遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 230 小説 影のない足音 他 愚者と賢者

2019-02-24 11:08:45 | 日記

          愚者と賢者(2019.2.24日作)

 

   賢者は頭を垂れる

   愚者は威を張る

   稔るほど 頭を垂れる 稲穂かな

   かき寄せる水は 腕の中から 逃げてゆく

   押し出す水は 戻って来る

   大津波

   一度は引く潮

   引いた水は再び戻り

   押し寄せる

   頭を垂れれば 

   風は頭上を過ぎてゆく

   頭を高く威を張れば

   風がまとも吹き付ける

 

 

          影のない足音(4)

 

 

 深夜の街は車が渋滞する程の混雑もなく、信号以外では停車する事もなかった。

 車が住宅街に入ったのが分かった。

「ここは何処かなあ?」

 わたしは周囲に樹木が多い通りを見廻して言った。

「目白ですよ。椿山荘の近くですよ」

 十数メートル程前方を走っていた車が速度を落とし、停まった。

「あっ、停まりましたね」

 前の車に習って速度を落としていた運転手は言った。

「でも、ここで同じように停まるのはまずいなあ。ゆっくり、あの前の方へ行ってくれない ?」

「いいですよ」

 わたしは前の座席の背凭れに張り付くようにして、五千円札一枚を運転手に渡した。

 停まったタクシーの横を通過する時、ちょうど女がタクシーを降りた。

 女はゆっくりと側を通り過ぎる車を気にする様子はなかった。そのまま、少し後戻りをして行った。

「ここで停めてよ」

 わたしは女の後姿を確認してから言った。

 ドアが開けられると同時に、転がるようにして外へ出た。

 女は寮のようにも見える、大きな建物の横の小道を曲がって行った。わたしがその角に達した時、女は、両側から鬱蒼として樹々の繁みが覆い被さる暗い道を歩いていた。

 一直線の長い道だった。

 黄ばんだ明かりの二本の外灯が灯っていた。コンクリートの塀や樹々がその明かりに浮き出て見えた。

 女の、ハイヒールで路上を踏みしめる足音が、規則正しく暗い小道に響いた。わたしは猫のように足音を殺しながら、女の後を追った。

 午前三時に近い深夜の小道に、人の行き交いはなかった。二百メートルはあるかと思われる小道の前方は三叉路になっている。

 わたしは身を隠す物のない場所で、コンクリートの塀に体を押し付けるようにして歩いた。

 女はその間、一度も後ろを振り返る事はなかった。三叉路まで行くと左へ曲がった。わたしの視界から女の姿が消えた。

 わたしは女を見失う事を危惧した。足音を忍ばせながら小走りに走って、女の後を追った。

 わたしが女の曲がった三叉路まで来た時、だが、女の姿は既に見えなくなっていた。大きな屋敷の並ぶ通りが、外灯の明かりに照らし出されて、ひっそりと静まり返っていた。

 女がどの家に入ったのか、皆目、見当が付かなかった。わたしは、まだ、その気配が残っているかも知れない家を探して歩いた。女が入った家には明かりが付くに違いない。

 暫くは、樹木に覆われた家々のあちらこちらに注意を凝らしながら、何度も同じ道を行ったり来たりした。しかし、いつまで経っても、どの家にも明かりの付く気配なかった。

 わたしは痺れを切らして諦めた。せっかくここまで来たのにと思うと、諦め切れないものがあったが、軽い疲労感と共に、そこを立ち去る気になった。

 一先ず、一息入れるためにタバコを取り出して、一本を抜き取り、口元に運び、火を点けた。それから、先程来た道を戻り始めた。大よそでも、女の住む場所の見当が付けられた事で、収穫はあった、と自分を慰めた。

 ---虚を衝かれた思いだった。わたしは思わず振り返った。暗い通りを見透かすようにして見詰めた。

 ーーー気のせいだったのか ?

 人通りもないと思っていた小道に、突然、自分の背後に人の足音を聞いたように思って、狼狽したのだった。

 わたしの振り返った見通しの良い小道にはだが、足音を立てるような人影はなかった。

 わたしは気を取り直して、また、歩き始めた。

 女の後を付けたりしたので、良心が咎めてびくびくしているのだーー、自分の臆病さを笑うような気持ちで思った。

 だが、そう思った次の瞬間、早くもわたしは神経を研ぎ澄ましていた。

 わたしの足音とは違うもう一つの足音が、確かにこの小道の何処かでしている。

 わたしは緊張感で体を堅くした。そして、もう一度、背後を振り返った。

 人の隠れる場所など何処にもない小道には、やはり、人影はなかった。

「誰だ ! 出て来いよ」

 わたしは闇に向かって叫んだ。

 誰かがいるのかいないのか、確かめてみたかった。

 だが、外灯の明かりと闇が交錯する深夜の小道には、それに応えて姿を現す人の影はなかった。ものみな総てが息をひそめたような静寂(しじま)が辺りを領しているだけだった。

 

          -----

 

 深夜に聞いたと思った足音が、実際にはなんであったのか、結局は分からずじまいであった。

 あるいは、わたしの思い過ごしによる、空耳であったのかも知れない。

 わたしの身辺にも、格別に変わった事は起こらなかった。

 わたしはそれ以降も、毎週、土曜日になると「蛾」へ足を運んだ。女を待つためだった。

  


遺す言葉 229 小説 影のない足音 他 雑感七題

2019-02-17 11:52:19 | 日記

          雑感 七題(2018.10-2019.Ⅰ月作)

 

  Ⅰ  文明的差異はあっても 文化的差異はない

     アフリカにはアフリカの 日本には日本の

     その地域特有の気候風土 あるいは

     時代に根差した文化があるだけで

     それに差異を付ける事は出来ない

  2  文明は人間社会に於ける縦軸であり

     文化は文明という縦軸を中心にして

     横に広がる横軸だ

     横軸が小さくなる程 文明は衰退する

  3  文明の発達と共に 人間はますます孤独になってゆくだろう

     何故なら 文明の発達と共に 人間の欲望は肥大化してゆくだろうから

     欲望は他者との距離を遠ざける 

     欲望とは心の内にあり 人それぞれが各個人である以上

     真に他者の心の内を理解するのは不可能だからだ

  4  真に理解した人は 寡黙だ 一言で表現し 真理に到達する

     自信のない人間は饒舌だ 装飾し 回り道をする

     真理を掴み得ていないからだ

  5  本物は苦闘の中でのみ生まれる

     苦闘のない所に本物はない

     人生は苦闘の道だ 

     借り物を生きれば人生は楽だ

  6  人にはそれぞれに生きて来た人生への思いがある

     それは決して他者には理解する事の出来ないものであり

     それがどのような人生であれ 他者が笑う事は出来ない

  7  小さなものに眼を向けよう

     静かな日常の中にも人生の滋味は

     豊かに隠されている

     華やかさばかりが人生ではない

     ひつそりと静かに生きるのもまた

     豊かな人生だ

     

 

          影のない足音(3)

 

 

 女は背中を向けて帰りの身支度をしていた。わたしの腕時計の針が、サイドテーブルにあるスタンドの淡い光りを受け、二時十分近くにあるのが見えた。

「これから帰るのかい ?」

 わたしは体を動かさずに聞いた。

 女は、わたしがこの前と同じように眠っていると思っていたらしかった。わたしの声を聞くと途端に、不意を突かれたかのように体を堅くした。

 それでも女の立ち直りは速かった。狼狽する気配はまったく見せずに背中を向けたままで、グリーンのざっくりした布地のスーツに腕を通した。ほっそりした華奢な背中だった。わたしの手の中には、まだその感触が残っていた。

 身支度の終わった女は、すぐにハンドバックを手にして中を探った。わたしの方を振り返ると、

「素敵な夜を過ごさせて戴いたお礼だわ」

 と言って、再び、二枚の一万円札をテーブルの上に置いた。

 女はわたしと視線を合わせようとはしなかった。

 わたしはベッドに横たわったまま黙っていた。

 女はわたしに背中を向けると、ドアの方へ歩いた。

 なんの未練も残さない、きれいな歩き方だった。

「今度はいつ、会って貰えるのかなあ」

 わたしは右腕で頭を支え、横向きの姿勢で女の背後から、やや皮肉を込めて声を掛けた。

 女はドアの前で足を止めた。

「分からないわ」

 振り向きもせずに言った。迷いのない声だった。それでも、わたしを拒絶するような強い響きはなかった。

「おれ、また、あのバーにいるから」

 女は答えなかった。黙ってドアを開け、出て行った。

 わたしはベッドの上で仰向けに転がると天井を見つめた。なんとなく、忌々しい思いがあったが、それだけでは女を憎みきれない気がした。

 いったい、あいつは、どんな女なんだろう・・・・?

 どことなく落ち着いた様子は人妻のようでもあったが、実際には、そのようには見えなかった。

 あるいは、何かの仕事をしているのだろうか ?

 それ以上の想像は出来なかった。

 わたしは、ふと思い付くと、ベッドからとび下りた。女の後をつけてみよう・・・・・

 手早く身支度を整えると部屋を出た。

 女がホテルを出たとしても、まだ間もないはずだ。急げば女がタクシーをつかまえるまでに間に合うだろう・・・・・

 外に出るとすぐに、女が深夜の路上を、大通りへ向かって歩いて行く遠い姿を見つける事が出来た。

 わたしは足音を殺して後を追いながら、五、六十メートル程の距離を保って歩いた。

 女は大通りへ出るとタクシーに向かって手を上げた。

 タクシーは一台、二台と通過して行った。

 わたしは別のホテルの塀に体を貼り付けて、女に気付かれないようにした。

 ようやく何台目かのタクシーが女の前に停まった。

 女を乗せたタクシーが走り去ると、わたしは大通りへ向かって走った。女を見失いたくなかった。

 女がタクシーを拾った場所まで来ると、ネオンサインや街灯の明かりの中に、女を乗せた黄色い車が遠ざかって行くのが見えた。

 わたしは走ってその後を追いながら、空車のタクシーが来るのを待った。

 女を乗せたタクシーはその間に、どんどん小さくなって行った。見失ってしまうかと思われた時、信号が赤に変わって女の乗ったタクシーが停まった。

 わたしはなお走り続けながら後ろを振り向き振り向き、タクシーの空車を探した。

 信号が青に変わる寸前に、ようやく一台の空車をつかまえる事が出来た。

「あの黄色いタクシーの後を付けてくれない ? 礼はするよ」

 わたしは息を切らしながら言った。

「左端にいる車ですか ?」

 初老の運転手は言った。

「そう」

 車が何処をどう走っているのか、新宿以外の街を知らないわたしには分からなかった。

「お客さんは座席に横になって、体を隠して下さいよ」

 運転手は前の車に視線を向けたまま言った。

 わたしは座席に深く体を沈めて、かすかに前方の車が見られるようにした。

 運転手は物馴れた様子で、車が混み合う時には自分の車を、女の乗ったタクシーのすぐそばまで近付けて行った。わたしの方が気付かれてしまうのではないか、と心配した。

 信号灯の下で真後ろに付けた時、運転手は言った。

「彼女ですか ?」

「いや、違う」

 運転手はそれで何を思ったのか、あとは何も言わなかった。

 

 


遺す言葉 228 小説 影のない足音 他 歌謡詞 雨の孤独

2019-02-10 12:25:35 | 日記

          雨の孤独(2019.1.25日作)

 

   雨の日は 心も暗い

   恋人よ あなたは来ないから

   一人聞く アダモの唄が辛い

   もしもこんな時 あなたに会えたなら

   力の限り抱き締め 離しはしないのに

   もう日が暮れる 夜が来る

   雨に滲んで ネオンが点る

   ーーーーー

   いつの日も あなたと二人

   幸せを夢見た あの頃に

   今はただ 涙が帰るばかり

   雨に暮れゆく 街角あの路地が

   虚しく愛の終わりを 教えるだけなのね

   もう再びは 帰らない 

   あんな幸せ 夢見た夜ごと

 

          ----------

 

 

          影のない足音(2)

 

 定職はなかった。バーテンダーの真似事やら、喫茶店のボーイ、キャバレーの呼び込みなどをして、その日暮しに日を送っていた。いわゆる悪(わる)ではなかったが、女たちとの関係は数知れずあった。水商売の女たち、あるいは今度の女のような行きずりの女たちと、その日の気分のままに、女たちを誘っては関係を続けていた。

 だが、わたしの方から女たちに入れ込む事はなかった。たいがいは、わたしの方から嫌気が差して別れていた。一年と続いた関係はまずなかった。飽きっぽいと言われればそれまでだったが、わたしの心のうちには、どこかに乾いた感情があって、それが女たちに対しても熱くさせなかった。

 女たちに対してばかりではなかった。日々、生きているという事自体にわたしは、微妙な違和感を抱いていた。生きる為の確かな芯が掴めていなかった。なんとなく心の奥底に不満があって、それがなんであるのかも分からないままに、その不満を払拭出来ないでいた。

 ---二度目に女に会ったのも、この前と同じバー「蛾」だった。新宿も外れの四ツ谷に近い場所にあったが、わたしの馴染みの店ではなかった。

 わたしはそれでも、例の出来事があった次の土曜日、女を待つつもりで、わざわざその店へ行った。

 女はしかし、来なかった。

「あの女は、よく来るのかい?」

 わたしは、この前のバーテンダーに何気なく聞いた。

「いえ、初めて見えた人ですね」

 二十歳を少し過ぎたぐらいに見えるバーテンダーは言った。

 それで、わたしはなんとなく、女はもう、この店には来ないのではないか、と推測した。金を置いてゆくという行為の中に、手切れ金の意味を含ませたーー、女の無言の意思が込められている気がしていたのだった。

 その夜、わたしが「蛾」へ行ったのも、また一つ顔馴染みの店が出来たぐらいの、単なる気まぐれからだった。女に会う事への期待など、気持ちの片隅にも持っていなかった。

 時間はキャバレーの呼び込みを済ませたあとで、十一時を過ぎていた。扉を開けた途端に女の姿が眼に入って、わたしは足を止めた。

 女はカウンターの一番奥まった席に一人、ポッネンとして座っていた。入り口に近い両端のカウンターには、若い男女の一組と、中年の男連れの一組がいた。

 女が顔を動かした気配はなかった。それでも女は、カウンターの奥の棚に並んだグラスや酒の瓶を映し出している鏡の中で、わたしを見ていたらしかった。わたしが真っ直ぐ女の背後に近付き、並んでスツールに腰を下ろしても顔色一つ変えなかった。

「今晩わ」

 わたしは言った。女の返事も待たずに、

「ずいぶん久し振りじゃない?」

 と、顔を覗き込むようにして続けた。

 女はわたしの顔を見ようともしなかった。

「そうでもないわ」

 と、冷ややかな横顔で言った。

「いらっしゃいませ」

 この前の若いバーテンダーではなかった。初めて見る顔の、三十歳ぐらいで穏やかな感じの、痩せぎすな男だった。

 わたしウイスキーを注文した。

 女の前にあるグラスには、空色をしたきれいなカクテルが三分の一ほど入っていた。

 わたしはせわしなくポケットからタバコを取り出して火を点けた。それから一気に煙りを吐き出して、

「ここへは、よく来ていたの?」

 と、指に挟んだタバコをくゆらせながら聞いた。

 女は黙っていた。

 バーテンダーがカウンターの上でグラスを滑らせ、わたしの前に置くとウイスキーを注(つ)いだ。

「この前、どうして帰ったの ? 眼を覚ましたら、あんたがいなくてびっくりした」

 女はそれでも黙ったままで、グラスを口に運んだ。

「二万円、有難く貰っておいたよ」

 わたしは皮肉を込めて言った。

「おれを悪だと思ったの ? それとも、おれを買ったのかな ?」

 わたしは更に皮肉っぽく、女を追い詰めた。

 女はなお、黙っていた。

「別に心配しなくても大丈夫さ。遊びなれてるから」

 女は腕の陰に置いてあったタバコの箱から、細く長い一本を取り出して、赤いマニキュアをしたきれいな指に挟んで唇に運んだ。

 わたしは百円ライターで火を点けてやった。

 店内では、若い男女の一組がいなくなっていた。中年の男連れと、わたしと女だけになっていた。

 いつの間にか看板の時間が来ていた。

 女の白い顔が酒気を帯びて、ほのかに上気していいるのが分かった。

 気付いた時には中年の男連れもいなくなっていた。

 約束をしたわけではなかった。それでも女は、わたしを嫌がる風ではなかった。わたしたちは連れ立ってバーを出た。

 女はタクシーの中で座席の背後に頭を持たせ掛け、眼をつぶった。

 ひどく静かな印象だった。

 女が自分から話し掛けて来る事はなかった。

 わたしには、女が何を考えているのか分からなかった。

 女はベッドの上でも、芯の溶け切れない堅さを残していた。

 

    ーーーーー      

 

 わたしはそのあと、少し眠ってしまったらしかった。眼をつぶり、女の様子を伺うつもりでいたものが、気が付いた時にはどれだけかの時間が過ぎていた。

 

 

 


遺す言葉 227 新宿物語(2) 影のない足音 他 この歌番組を御存知ですか

2019-02-03 10:55:27 | 日記

          この歌番組を御存知ですか(2019.1.30日作)

 

   BS日本 こころの歌

   このテレビ番組を御存知ですか

   毎週月曜日 BS四チャンネル

   午後七時より放送される

   五十分程の歌番組です

   クラシック系の男女十五人程の合唱団の人々が

   シンプルなドレスやダークスーツ姿で 直立不動

   ただ 歌を歌い継いでゆく

   それだけの番組です 余計な司会

   ナレーションも入りません 時折り

   短い解説が入るのみです それでいて

   思わず画面に引き込まれてしまうのは

   正確な日本語の発音 正確な曲の解釈による

   正確な歌唱が 作詞家 作曲家 その人達が

   心を込めて創った作品 その歌 歌の心を

   小細工なし 直に こちら 観る者 聴く者 の心に

   伝えて来るため だと思います

   日本語の美しさ その日本語に付けられた

   曲の美しさーー スポンサーによる

   広告も控え目で 好感が持てます

   かつて NHKが持っていた 当節のNHKには

   見る事の出来ない シンプルなたたずまい 清潔感

   落ち着いた雰囲気 歌 そのものが好きな方は

   魅了されると思います

   むろん こう書いたからといって 

   この番組 この局 このスポンサー この合唱団 とは

   なんの関係もありません 偶然 眼に 耳にした

   この番組に 心を動かされ 魅せられ その感動と共に

   ちょっと 誰かに話してみたかっただけの事です

   

 

 

          影のない足音

 

 

 雨の土曜日だった。午後十一時を過ぎていた。バーの中にはわたしの外に三、四組の客がいるだけだった。少し物憂い空気が二十脚程のスツールが並んだ、馬蹄形をしたカウンターを持つだけの店内に流れていた。すでにひと時の賑わいも失せて、バーテンダーもやや手持ち無沙汰そうにピーナッツを齧ったりなと゛していた。

 いつの間にか女が隣りに来ていた。わたしはまったく気付かなかった。

 女が何かの拍子に、わたしのウイスキーの入ったグラスを倒した。

 小さなグラスがカウンターの上を転がり、下に落ちて割れた。

「ごめんなさいーー。お酒、掛りませんでした?」

 女が狼狽したように腰を浮かせて言った。

 わたしは突然の出来事に、少し気分を害して女を見た。

「本当にごめんなさい。わたし、酔ってしまったみたいだわ」

 女は、スツールに掛けていたわたしの膝の辺りを気にして言った。

 バーテンダーは手早くカウンターの上に流れたウイスキーを拭き取った。

「ごめんなさい。わたし、グラスを弁償します。それからバーテンさん、この方にお酒を注(つ)いであげて下さい」

 ーーそれが切っ掛けだった。

     -----

 女は三十歳前後だった。細面の、上品な顔立ちをした、どこか育ちの良さといったものが感じられる雰囲気を身に付けていた。

 二人でバーを出るとタクシーで十分程の、新宿歌舞伎町裏のホテルに入った。

 女は初めからそのつもりだった。わたしが眼を覚ました時には、午前三時過ぎだったが、女はそばにいなかった。淡いピンクの照明がベッドの上の、女の頭のない枕だけを照らしていた。

 わたちしは慌てて飛び起きた。

 自分の持ち物を点検した。

 何もなくなってはいなかった。腕時計も、ズボンの尻ポケットに押し込んだ数枚の千円札も、そのままにあった。

 わたしは安堵してベッドに坐り込んだ。

 女が枕探しかと思ったのだが、そうではなかった。単に、行きずりの情事に煩わしい関係がからむのを恐れただけにしか過ぎないらしかった。

 それにしても、ちょっと、いい女だった、とわたしは思った。

 わたしは眼を凝らした。

 サイドテーブルの上のスタンドの下に、意味あり気に一枚の紙切れが挟まれていた。

 手に取ってみると、ボールペンの細いきれいな字で走り書きがしてあった。

 

" 素敵な夜をありがとう。お先に失礼します。お勘定は済んでいるので、どうぞ、ごゆっくり・・・・

枕の下を見て下さい。楽しい夜を過ごさせて戴いたお礼です。また、お会い出来る時を楽しみにしています "

 

 わたしはすぐに枕の下を見た。

 二つ折りにされた二枚の一万円札があった。

 わたしは手に取った。

 おれを買ったつもりでいやがるのか・・・・

 そう思うとなんとなく、侮辱されたようで腹が立った。

 わたしは二枚の一万円札をベッドの上に投げ出した。そのまま、ベッドの足元の方に頭を向けてひっくり返った。

 今度会ったら仕返しをそしてやる・・・・

 軽い腹立ちを覚えながら胸の奥で呟いた。

 

     -----

 

 二度目に女に会った時には、ひと月近くが過ぎていた。その間わたしは、新宿周辺の女の現れそうなバーやスナックを、あちこち探して歩き廻った。

 新宿はわたしに取っては、言わば、地元とも言える街だった。十九歳の頃から二十五歳の今日まで六年間、ほとんど新宿の夜の街で過ごして来た。

 

    続く