西とこちらの習慣のちがいでもあるような気がする。

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ある時 自動車のディーラーの女性が お客さんの自動車が角を曲がるまで深々と頭を下げて見送っていた。

それに 気づいてから こちらでは そういうシーンを結構 頻繁に見かけることに気づいた。

関西でも そういうことがないわけではないけけれど なんとなく頻度はこちらの方が高い気がする。

僕自身 自動車の点検のためにディーラーのところへ行ったときは 雨の日だった。

自動車を所定の位置にとめるように促され そこにとめると 若い女の子が傘をもってやってきた。

それほど 強い雨でもないし ディーラーの建物の中に入るまで5メートルくらいの距離を女の子から差し出された傘の中に入っていくのはかえって気づまりと思った。

「このくらいの雨なら大丈夫です」と僕が言うと 女の子は自分の傘を僕に渡そうとしたので 「それもいりません 大丈夫です」と断った。
関西では 決まったモータースにいっていたけれどこんな体験したことがない。

たまたまなのだろうか。

これも 関西と 東海地方の習慣の違いによるところが大きいのではないかとなんとなく思う。

それでいて 態度のでかい店員さんに 遭遇する頻度は 関西よりも 東海地方の方が高いような気がする。

この店にいらした以上は この店の習慣にしたがってほしい という感覚は東海地方の方が強いような気がする。


これは 僕が思うには 関西は 基本的に商人のまち 東海地方は基本的に 多くの有力な戦国大名を輩出した地方、また 家という感覚が強い地方。

そういうことに起因するのではないかとなんとなく思う。

あるいは 関西のように へたなことをすると 「何やねん お前」と言ってこられる可能性が東海地方の方が低いように思うので店員さんが油断しているだけかもしれないけれど、、、。


統計的にデータをとって得られる 事実の分析ではないけれど 感覚的になんとなくそう思う。

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ファーストフードのお店に行くと 「一緒に飲み物もいかがですか」などと言われることが多い。

これは 客単価を上げるためのマニュアルとして 上の人からの指導でやっていることが多いと思う。

関西の場合、店員さんも 「マニュアルやから それは言わなあかんやろう」という感じで 何回行っても 「もう一品いかがですか」と言われることが多かった。
東海地方の場合は 一見さんの客には 「もう一品いかがですか」というけれど その客がもう一品を断る客だとわかった場合には もう言ってこない店員さんが多い。

それも 習慣の違いと言えば違いだなと思う。

東海地方の方が 田舎なのかもしれないし 封建的なのかもしれないと感じる。

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名古屋の百貨店などで、コロナで浮いた 富裕層の消費を呼び込もうと 高級腕時計の商戦が過熱している というニュースが 7月23日付の全国紙の地方経済欄に載っている。

今どき 高級腕時計 というもの 名古屋と言えば名古屋だなと思ってしまう、、、。

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7月23日は 大暑 暦の上では一年で最も暑い時期ですね。

それはともかく 一日 いちにち無事にすごせますように それを第一に願っていきたい。





のらりくらり 渚のシンドバッド

2022年07月23日 | 日記歌入り
ここ2日くらい新聞はAOKIという会社がオリンピックの理事の方に資金提供したという話題が大きく取り上げられている。

読売新聞を見るとAOKIから資金提供を受けたとされる高橋さんは組織委の担当者にAOKIの公式ライセンス商品についての審査を早めるように働きかけていた可能性があることがわかる。

新聞に掲載されている模式図を見ると高橋さんが審査を早めるように働きかけた組織委員会のマーケティング局は高橋さんがかつて専務を務めていた「電通」からの出向者が多くを占めているという。

本当に大手広告会社が社会で持っている影響力はとてつもなく大きなものなのだなと改めて感じ 驚いてしまう。

新聞に高橋さんがどのような言葉でマーケティング局に働きかけたか その言葉が載っている。

引用するとこんな風だ。

「つまらないことで時間をかけているので『早くしようよ』とプッシュした。『ちゃんとしたかたちであればいいじゃない』というようなことを言った。お役所仕事では(販売が)間に合わない」

「スポンサー企業の要望を受けてプッシュすることはあった」

「審査の過程で理事として関わったことはない」と。

審査というのは実質 公式ライセンスの承認の審査ということは記事を読めばわかる。

記事を見ただけでは 高橋さんが刑事責任を問われるのかどうかはもちろんわからない。

しかし、率直に次のような感想をもつ。

「ちゃんとした形であればいいじゃない」って、どういうこと? 言語明瞭意味不明瞭だなと感じる。

しっかしりした倫理観がないことがこういう言葉を生む土台にあるのではないかと思ってしまう。

「スポンサー企業の要望を受けてプッシュすることはあった」

とはAOKIとはスポンサー企業としてのAOKIであって、私に資金供与したAOKIではない。高橋さんにとってAOKIはあくまでスポンサー企業にすぎない。ということをほのめかしているのだろうか。

きっとそうなのだろうと思う。

「審査の過程で理事として関わったことはない」って、ようするに会社の後輩にちょっとはっぱをかけただけということなのだろうか。

いずれにしても なんとなく のらり くらりと ものごとをかわしながら進んでいくさまが感じられるような気がする。

そして、その背景に 俺たちが広告で宣伝して売ってやるよ という感じのおごりがあるように思えてしまう。

社会できわめて大きな影響力を持った人が こんな 感じでは それは世の中に何とも言えない不安が芽生えてきてしまうように思う。

というか現に 芽生えてきていると思う。

こういう流れが なんとかしてとまることを願ってやまない。

それなりの倫理観をもって 責任を果たすのは大切なことと思う。

単に ものが売れればいいという話ではないと感じる。

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新聞の投書欄にこんな投書が出ている。

「生理痛で会社を休んだ。出社した際 上司が苦笑しながら『食生活や睡眠を見直して体質改善した方がいいのでは。まあ 私にはわかりませんが』と言った。悲しみ、怒りと言った感情が押し寄せ 思わず涙があふれた。

上司に言われなくても 生理痛が軽減するように毎日 食事や生活リズムに気を使っている。婦人科で診察を受け 処方された薬も服用している」と。

本当に 上司の方がどのような表情 語気で言ったのかまではわからないけれど 投書を読む限り悲しい話だなと思う。

次のような感想を持った。

●男女平等社会の影響で男性の上司もストレスと感じ つい 生理痛で休むなんてと思ってしまうのかもしれない。

●科学的根拠ということがよく叫ばれる時代の流れの中で 生理痛のように 体温37.5度以上のような 客観的指標のない 体調不良に対する想像力が欠如してしまっている。

●「食生活や睡眠を見直して体質改善をはかる」って健康食品などの広告のキャッチにいかにも出ていそうな言葉。そういう言葉を語って悦に入ることが上司はくせになってしまっているのではないか。

●最後に 私にはわかりませんが と付け加えるところがまた何とも言えず腹立たしく思えてくる。(僕も言うだけ言った後で「知らんけど」という癖が大阪で暮らしているうちについてしまったので 人のことはあまり言えないけれど、、、。)

などなどの感想を持った。

結局 人間は言葉で思考すると思うから その人の言葉の枠組みが 人を傷つけるような枠組みになってしまうと 無限にそういうことが起きてしまうような気がする。


こういうことで 怒りや悲しみの感情がおしよせたとき「自分で復讐しないで神の怒りにまかせなさい。悪に負けてはいけない かえって善をもって悪に勝ちなさい」というパウロの言葉を心においておくと 救いになることが多いと思う。
※パウロの言葉は新約聖書ローマ人への手紙12章より引用

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■渚のシンドバッド
ピンクレディの「渚のシンドバッド」をカラオケDAMの音源で歌いICレコーダーで簡易に録音したものをアップロードします。

聴いていただければ幸いです。

都倉俊一さんの作曲 阿久悠さんの作詞です。

当時のヒットメーカーですね。
サザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」は当時ヒットしていた沢田研二の「勝手にしやがれ」と この「渚のシンドバッド」からとって命名されたそうです。

ピンクレディの当時の動画を見ると これだけリズミカルな歌を踊りながら正確に歌っていて やっぱり たとえ期間が短くても その時代のトップにいた人は違うなと思ってしまいます。

↓ピンクレディの「渚のシンドバッド」をカラオケDAMの音源で歌いました。



コロナの感染者数増加

2022年07月21日 | 日記
コロナの感染者の数がまた増えていると報道されている。

また、スポーツなどでもヤクルトスワローズはかなりコロナの影響を受けてしまったり、いろいろなところで そういうたぐいのニュースが出ている。

今日、実家にあった全国紙に目を通していたら 名古屋の小学校の終業式で 体育館に体育すわりをした低学年の児童の写真が出ていた。

そして、その写真のしたに 校歌を心で歌う児童たち というような説明が書いてあった。

いかに コロナの感染が増えているとはいえ 校歌を心で歌うって 直観的に、児童たちには気の毒なくらい不自然なこと と思ってしまった。

こういう つらい時期に 小学校の運営をしておられる 先生方には失礼な書き方と思うけれど、飛沫感染を防ぐことが目的なのか 万一 小学校で感染が起きた場合に 声を出して校歌を歌っていたら そのことが感染の原因だと 指摘されるのが怖いのかわからなくなってくる。

僕が そのような児童の写真を見て直観的に思うことは 声を出して歌を歌ってコロナに感染するリスクと 声を出さずに歌うことを我慢して ストレスがたまって 不登校になってしまったり、ストレスが原因で体調を崩してしまうリスクとどちらのリスクが大きいか ということだ。

その答えはもちろん 僕にはわからない。

けれど、近年 科学的根拠 という言葉が独り歩きしてしまって 科学的根拠に基づいて行われているようなことが 逆にとても非合理にみえてしまうことが多くなった。

こういう機会に 科学的根拠とか科学的証明とか そういうことが成り立つ領域は 森羅万象の中で ごく一部にすぎない ということを私たちは再認識する必要があると思う。

これは 決して科学を否定するわけではない。 

そうではなく 科学的思考法を私たちがどのように有効活用していくかということを本当に考え直す時が来ているということを僕は言いたいと思う。

それはともかく 一日 一日 無事に過ごせますように それを第一に願っていきたい。