人が生きる時(2021.2.22日作)
人は 自分の他に
心を寄せる事の出来る 存在がある時
強く 生きられる それが
親や 兄弟であったり 恋人
夫婦であったり 或いは
芸能 芸術 スポーツ で あったり・・・・
人間 最も恐れる事は 心の孤独
何も 心の支えとなる 糧を
見い出し得ない時 人は
孤独の中で 最悪の事態 を
考える 人は
人 無くして 生きられない 人間存在
だが その存在は 絶対的 弧の存在
究極 人間 人は 自身に還る 自身の他
自身を支え得る 存在は 無い
自身の心 それが総て 総てを
支配する 自身の心 人の心 その 心を
如何に 繋ぎ得るか 人が
生きる上での 根本命題
人は 人の中で 生きる
人の中でこそ 生きられる
人 無くして 人は
生きられない
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蜃気楼(1)
五島明子が柚木正信と出会ったのは、短大卒業後、三塚レーヨンに入社して三年目を迎え、服飾デザイナー、滝川裕子のアシスタントのような仕事をするようになってからだった。当時、滝川裕子は三塚レーヨンの契約デザイナーの立場にいて、四半期毎に銀座のMデパートで三塚レーヨン素材による、女性物の作品発表会を開いていた。柚木正信はそのMデパート側の担当責任者だった。明子より八歳年上だった。
滝川裕子が行う四半期毎の作品発表会は一つの季節が終わるとすぐに、次の季節の準備に取り掛からなければない慌しさだった。素材選びから色柄の選定、スタイルの決定など、打ち合わせが頻繁に行われた。
その滝川裕子は五十歳代半ばで、デザイナー教室も経営していた。多忙な毎日を過ごしていた関係上、打ち合わせはいつも東京、赤坂にある滝川事務所で行われた。明子は滝川裕子の使い走りのような役割が多かったが、日本橋室町にある三塚レーヨン本社との行き来には仕事を急ぐ関係上、タクシーを利用する事が多かった。そして、そんな折りにはしばしば、Mデパートへの行き帰りの柚木正信と乗り合わせになる事も多々あった。
柚木正信は独身だった。癖のない人柄で、誰にも好感を持たれるような人当たりの柔らかさを持っていて、巧みな話術と共に人の気を逸らせるような所がなかった。明子はその柚木と同じタクシーに乗る事に苦痛を抱く事もなかった。
そんな二人が始めて夜の赤坂へ足を向けたのは、秋に発表する作品の打ち合わせが終わって、ホッと、肩の荷をを下ろした日の事だった。その日、明子は仕事が遅くなる事を前提に、帰りの支度をして会社を出ていた。打ち合わせが済んで、みんなが帰ったあと、滝川裕子に託された事務所の鍵を掛けて外へ出ると、帰路に着くため地下鉄の駅へ向かって歩いて行った。その時、不意に後ろから声を掛けられた。
「五島さん、何処まで帰るの ?」
不意の声に驚いて明子が振り返ると、傍に柚木正信が立っていた。
「ああ、誰かと思ってびっくりした」
明子はいつもの見馴れた柚木の姿に思わず安堵して、笑顔で言っていた。
「今、ちょっとお腹が空いたんで、何か食べてから帰ろうと思ってうろうろしていたら、五島さんの姿が見えたんで追い掛けて来たんです」
柚木は笑顔と共に言った。
「そうなんですか」
明子は納得して言った。
「何処まで帰るんですか ?」
柚木はまた言った。
「中野坂上です」
「地下鉄で ?」
「ええ、そうです」
「僕は小岩なんだけど、食事は済みました ? まず、腹ごしらえ、と思っていたところなんで、よかったら一緒に食べにゆきませんか ? 僕が奢りますよ」
柚木はなんの拘りもなく楽しげに言った。
明子自身もその時、これから帰っての夕食の支度をと思うと、ふと、億劫な思いになって来て、なんの拘りもない柚木の言い方に引き込食まれるように気持ちが傾いていた。
二人は近くの路地を入った所にある、ありふれたレストランに入った。
食事を済ませ、レストランを出た時には時計は、九時を過ぎた所を指していた。
柚木は明子とのなんの屈託も無い夕食のひと時にすっかり寛いでいる風で、これまでの時間をそのまま引き継ぐように、
「この近くに、以前、滝川先生に連れて行って貰ったバーがあるから行ってみない ?」
と言った。
明子はこの時、さすがに一瞬、ためらった。
「ええ、でも」
と言った。
「大丈夫、大丈夫。まだ九時を過ぎたばかりだもの。遅くなったら、僕が責任を持って送りますよ」
柚木は相変わらず親しい友達に対する時のように屈託なく言った。
バー「蜃気楼」は一ツ木通りにあった。
柚木正信は相当に飲める口らしかった。オン、ザ、ロックのグラスを幾ら重ねても少しも崩れる様子を見せなかった。頬を少し赤くして、さすがに少し饒舌にはなっていた。
だが、柚木の口にする話題は普段の人柄そのままに楽しかった。明子もその柚木に引き込まれるようにグラスを重ね、常にはない程のグラスを重ねていた。それでも、その雰囲気の楽しさの崩れる事はなかった。
バーを出た時には十一時半を過ぎていた。
「こんなに遅くなっちゃった。引き止めたりして御免なさい」
と柚木は言った。
「いいえ、わたしも楽しかったです」
明子は素直な気持ちを言った。
「中野でしたね。地下鉄では大変だから、タクシーで送りましょうか ?」
柚木は言った。
「いいえ、大丈夫です。地下鉄もまだ動いていると思いますから、地下鉄の駅までタクシーで行って」
明子は言った。
「そう、じゃあ、気を付けて」
そう言っている所へタクシーが来た。
柚木はその場に立ったままタクシーに乗った明子を見送った。
明子は滝川裕子が冬物の製作に取り掛かっている間、頻繁に滝川事務所には足を運んだ。
柚木正信とはあの夜以来、顔を合わせる機会がなかった。
だが、そうしている間にも、明子の気持ちは次第に深く滝川裕子の仕事に魅せられいって、柚木正信と会う機会のない事を苦痛に思う事もなく、会う機会のない柚木に思いを馳せる事もなかった。そして明子は何時か、自分もデザイナーに、という思いを抱くようになっていた。
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桂蓮様
いつも貴重な御意見 有難う御座います
桂蓮様にも お若い頃には大変な御苦労が
お有りだったのですね でも 苦労は人間を育てます
自分の経験した苦労を 苦労した分だけ
他人に押し付けるのではなく 思い遣りとして育てる
事が出来ましたら どんなに素晴らしい事でしょう
桂蓮様もかつての御苦労をどうぞ御主人様や
周囲の方々に思い遣りとしてお分け与え下さいませ
これからも一層 桂蓮様がお幸せであられますよう
願っております
「痛みが拓くドア」今回は辞書を引きながらの
英文と共に拝読しました いろいろ貴重な御体験
参考になります 病は気から と申します
気持ちが萎えてしまえば 治るものも治らなく
なります わたくしも薬には頼らない主義です
食事 身体を動かす それに睡眠 これが
とても大事な事だと 今になってつくづく
実感しています と共に 実行もしています
五年程前に大腸に癌が見つかり、切除しましたが
今は至って健康です 何処も悪い処はありません
それにしても冒頭のお写真 あの煙り
あれは自然のものですか それとも
加工されたものですか まるでバレーダンサーです
わたくしもバレーはオペラよりも好きで
テレビ放映がある限り見ています
アメリカのコロナ 改めて大変な事を実感致しました
これもトランプ氏の残した負の遺産でしょうか
日本でも一向に治まる気配がありません その中での
オリンピック問題 愚かだと思います 選手諸君には
気の毒だとは思いますが 今は全力で世界の人間の
命の救済に向かうべきではないのでしょうか
私の居る地区は川一つ隔てただけで東京に隣接
していますが 幸い大きな広がりはありません
お気遣い 有難う御座います
takeziisan様
有難う御座います
今回もいろいろ楽しく拝見させて戴きました
懐かしい事ばかりです
あの頃 何処でも同じようなものだったんだなあ
と思い出しています 予防注射
「オールド ブラック ジョー」「夜のタンゴ」
懐かしいですね 終戦後間もなく タンゴが一時
ブームでしたね
「早川真平とオルケスタ・ティピカ東京」そして藤沢蘭子
日比谷公会堂で公演があった時 まだ学生服だった
菅原洋一が 藤沢蘭子に
これからデビューする新人です
と言って紹介された事を今でも覚えています
ですが その菅原洋一もすっかり歳を取ってしまい
何時だったかのテレビで
倍賞千恵子と「わすれな草をあなたに」を
唄った時 音程がまるで外れてしまっていて
ビックリした事がありました その時は
当時を思い出して ああ菅原洋一も歳を取ったなあ
と思ったものでした
時の過ぎ行くのは速いものです
M男さんの日記 貴重な資料です
どうぞこれからも御大切にして下さい
いつも有難う御座います