感覚(2022.9.15日作)
理論は知らなくても
感覚を磨けば 人は生きられる
感覚のない人間は木石
機械ーーマシーン
感覚に裏付けられた知識
それこそが真の知識
木石 マシーンではない
真の知識人
頭で計算している芸は駄目
自身を忘れた時に出てくる芸が本物
六世 中村歌右衛門
棟方志功の版画と
六世 中村歌右衛門の芸には
共通するものがある
共に 真実に迫る凄味
頭で考えていては駄目だ
直観力を磨け それには
経験する事
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大きい花 小さい花
長い冬のきせつがおわって、ようやく春の日ざしがいっぱいになった、のはらには、いろいろな花がいちどに咲きだしました。
ひろいのはらは、冬がれの、さびしいけしきとはちがってさまざまな色やかたちの、花のらくえん、花ぞのにかわりました。
そんなある日、きょねん生まれたばかりの子どもをつれた、ミツバチの母子がとんできました。
「ウワッ、きれいな、ながめだなあ」
子どもミツバチは、はじめてみる花のきせつに、おもわず声をあげました。
「さあ、これからはまいにち、いっしょうけんめいにミツをあつめて、巣にはこばなくちゃあね」
おかあさんミツバチはいいました。
「あまいミツが、いっぱいすえるね」
子どもミツバチはいいました。
「そうよ。だから、あなたもいっしょうけんめい、おてつだいをしてね」
おかあさんミツバチがいいました。
「うん」
子どもミツバチはうれしそうにへんじをすると、元気よく一つの花からとびたつて、さっそく、いちばん、せのたかい、大きな赤い花にむかってとんでゆきました。
子どもミツバチは、その花にとまるとすぐに花のなかにかおをいれて、あまいミツをすいはじめました。
おかあさんミツバチは、そんな子どもミツバチのすがたをみて安心すると、自分もとびたって、どこかへとんでゆきました。
せのたかい、大きな赤い花のなかでいっしょうけんめい、ミツをすっていた子どもミツバチはやがて、おなかがいっぱいになって、もう、いいや、とおもうと、ミツをいっぱい口にいれたまま、もと、いた、花のほうにかえってゆきました。
子どもミツバチが、もと、いた、花にかえってみると、そこには、おかあさんミツバチのすがたがありませんでした。
あれっ、おかあさんは、どこへいってしまったんだろう。
子どもミツバチはしんぱいになって、キョロキョロ、あたりをさがしてみました。
それでも、おかあさんミツバチのすがたは、どこにもみえませんでした。
子どもミツバチは、じぶんがひとりぼっちになってしまったのかとおもい、しんぱいになり、大きく羽をふっておとをたて、おかあさんをよびました。
すると、おかあさんミツバチは、せのたかい、大きな花のいっぱいさいている、その花の、ねもとのほうからとびたってきました。
「ああ、よかった。ボク、おかあさんが、どっかへいっちゃったのかと思ってドキドキしたよ」
子どもミツバチは、ようやくあんしんして、おかあさんミツバチにいいました。
「そう。おかあさんはね、あの白い花のミツをあつめていたのよ」
と、おかあさんミツバチは、じめんにちかい、ひくいところでいっぱいに咲いている、小さな花を見ていいました。
「なあんだ、そうだったのか」
子どもミツバチは、ようやく、あんしんしていいました。
「でも、どうして、あんなちっちゃな花のミツなんかあつめていたの。こっちの大きな花のほうが、いっぱいミツがあって、うんとあまいのに」
子どもミツバチは、ふしぎにおもっておかあさんにいいました。
「そうね。そうかもしれないわね」
おかあさんミツバチはいいました。
でも、それいじょうのことはいいませんでした。
つぎの日は、あめがふって、ミツバチの母子は、ミツをあつめにゆけませんでした。
つぎの日もまた、あめがふって、それに、かぜもつよくふいてきて、ミツバチの母子は、じぶんたちがとばされないようにすることだけで、ほかには、なにもすることができませんでした。
子どもミツバチは、おかあさんミツバチのそばでじっとしていて、あの、赤い大きな花のミツが、あまくておいしかったことや、のはらのけしきのきれいだったことなどをおもいだしながら、はやく、あめがやまないかなあ、とかんがえていました。そして、
「なかなか、あめがやまないねえ」
と、おかあさんにいいました。
すると、おかあさんは、
「そうね。でも、あしたはきっと、やんで、のはらへもゆけるとおもうわ」
と、いいました。
つぎの日は、おかあさんミツバチがいったように、あめがやんで、きれいなあおぞらの、きもちのいいお天気になりました。
母子ミツバチは三日ぶりに、す、のそとへでて、ミツをあつめに、のはらへむかいました。
でも、子どもミツバチはのはらへきて、びっくりしてしまいました。
あんなにきれいに咲いていた、赤い大きな花がぜんぶ、じめんにたおされていて、どろだらけになっているので、とても、ミツをすうことなんかできませんでした。
子どもミツバチはそれを見て、かなしくなり、いまにもなきそうになって、
「もう、ミツは、すえないの」
と、おかあさんミツバチにききました。
すると、おかあさんミツバチは、
「そうね、あの大きな花は、もう、むりかもしれないわねえ」
と、力のない声でいいました。
「じゃぁ、ぼくたち、ミツあつめはもぅ、できないの ?」
子どもミツバチはかなしくなって、おかあさんミツバチにききました。
「でも、だいじょうぶよ。ほら、地面のうえを見てごらんなさい。白い小さな花がいっぱい咲いているでしょう。このまえ、おかあさんがミツをあつめていた花よ。あの花なら、あつめられるわ。ほら、ないてなんかいないで、はやくいってミツをあつめましょう。大きな花のようにあまいミツではないかもしれないけど、だいじょうぶよ」
おかあさんは、子どもミツバチのおしりをおすようにしていいました。
「うん。すこしぐらい、あまくなくてもいいよ。ボク、あつめてくる」
子どもミツバチはそういうと、おかあさんミツバチのことばにはげまされたように、元気よくとびたってゆきました。
おかあさんミツバチも、子どもミツバチのあとにつづいて、とんできました。
子どもミツバチはおかあさんミツバチがついたときにはもう、じめんの近くで咲いている、白い小さな花のミツをいっしょうけんめいすってあつめていました。
おかあさんミツバチは、そんな子どもミツバチのそばにゆくと、
「これからも、こんなことはよくあるから、しっかり、おぼえておくのよ。ふだんは、めだたないところにある小さなものでも、みんな、たいせつな、なにかしらの役目をもっているんだから、けっして、そまつにしてはいけないってね」
と、いいました。
「うん、そうだね。このちっちゃな花でも、こまっているぼくらをたすけてくれるんだもんね」
「そうよ。どんな小さなものでも、小さいからだめ、めだたないからきらい、なんて言ってはいけないわね」
おかあさんミツバチはいいました。
「そうだね。おっきなものでも、ちっちゃなものでも、みんなに、みんなのやくめがあるんだよね」
「そうよ。あなただって、おかあさんみたいに大きくはないけど、こうして、ちゃんとミツをあつめて、おかさんをてつだってくれているでしょう。だから、おかさんは、とても、たすかっているのよ」
おかあさんミツバチはいいました。
「ボクはまだ、ちっちゃいけど、ちゃんと、おてつだいができるもんね」
子どもミツバチはいいました。
「そうよ」
おかさんはいいました。
子どもミツバチは、おかあさんミツバチのその言葉をきいてうれしくなり、もっといっぱい、ミツをあつめようと思い、また、べつのちいさな白い花にむかってとんでゆきました。
完
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桂連様
有難う御座います
今回も童話です
ヒガンバナ
前回 白い霧の夜 で現実の不気味さ
現実とは 一寸先も見通す事の出来ないものだ
という主題の下 眼の前の見通せない霧に託して
現実の不気味さ 怖さを書いてみたものですから
ヒガンバナではメルヘンをと思い書いてみました
二 三 童話を続けたいと思っています
新作 拝見しました
良い御文章です 実際に経験した者でなくては書けないと思います
言葉を感じるーー面白いです
過剰に意識しない
教わった言葉は忘れる 本当の知識ではない
本質だと思います
ブロークンでもなんでも 使って覚える それが大事
そう 聞いた事があります
学生時代の知識 学習が日常化になる事はない その通りだと思います
よく 職場で 就職した学生達は改めて教え込まなければ
何も出来ない、という言葉を聞きます
耳学問は なんの役にもたたない という事だと思います
身に付く学習 感じ取ったものこそ 本物の知識だと
常々 思っています
このブログの中でも何度か 同じ趣旨の言葉を書いています
冒頭の写真 良い写真です
何故か お写真の中にホット 心のくつろぎを感じ取る瞬間を
覚えるのです 何故だか分かりません
多分 日常の何気ない一コマの瞬間を写し取った
飾りのない写真である という事に通じているのかも知れません
いずれにしても これも感覚の問題で 理屈や知識の問題ではない
と思うのです
何時も素晴らしい御文章や お写真 有難う御座います
御礼申し上げます
takeziisan様
何時もながらに お眼をお通し戴き 有難う御座います
御礼申し上げます
なんと 移り変わる季節の速いことか !
暑い 暑い と言ってる間に もう彼岸花の季節
道端にこの花の見られる環境 羨ましく思います
それにしも 畑の雑草 何時もながらに驚きです
畑仕事の大変さが偲ばれます 年齢と共に増す 身体への負担
想像出来ます
尾瀬は何時見てもいいですね あの景色 心が洗われます
ショウジョウバッタ 多分 これだと思うのですが
わが家でも何処から来るのか 似たような小さなバッタが
植木の葉や月下美人の葉などにしばしば見られます
葉を食い荒らされてはと思い 駆除するのですが まるで湧き出るがごとく
次から次へと生まれて来ます 本当に 何処から来るのかと思います
わが家でも月下美人 三度目の開花が終わりました
それにしても当地では 蝉の声が聞かれなくなりました
二 三年前までは アブラゼミ ヒグラシなど 数は多くはなかったのですが
死骸も見つかったりしました でも 今年はゼロです
大きな道路を隔てて ほんの百メートル程先には
それなりに大きな公園もあり 樹木も生繁っているのですが
不純な天候のせいか 温暖化のせいなのでしょうか ?
今回も美しい写真の数々 楽しませて戴きました
束の間の心地良い 息抜きの時間です
有難う御座います