愚者と賢者(2019.2.24日作)
賢者は頭を垂れる
愚者は威を張る
稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな
かき寄せる水は 腕の中から 逃げてゆく
押し出す水は 戻って来る
大津波
一度は引く潮
引いた水は再び戻り
押し寄せる
頭を垂れれば
風は頭上を過ぎてゆく
頭を高く威を張れば
風がまとも吹き付ける
影のない足音(4)
深夜の街は車が渋滞する程の混雑もなく、信号以外では停車する事もなかった。
車が住宅街に入ったのが分かった。
「ここは何処かなあ?」
わたしは周囲に樹木が多い通りを見廻して言った。
「目白ですよ。椿山荘の近くですよ」
十数メートル程前方を走っていた車が速度を落とし、停まった。
「あっ、停まりましたね」
前の車に習って速度を落としていた運転手は言った。
「でも、ここで同じように停まるのはまずいなあ。ゆっくり、あの前の方へ行ってくれない ?」
「いいですよ」
わたしは前の座席の背凭れに張り付くようにして、五千円札一枚を運転手に渡した。
停まったタクシーの横を通過する時、ちょうど女がタクシーを降りた。
女はゆっくりと側を通り過ぎる車を気にする様子はなかった。そのまま、少し後戻りをして行った。
「ここで停めてよ」
わたしは女の後姿を確認してから言った。
ドアが開けられると同時に、転がるようにして外へ出た。
女は寮のようにも見える、大きな建物の横の小道を曲がって行った。わたしがその角に達した時、女は、両側から鬱蒼として樹々の繁みが覆い被さる暗い道を歩いていた。
一直線の長い道だった。
黄ばんだ明かりの二本の外灯が灯っていた。コンクリートの塀や樹々がその明かりに浮き出て見えた。
女の、ハイヒールで路上を踏みしめる足音が、規則正しく暗い小道に響いた。わたしは猫のように足音を殺しながら、女の後を追った。
午前三時に近い深夜の小道に、人の行き交いはなかった。二百メートルはあるかと思われる小道の前方は三叉路になっている。
わたしは身を隠す物のない場所で、コンクリートの塀に体を押し付けるようにして歩いた。
女はその間、一度も後ろを振り返る事はなかった。三叉路まで行くと左へ曲がった。わたしの視界から女の姿が消えた。
わたしは女を見失う事を危惧した。足音を忍ばせながら小走りに走って、女の後を追った。
わたしが女の曲がった三叉路まで来た時、だが、女の姿は既に見えなくなっていた。大きな屋敷の並ぶ通りが、外灯の明かりに照らし出されて、ひっそりと静まり返っていた。
女がどの家に入ったのか、皆目、見当が付かなかった。わたしは、まだ、その気配が残っているかも知れない家を探して歩いた。女が入った家には明かりが付くに違いない。
暫くは、樹木に覆われた家々のあちらこちらに注意を凝らしながら、何度も同じ道を行ったり来たりした。しかし、いつまで経っても、どの家にも明かりの付く気配なかった。
わたしは痺れを切らして諦めた。せっかくここまで来たのにと思うと、諦め切れないものがあったが、軽い疲労感と共に、そこを立ち去る気になった。
一先ず、一息入れるためにタバコを取り出して、一本を抜き取り、口元に運び、火を点けた。それから、先程来た道を戻り始めた。大よそでも、女の住む場所の見当が付けられた事で、収穫はあった、と自分を慰めた。
---虚を衝かれた思いだった。わたしは思わず振り返った。暗い通りを見透かすようにして見詰めた。
ーーー気のせいだったのか ?
人通りもないと思っていた小道に、突然、自分の背後に人の足音を聞いたように思って、狼狽したのだった。
わたしの振り返った見通しの良い小道にはだが、足音を立てるような人影はなかった。
わたしは気を取り直して、また、歩き始めた。
女の後を付けたりしたので、良心が咎めてびくびくしているのだーー、自分の臆病さを笑うような気持ちで思った。
だが、そう思った次の瞬間、早くもわたしは神経を研ぎ澄ましていた。
わたしの足音とは違うもう一つの足音が、確かにこの小道の何処かでしている。
わたしは緊張感で体を堅くした。そして、もう一度、背後を振り返った。
人の隠れる場所など何処にもない小道には、やはり、人影はなかった。
「誰だ ! 出て来いよ」
わたしは闇に向かって叫んだ。
誰かがいるのかいないのか、確かめてみたかった。
だが、外灯の明かりと闇が交錯する深夜の小道には、それに応えて姿を現す人の影はなかった。ものみな総てが息をひそめたような静寂(しじま)が辺りを領しているだけだった。
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深夜に聞いたと思った足音が、実際にはなんであったのか、結局は分からずじまいであった。
あるいは、わたしの思い過ごしによる、空耳であったのかも知れない。
わたしの身辺にも、格別に変わった事は起こらなかった。
わたしはそれ以降も、毎週、土曜日になると「蛾」へ足を運んだ。女を待つためだった。