今を生きる(2019.5.15日作)
今を生きる
今を生きている事の
幸せを噛みしめ
一瞬一瞬の今を生きる
時は過ぎて逝く
人生は短い
若き日の宴の時は
束の間の幻
夏の日の蜃気楼
訪れの秋は速く
人の世の悲哀を運んで来る
今を生きる
今を生きている事の
一瞬一瞬の幸せを噛みしめて生きる
人生の終わり 冬の日は
すぐ隣り ほら そこにある
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(9)
前方に幽かな明るさがあるのはなんだろう ?
大木にはすぐにそれが、街を覆う霧が街灯の明かりに照らし出されて浮かび上がる白さだと分かった。その霧が光りの中で、煙りのように移動してゆくのが見えた。大木は自分がまた、元の街に戻って来ている事を知った。
大木はトンネルを抜け出すように、暗い廊下を小走りに走り抜けた。すると眼の前に一本の街灯が立っていた。霧はその明かりを中心に渦巻くように流れていた。
大木はまた、霧に濡れながら街の中を歩き始めた。
霧は先程より一層の濃度を加えて来ていた。建物の影を見る事も出来ない程になっていた。濃い霧の体積だけが大木を包んでいた。多分、この霧の濃さでは硫酸も一層に濃度を増しているに違いない。呼吸の困難さと共に、胸苦しさを覚える気がした。
不安な気持ちと共に大木は、俺はこの霧の中で、霧に巻かれて死んでしまうのだろうか、と考えた。
そんな不安に呼応するように眼の前の霧の中にぼんやりと浮かび上がって、青い光りが見えて来た。大木にはそれが人魂だという事は、先程の体験からすぐに理解出来た。しかもそれは先程来の経緯(いきさつ)からすれば、大木自身の魂に違いないのだ。それがどんどん大きくなって近付いて来る。大木は思わず恐怖に息を呑んだ。ーーだが、その瞬間、大木の眼にはっきりと見えて来たのは、「BAR 青い女」という、ネオンサインの青い文字だった。
大木は思わず安堵に胸を撫で下ろした。なんだ、俺はまた、「青い女」に戻って来ていたんだ。
その安心感と共に大木は、この霧の深い夜の中で俺は混乱して、どうにかしてしまっているんだ、と思った。
大木は取り敢えずの安心感と共に、とにかく、もう一度、「青い女」に戻って、後の事はそれからどうにかしようと考えた。霧の中をむやみに歩き廻ったおかげですっかり疲れ切っていた。
それにしても「青い女」では、あれ程みんなが大騒ぎをして帰りを急いでいたのに、まだ、誰か残っているんだろうか ?
或いは、チーフが居るのかも知れない。
大木はそう考えると馴れた足取りで地下への階段を降りて行った。
彫刻のある木製の重い扉は大木が押すと、いつものように訳もなく開いた。
中には平常通りに仄暗い照明があって、カウンターの向こうに背中を見せたホステスが一人、洗い物をしていた。
「ああ、ひどい霧だ。道が分からなくなってしまって、また、舞い戻って来たよ」
大木は馴れた店の気安さから、ホステスが誰かも分からないままに声を掛けた。
カウンターの中で背中を見せていたホステスが振り返った。
「いらっしゃいませ」
ホステスは大木を見ると微笑を浮かべて言った。
大木の知らないホステスだった。
「あれ、みんな帰ってしまったの。あなたは ?」
大木はびっくりして聞いた。
「みなさん、お帰りになりました。わたしはこんな夜なので、誰か道に迷った方がいらっしゃるのではないかと思って、お待ちしていたのです」
見知らぬホステスは言った。
「でも、いつからここで働くようになったの ? 初めてだけど」
大木は理解出来ないままに聞いた。
「はい、今夜は特別ですので」
「そうか、それにしても居てくれて良かった。新宿駅は分からないし、終電車も、もう出てしまっただろうから、途方に暮れるところだった」
「霧はますます深くなって来ますわ。ラジオではしきりに死者の状況を放送しています。街角という街角には死体が山積していて、都の衛生局では特務班を編成して死体の処理に当っているという事です」
「そうですか、それは知らなかった」
大木は驚いて言ったが、自分が今、見て来た光景は、妄想とか幻想の類いではなくて、あるいは死者の魂が呼び起こした現実ではなかったのか、とぞっとしながら考えた。
「今夜はこんな夜ですので、もう、お帰りになるのは無理ですわ」
ホステスは言った。
「そうだなあ。これじゃあ、とても帰れそうにない。今夜はここで一晩中飲み明かしといこうか」
大木は言った。
「そうですわ。でも、もう午前一時を過ぎていますから、営業は出来ませんので、わたしの部屋へ御案内致します。もう、洗い物も終わりますから」
「住まいは近いんですか」
「はい、すぐです。この霧の中でも御心配はいりませんわ」
この女は何歳ぐらいになるのだろう ? 大木は思った。 三十歳になっているのだろうか ?
淡い照明の中でも、どこか透き通るように白く見える女だった。
大木は取り敢えず入り口に近いスツールに腰を下ろして、女性の片付け物が済むのを待つ気になった。
ポケットから煙草を取り出し、ライターを擦った。
ライターは霧に濡れてしまったのか、重い音を立てるばかりで火が点かなかった。
「ちょっと、マッチを貸してくれない。霧の中を歩いて来て濡れてしまったのか、ライターが点かないんだ」
「あっ、御免なさい」
女は言って、手を拭きながら振り返るとマッチを手にして自分で擦った。
そのマッチも湿気っているのか、折れるばかりで火が付かなかった。
「こんな夜だから、みんな湿ってしまったんだ」
大木はくわえた煙草をしまうと言った。
「御免なさい」
女は言った。
「悪いけど、ちっょと電話を貸してくれないかな。心配するといけないから、家に電話をしておこう」
大木はスツールを下りると、入り口横の電話へ向かい受話器を取った。
ダイヤルを廻し、受話器を耳に当てるとしかし、そこからはなんの音も聞こえて来なかった。
「プラグは抜いてないよね」
大木は受話器を見詰めながら言った。
「はい、繋がっています」
「おかしいな、番号を間違えたのかなあ」
大木はもう一度、数字を確かめながらダイヤルを廻した。
やはり受話器に聞こえる音はなかった。
「電話も霧で故障をしてしまったんだろうか、何も聞こえない」
大木は言った。
女は洗い物も終えたのか、カウンターの中で大木を待っていた。
大木はその女を見ると何故とはなしに、突然の孤立感に捉われた。家族は無論、外の世界と大木を繋ぐものとが完全に遮断され、この見知らぬ女と二人だけ、霧の夜の中に閉じ込められた思いがした。
女はそんな大木の焦燥感を逸早く見抜いたのか、
「何も御心配いりませんわ。霧が晴れて明日になれば総てがまた、元通りになりますわ」
と言った。
" それは、そうかも知れない " 大木はそう思ったが、この夜が永遠に続いてゆくような不安な思いもまた、拭い切れなかった。
大木が体を硬くして電話機の前を離れると、女はカウンターをくぐり抜けて来た。
「ここに居ても仕方がありませんので、わたしの部屋へ参りましょうか。そうすればベッドもありますし、体を横たえて休む事も出来ますから」
女はそう言うと大木を導くように狭いフロアーのテーブルの間を歩いて奥へ向かった。女はそこで一つの壁を押した。
そこには出口があって、音もなくドアが開いた。