遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 253 新宿物語5 ナイフ(2) 純愛 他 果てに 待つものは?

2019-07-27 17:36:46 | つぶやき
        果てに 待つものは?(2019.7.24日作)

   大地があり 山があり 海がある
   土を耕し 野菜を作り
   米を採る
   山に行き 木の実に山菜
   野生動物 鳥たち
   獲物を仕留め 糧とする
   海では 数知れない魚を捕り
   手にして帰る
   生きるという事 人の基本
   その因(もと) 
   すべてを自身の望み 努力で
   自身のものとする その事 その行為
   その事 その行為を可能にする
   その世界 その現実 それが
   この世の楽園 紛れもない 楽園
   そのものでなくて なんであろう ?
   何が豊かで 何が貧しいか ?
   人の生 人の命の基本を見つめ
   人の命の基本に還る
   人がこの世を生きる時 見えて来る
   そのものは ?
   何が豊かで 何が貧しいか ?
   人は人として 余りに遠く 歩いて来た
   再び戻る 再び帰る その出来ない
   人の道 一枚 一枚 また 一枚
   衣を重ね 身に纏い 着飾り 装い
   歩いて来た 人の道 遠い道 何が基本で
   何が大切 大事なのか ? 根本命題
   その命題 それを忘れた 虚栄に虚飾
   欲望渦巻く この世界 虚栄に虚飾
   欲望漲る 石の街 大都会 コンクリート ジャングル
   野菜もない 米もない 魚もいない
   獣の生きる 土もない 一枚 また 一枚
   虚栄を重ね 重ね 着飾る その中で
   募る欲望 虚栄に虚飾 それが真実 幸せ
   人の往く道なのか ? 漲り 溢れるもの
   巷に渦巻く あれやこれや あれもこれも
   数知れず 溢れ 漲る ものたち それらのものが
   真実 人が人として 生きる その道 本道に
   必要 不可欠 必需のものたちなのか ?
   虚栄に虚飾 欲望漲り 渦巻く 巷の道
   その道一筋 ひたすら人は 歩いて往く
   歩いて往く道 その道 巷の道 彼方
   遠い彼方の その果て遥か そこに
   待つものたちは いったい 
   何 ? 何が待って
   何がある 
 

         ----------


(3)
 新宿、渋谷、原宿などの繁華街を人込みに紛れてやみくもに歩き廻た。    
 疲れるとビルの巨大な壁に体を持たせかけて、眼の前を行き過ぎる人の群れを見つめていた。                            
 無為と空白の時間が流ていった。
 そんな時間の中で俊一はしかし、奇妙に優しい感情に包まれていた。街を行く人々の一つ一つの動きが、新鮮に生き生きとしたものとして眼に映って来て、自分という人間の魂が息を吹き返して来るかのような感覚に囚われていた。今まで見た事もないような世界がそこには広がっていた。
 俊一は軽い興奮状態のままに立ち上がるとビルの壁から離れ、再び、人込みの中に紛れ込んでいった。                         
 夜の更けるのも忘れて街の中を歩き廻った。               
 午前十時頃に家を出て、深夜十二時過ぎに帰宅する生活が一週間程続いた。
 母はそんな俊一の生活に不信を抱き始めていた。
「あなた、お友達の所へ行くって、毎日毎日、こんな時間まで何してるの ?」 
 ある夜、帰宅した俊一を玄関へ迎えに出て母は言った。
「何もしてないよ。話しをしていただけさ」
「何処のお友達なの ?」
「何処だっていいだろう。関係ないよ」
「予備校のお友達なの ?」
「うるせえな。関係ないって言っただろう」
 俊一は靴を脱いで上がると、邪険に母を押しのけて横を通り抜けようとした。
 母はそんな俊一の腕を掴もうとして振り払われながらも、言葉を続けた。
「関係ないっていう事はないでしょう。言ってみなさい。誰と何処で話していたのか。俊一 ! 舜一!」
 叫ぶように言う母の声を背後に、俊一は階段を上がって自分の部屋へ向かった。
「どうしたんだ」
 母に尋ねている父の声が聞こえた。
 その声はすぐに、俊一が閉めた部屋のドアに遮られて聞こえなくなった。
 翌朝、俊一は母と顔を合わせるのが厭で、朝食にも起きてゆかなかった。
 九時過ぎになって母が、俊一の部屋のドアをノックした。
「俊ちゃんねまだ寝ているの ? ご飯はどうするの。片付けちゃうわよ」
 母が鍵の掛かったドアを開けようとしている音が聞こえた。
 俊一はベッドから離れようとはしなかった。
 午後二時すぎになって起きた。
 誰にも気付かれないように足音を忍ばせて階段を下りた。
 母にも咲さんにも気付かれずに家を出る事が出来た。
 いつも通りに西荻窪駅から中央線に乗り、新宿駅へ向かった。
 だが、その日はいつものように晴れやかな気分にはなれなかった。解放感も湧いて来なかった。昨夜の母との諍いが、気持ちの中にわだかまりとして残っていた。
 俊一はその日の自分の行動を、全く覚えていなかった。闇雲に街の中を歩き廻っていた事だけが思い出された。

 父は俊一にはっきりした態度の決定を迫った。
「毎日、毎日、遊び歩いていて、もう勉強する気はないのか。大学へ行かないのなら行かないで、働く事を考えなければならない」
 父の厳しい口調の前でも俊一は口を閉ざしていた。
「二浪三浪する人間はざらにいるよ。おまえだけが試験に落ちたわけじゃない。やれば出来るんだっていう気持ちで、もう一度、やり直してみたらどうなんだ」
 俊一の気持ちの中で失われてしまったものは、それで戻って来る事はなかった。
 結局、俊一は家を出た。自分が幼い頃に貰ったお年玉や、入学祝金などを積み立てていた預金通帳には、それなりの金額が記載されていた。
 母に宛てて置き手紙を書いた。
" 大学へ行く事は止めました。一人で生活して自分の人生を考えてみたいと思い
ます。悪い道へ進む事はないので、心配しないでそっとして置いて下さい。気持ちが落ち着いて自分に自信が持てるようになったら、必ず連絡します "

 俊一が始めた初めての一人暮らしの拠点は、中野の古ぼけたアパートの四畳半だった。四日目には新宿西口駅近くのコンビニ店で、深夜営業の仕事に就く事が出来た。午後十時半から翌日朝、八時までの勤務時間だった。僅かばかりの残業代まで付いた。
 由美子との出会いはハンバーガーショップの店頭だった。決まった時刻に顔を出す俊一との間で、自ずと親しい会話が交わされるようになっていた。
 由美子は新大久保のアパートで独り暮らしをしていた。一日八時間以上を働き、時給千円が由美子の生活を支える全てだった。
「お父さんが女をつくったので、お母さんは家を出て行っちゃったの。わたしも女の所に入りびたりのお父さんが厭で、高校二年の時に家を出ちゃったっていうわけ」
 親しくなった時、由美子は別段、隠す事でもないかのように、そんな話しをした。
 実家は博多にあると言っていた。
「家を出てから一度も帰っていないわ。帰りたくもないし、連絡もしてない。妹が一人いるんだけど、おばあちゃんの所にいるみたい」
 由美子の勤務時間は、午前十一時から午後七時までだった。それでも一時間や二時間の超過勤務はざらにあった。一時間百円の超過手当てが支給された。
 俊一と由美子が顔を合わせる事が出来るのは、お互いの店先か、すれ違いの生活が生み出す、僅かに交叉する時間の内だけだった。二人はそれぞれの生活を引きずりながらも、そんな不自由な生活を不足に思う事もなく、すれ違いの生活がかえって、二人の関係を新鮮なままに保ってくれているような気さえしていた。
「あんた生まれは何処 。東京 ?」
 歌舞伎町裏の公園のベンチで、由美子はハンバーガを頬張りながら聞いた。
「うん」
「なんで一人暮らしをしているの ? お父さんとお母さんはいるんでしょう」
「まあね」
「家が面白くなかったから ?」
「そういう事かな」
「親なんかいい加減だもんね。自分勝手に人を産んで置いてさ。親孝行をしろとかなんとかさ。うるさい事ばかり言うんだもんね。子供には子供の権利もあるし、人生もあるよね」
 最初のキスは由美子が食べたハンバーガーの匂いがした。





遺す言葉 252 新宿物語5 ナイフ(2) 純愛 他 命の形

2019-07-21 11:39:16 | つぶやき
          命の形(2019.7.19日作)

   命の形って
   どんな形 ?
   キューピッドが矢で射る
   あの形 ?
   いやいや 違う あれは
   お話し お伽の世界
   現実 世の中 今いる世界
   命の形は 君自身 あなた自身 の 
   その姿 その形 君自身 あなた自身 が
   命の形 命 そのもの
   人それぞれ異なる 命の形
   持って生まれた 命の形
   今 生きている 君自身
   今 生きている あなた 自身
   それぞれ異なる その姿
   それぞれ異なる その形
   それぞれが それぞれ持ってる
   その形 その姿 それが君
   あなたの 
   命の形


         ----------

(2)

 そんな一家の良好な関係を一変させたのが、二度目の入試失敗だった。そして、その事で一番傷ついたのが俊一自身だった。
「仕方がない、もう一度、やり直すさ」
 父は比較的、恬淡としていた。
 母は父に比べてずっと深い落胆の色をみせた。
 それでも母は父の言葉を受けて、同じように俊一を励ました。
「焦らない事よ。一度や二度の失敗は誰にもあるんだから」
 一家に経済的不安はなかった。
 父も母も俊一が、さらに予備校通いを続ける事を苦にしなかった。
 俊一は自分の部屋で一人になると呟いた。
「うんざりだ !」
 再び、これまでと同じような息苦しい生活に戻ってゆく事を思うと、神経が耐えられない気がした。
 何が何処で、どうなってしまったのか、まるで分らなかった。自分でも自信を持って出した解答だった。それが何処かで違っていた。何が違っていたのか ?
 確実に言える事は、秀才と謳われ、人々の賞賛を欲しいままにしていた自分の頭脳も結局は、単なる凡才の頭脳でしかなかったという事実が、明白になったという事だけだった。かつて父は、現役でA大医学部をバスしたという。
 俊一は連日、虚脱状態の中で日を過ごした。何をする気力も湧かないままに、廃人のように日を過ごした。父を通して親近感を持っていたA大医学部も今では遠い、自分には係わりのない存在に思えて、彼方のものになっていた。
 三度目の入試を俊一は拒否した。
「僕にはA大医学部は無理だよ」
 そんな俊一に母は、
「無理な事はないわよ。高校の先生だって、予備校の先生だって、合格しないのが不思議だって言ってるぐらいなんだから。ちょっと運がなかったというだけの事よ。諦めちゃ駄目よ」
 と言った。
「運だけの問題じゃないさ。僕は中学や高校でもちやほやされて、己惚れていただけだよ。世間には、ぼくよりずっと頭のいい奴がいるんだよ」
 俊一は力なく言った。
「じゃあ、他の大学でも受けてみるか?」
 母の言葉を受けて父が言った。
「いわゆる、本番に弱いっていうやつだな。いざという時に、本当の力が出せないんだろう。、自分は大丈夫だって思ってやれば、なんとかなるさ。気持ちの持ち方一つだよ」
 父もまだ、諦めていなかった。
「でも、僕はもう、疲れちゃったよ。それに僕は医者には向いていないと思うんだ。医者という仕事にあまり興味も持てないし」
「じゃあ、何をしたいって言うの ? 高校時代からお医者さんになるために、一生懸命、勉強して来たんじゃない」
「だから、その事に疲れちゃったんだよ。僕には僕で、もっと他に、別の生き方があると思うんだ」
「どんな生き方があるって言うんだ ?」
 父は静かな中にも厳しさの滲む声で言った。
「それはまだ、分からないけど。ただ僕は、今のままの生活を続けていると、窒息してしまいそうな気がするんだ」
「苦しい時は誰にでもある。だからと言って、その度にそこから逃げていたんじゃ、結局、何も出来ない事になる」
 父は言った。
「逃げる訳じゃないけど、僕は、他の僕を探してみたいんだ。勉強、勉強の毎日ではなくて、少しだけ、自由な、僕の時間が欲しいんだ」
「あなたは二度の失敗で気が弱くなっていたるだけなのよ。自信を持たなければ駄目よ。まだ、新しい学期までには間がある事だし、少し旅行でもして、気休めをして来るといいわ」
 母は言った。
 俊一は答えなかった。
 自分の部屋で一人になると、俊一は考え込んだ。
 もし、自分が父の跡を継がなかったら、奈木医院はどうなるんだろう。
 現在六十二歳の父は、あと何年、今のような多忙な生活を続けてゆく事が出来るのだろうか。そして自分は、いったい、何がしたいのだろう ?
  父が築いた奈木医院に納まり、父の跡を継いでゆく事は、一番安易で、有利な生き方に思えた。医師になるには、難関で知られるA大医学部を出なければならない、というものでもない。自分の能力に見合った大学を探せばいい。要は、医師としての資格を得る事だった。それさえ出来れば父の跡を継ぐ事も不可能ではない。
 もう一度、気を取り直して初めから勉強し直してみてはどうなのか ?
 そこまで考え、自分に言い聞かせてはみたものの、それでも心の奥には、燃え上がり、たぎるものの生まれて来る事はなかった。
 疲れていた。ただ、疲れていた。心の中では完全に何かが断ち切れていた。打ちのめされた自信の中で、新たな思いにすがるように、医師になる事は兎も角として、奈木医院を経営する事だけに専念してはどうなのか、とも考えた。 
 だが、そうは考えてみても、気持ちの中で燃え上がるものの生まれて来る事はなかった。失われた自信の回復する事はなかった。
 俊一は連日、ベッドの中で、眠るとも醒めるともなく、うつらうつらとして過ごした。緊張の糸の途切れてしまった心に、これまでの張り詰めて過ごして来た月日が負債となって重く圧し掛かって来るかのようであった。
 母は最初の一週間程は、俊一の気持ちの回復を待つかのように、そんな日々の中でも、殊更に口を挟んで来る事はなかった。
「困った人ねえ」 
 笑顔で言って、見守るだけだった。
 父とは顔を合わせる事がなかった。俊一の方から避けていた。
 父は俊一に取って今では、重く厚い壁のような存在になっていた。
 父と母との間でその間、どのような会話が交わされていたのか、俊一には分からなかった。父は相変わらず多忙だった。
 一家が、俊一に係わる重い課題を抱え込みながらも、それなりに均衡を保った生活を続けていたのは、だが、それ程、長い期間ではなかった。俊一自身が、ベッドに横たわったままの無為に過ごす時間に、耐えられなくなっていたせいもあった。
 俊一は次第に、何かに追い立てられるような、取り留めのない焦燥感や、不安に苦しめられるようになっていた。じっとしていると、息が詰まるような感覚に囚われて、自分が自分でも分からない何かを仕出かしてしまいそうな気がして怯えた。
 渇きの中で水を求める人のように俊一は、外の空気を求めるようになっていた。そしてある日、心に圧し掛かる重圧を払いのけるようにして、街の中へ出て行った。





 

遺す言葉 251 新宿物5 ナイフ(2) 純愛 他 言葉の効力

2019-07-13 14:38:43 | つぶやき
          言葉の効力(2019.7.2日作)

   一つの容器に 容量以上の物を詰め込めば
   容器は破損する
   中身は何も残らない
   同じ容器に 容器に見合った物を入れれば
   容器に 破損はなく 
   内容物は 保持される
   人の言葉も同じ
   大声 怒声 を 含んだ言葉が そのまま
   それに見合った効果 効力 を 生むとは限らない
   時には 静かに 少ない言葉の語り掛けが 思いがけず
   人の心を打ち 人の心に
   染み込む 大声 怒声の言葉に勝る
   効果 効力 を 生む
   相手の立場 容器 容量 その 考慮も ないままに
   闇雲 無思慮 な 行為 行動 は
   何事に於いても
   優れた成果に結び付く事は ない

   人はそれぞれに矜持を持った存在
   相手の矜持を踏み躙る行為 行動 は
   百害あって一利なし


   ---------


 新宿物語(5)

       ナイフ(2) 純愛

(1)           1
 
ナイフは金物店のショーウインドーにあって、ひと際鮮やかな輝きを放っていた。
 奈木俊一は思わず足を止めてショーウインドーに近寄ると、ガラスケースに額を押し付け、その輝きに見入っていた。
 どれ程の時間、そうしていたのか、記憶がなかった。気が付いて慌ててショーウインドーを離れた時には、街は黄昏の中にあった。
 俊一はいつもの通り、駅へ向かって歩いた。心は完全にナイフに奪われたままだった。黄昏の街を忙しく行き交う人々の群れに体が触れ合っても気付かなかった。
" 見事なナイフだった "
 溜息と共に口の中で呟いた。
 新大久保の駅に着くと定期券で改札口を通り抜けた。
 ホームへ出て電車を待つ間も、ナイフの輝きは脳裡から消えなかった。
" いったい、あのナイフはいっからあのショーウインドーに飾られていたんだろう ?  "
 以前から飾られていたのなら、今日まで気が付かなかったのが不思議に思えた。毎日、あの店の前は通っていたのだ。ただ、金物店などには興味がなかっただけの事だった。今日の事にしても、あのショーウインドーを気にしていた訳ではなかった。視野の片隅に触れて来る小さな輝きがあって、何気なく視線を向けたその先に、あのナイフがあったというだけの事だった。
 見た目にもズシリとした重さを感じさせる、二匹の蛇が絡み合う彫刻の施された何かの骨で出来たのに違いない白い柄、開かれた刃のその濃い銀色の輝きの中に、薄っすらと浮かび上がる青みを帯びた鋼の波型模様、それらの美しさが渾然一体、一つになって俊一の心を捉えていた。刃渡り、おおよそ十五センチかと思われた。中央部に向かって山型にせり上がり、膨らみを見せてから、先端へ向かって一気に雪崩れ込むように絞られてゆくその形態の見事さは、たとえ様もなかった。しかも、柄と刃の接点には、そのナイフの眼のように、サファイアの輝きを見せて一つの石が組み込まれていた。ナイフはその石を押す事によって刃が飛び出す、飛び出しナイフだった。
 値段はいくらだったんだろう ?
 改めてその事に気付いて俊一はまた、口の中で呟いた。
 おそらく、高価なものに違いない、それだけは想像出来た。
 新宿駅へ向かう電車の中でも俊一はナイフの事を考え続けていた。
 新宿駅で電車を降りた。
 ホームの階段を降りて、いつものように東口へ向かった。        
 めまぐるしい程の人の流れの中を歩いて、地下街から階段を上がって地上に出た。新宿の街はすでにネオンサインの洪水の中にあった。
 俊一はいつものように、新宿通りの交差点を渡って、歌舞伎町に向かった。
 ビルの壁に見えるデジタル時計が午後五時四十分を示していた。
 
 由美子は帽子を被り、制服姿でハンバーガーショップのカウンターの向こうにいた。俊一を見ると、生真面目に引き締めていた顔をわずかにほころばせて、
「いらっしゃいませ」
 と言った。マニュアル通りの言葉を口にしただけにしか過ぎなかった。
 由美子はそのまま、俊一の注文を聞きもせずに奥へ向かった。
 すぐにコーラーとハンバーガーを二つ持って戻って来た。
 俊一は由美子の手からそれを受け取ると、いかにも嬉しい事があったという風に言った。
「おれ今日、凄いナイフを見付けちゃったよ」
「ナイフ ?」 
 由美子は意味が分からず、怪訝そうに聞き返した。
「うん」
「ナイフって、ナイフなんかどうすんの ?」
 由美子はやはり意味が飲み込めないように聞き返した。
「どうすんのって聞かれても困っちゃうけど」
「買ったの ?」
「買わないけど、とにかく凄いナイフなんだ」
 俊一は宝物でも見付けたかのように、恍惚とした表情で言って、ハンバーガーを口に運んだ。
 由美子は次の客に追われて俊一の前を離れて行った。
 俊一が二つのハンバーガーを食べ終わり、コーラを飲んでしまっても、由美子は戻って来なかった。次々に入って来る客の応対に忙しかった。
「今日は残業はどう ?」
 通りがかりの由美子に聞いた。
「あるみたいよ」
 由美子は言った。
「じゃあ、待ってても駄目だな」
 俊一は残念そうに言った。
「うん、駄目みたい」
 由美子は忙しく動きながら言った。
「じゃあな」
 俊一はそんな由美子を横目に見ながら声を掛けると店を出た。
 俊一が働く二十四時間営業のコンビニエンスストアーでは、夜十時からの勤務だった。まだ、三時間程の間があったが、今日は、パチンコ店ではなく、ゲームセンターへ行ってみようと考えた。                 
 二十歳になったばかりの若者を新宿の街は飽きさせなかった。あと二ヶ月程で十九歳になる、恋人とも言える存在の由美子がいて、俊一は今現在の生活に満足感と共に幸福感にも近い思いを抱いていた。

 奈木俊一が新宿で暮らすようになって、十一ヶ月が過ぎていた。家族の事、予備校の事、進学の事などは、すっかり忘れていた。思い出しもしなかった。思い出したくもなかった。将来がどうなるのか、今の俊一には分からなかった。それでもかまわなかった。ただ、今現在の生活を大切にして、満喫していたいと思うだけだった。誰からも、何からも束縛される事のない、開放感に満ちた自由な生活、今日まで知る事のなかった世界だった。勉強、勉強、勉強、中学、高校、と過ごして来た六年間、勉強漬けの毎日だった。中学校生活三年間を首席で通し、高校入試では受験生の中でも抜群の成績で、教師やクラスメートからの賞賛を浴びた。だが、そんな人々から受けるの賞賛の渦の中にいても俊一は、なぜか、奇妙な寂しさを感じ取っていた。人々の期待を一身に集め、その期待に応える為の人知れない努力と重圧、誰にも打ち明ける事の出来ない孤独感と苦悩を背負い込んだ毎日だった。             
 高校へ進学してからも俊一のその努力は変わらなかった。今度は新たな挑戦として、父が卒業したA大医学部を目差しての勉強が始まった。偏差値は優秀だった。高校の進学担当の教師は、俊一なら難関で知られるA大学医学部でも、現役でバス出来るだろう、とまで言った。俊一に挫折が訪れようなどとは誰も予想さえしなかった。
 父母や教師を始め、誰もが期待を寄せ、俊一自身もある程度の自信を持って望んだ入試はだが、残酷な結果に終わっていた。俊一自身、思わぬ結果に茫然とした。何が悪かったのか、何処に失敗の原因があったのか、よく分からなかった。だだ茫然として、途方にくれるのみだった。現実が足元から崩れ去ってしまったかのような思いの中で失意のどん底にいた。
 そんな俊一を立ち直らせたのは、やはり、父母や教師だった。その励ましの中で俊一は気を取り直し、再度、A大学医学部への挑戦を始めた。それだけの気力がその時の俊一にはまだ残っていた。父母や、四歳違いの妹の牧子も協力的で、殊に母は、腫れ物にでも触るかのように、俊一の生活に気を配った。
 息苦しいような日々が始まった。特に牧子は、好きなピアノの練習も出来なくなった。
「お兄ちゃんが頑張っているんだから、少しぐらいの不自由は我慢しなさい」 
 不満を漏らす牧子を叱って母は言った。
 テレビのスイッチは午後九時で切られた。
 居間で一家が揃って寛ぐ時間はなくなった。
 母は俊一に気遣って、好きな観劇や音楽会にも行かなくなった。
 遅い風呂に入るお手伝いの咲きさんは、ドアの開閉音や水音にも気を使った。
 父との接触は少なかった。
 四人の医師を抱えて病院を経営する父は、自身も診察に当りながら、経営にも気を配らなければならなかった。多忙な毎日だった。時折り、父と俊一の時間が交錯するような時には父は、
「どうだ、真面目に勉強しているか」
 と、軽い笑顔で俊一に話し掛けた。
「うん、なんとか」
 俊一も父の余裕に満ちた軽い笑顔に誘われるように、打ち解けた気持ちになっていた。
 

      

遺す言葉 250 新宿物語4 ナイフ(完) 他 歌謡詞 港の灯かり

2019-07-06 15:18:04 | つぶやき
          港の灯かり(2019.6.29日作)

   ハーバーライト 港の夜に
   遠くはるかに 瞬く灯かり
   あふれる涙 頬を濡らせば
   からめた指に ぬくもり通う
   愛の確かさ たしかめ合って
   歩きたいのよ 何処までも
   ハーバーライト 港の夜に
   遠くはるかに 瞬く灯かり

   -----

   ハーバーライト 港の灯かり
   永遠(とわ)に輝け 二人の愛に
   波止場に続く 小さな道に
   ほのかに匂う 花影白く
   名さえ知らずに 心を寄せる
   今ひとときの 夢の中
   ハーバーライト 港の灯かり
   永遠に輝け 二人の愛に


     ----------

(5)

 ゲームセンターで良次は、思わぬ長い時間を過ごしてしまった。外へ出た時には暗くなっていた。
 ゲームセンターでは長い時間、機械の騒音や、素速い光りの動きを見詰めていたせいか、頭の中が濁ったようになって疲れていた。光りの残像や、電子音の鋭く甲高い響きが眼や耳の奥にこびり付いたようになって、残っていた。
 街の中へ出て、当ても無く歩いていると、ゲームに夢中になり、一万円以上の金を使ってしまった事に、改めて後悔の思いが沸き起こった。一枚の一万円札と二、三枚の千円札五百円札が薄っぺらな感じで手の中に残っているだけだった。藤木幸造が当面の生活費として貸してくれた五万円のうちの、大部分をゲームセンターで使ってしまっていた訳だ。
 だが、それもそれ程、良次の気持ちを滅入らす事ではなかった。空腹感を覚えると共に、取り敢えず、何かを口にする事だけを考えた。
 昼間と同じようにマクドナルドへ行くと、二つのハンバーガとコーヒーを買い、若者達がたむろするコマ劇場前の広場へ行った。植え込みの縁に腰を下ろし、ハンバーガーを頬張り、コーヒーを飲んだ。
 空になったコーヒーの紙コップを手の中で握り潰し、放り捨てると初めて、ズボンのポケットに押し込まれているナイフを取り出して、見た。
 改めてナイフのずしりとした重みが心を充たし、満足感を横溢させた。    
 何かの骨で出来た柄のすべすべした感触が相変わらず心地よかった。
 深い陶酔感と共に、二匹の蛇の絡み合う彫刻をゆっくりと指でなぞった。
 刃は開いてみるまでの事はなかった。その見事な輝きは、すでに頭の中に充分に刻み込まれていた。良次は後生大事な宝物のように、再びナイフをズボンのポケットにしまった。
 広場には若い恋人同士や男女の群れが三々五々集い、笑い興じていた。
 コマ劇場では若手の人気女性歌手がショウを行っていた。
 歌手の顔が大きく書かれた華やかな絵看板が眼を引いた。良次にはだが、そんな事はどうでもよかった。
 良次は立ち上がると、当てもないままに、また歩き出した。
 一番街を靖国通りの方へ歩いて行った。
 靖国通りへ出ると、人込みの中で立ち止まった。
 眼の前で信号が青に変わった。良次はだが、信号を渡らずに左へ折れるとセントラルロードへ入って行った。                  
 セントラルロードを再び、コマ劇場の方へ歩いた。           " のぞき部屋 "という看板がやたらに眼に付いた。
" のぞき部屋 "って、なんだろう ?
 好奇心をそそられたが、入ってみようという気にはならなかった。
 良次の歩いて行く前方では、やたらに雑多な絵看板や、ネオンサインが派手な色彩の競演を繰り広げていた。                     
 路上では、何人かの若い男達が針金細工のようなアクセサリーを並べて売っていた。                               
 良次はそれらの光景をぼんやり見詰めながら、藤木幸造は、昨日まで自分が居たあの部屋へ行ったのだろうか、と考えた。今のこの時間でも、誰かがあの部屋で、俺の帰りを待っているのだろうか ? 
 部屋はいつもと変わらないままにして出て来た。帰ろうと思えば、いつでも帰れるのだ。
 だが、無論、良次には帰る気はなかった。藤木幸造への嫌悪感だけが強く胸に迫って来て、良次は吐き捨てたい気持ちになった。
 施しをすれば済むというもんじゃない !
 良次は煮えくり返るような嫌悪感と共に口に出して呟いた。
 また、いつの間にか、コマ劇場前に戻っていた。
 コマ劇場の斜め向かいの映画館に深夜営業のポルノ映画がかかっていた。それを眼にして良次は、先程、その事に気付かなかったのを不思議に思った。
 良次は所在のないままに、ふと、好奇心を抱くと、改めてその広告に見入った。
 扇情的な広告が良次の気持ちを煽った。息苦しさを覚えるのと共に、心が疼いた。看板を見詰めたまま、入ってみようか、どうしょうかと迷った。ポルノへのうぶな少年の羞恥心があった。しかし、それも胸の疼くような好奇心には勝てなかった。良次は映画館の前へ行くと、勇気をふるって窓口に近付いた。
 初めて見るポルノ映画はさすがに刺激的だった。最初の性交場面では耐え切れずに自分の手を添えると、ズボンの中で射精していた。
 そのあと、何度も繰り返される性交場面に良次は息を呑みながら見入った。
 二度目の射精には、最初の時ほどの耐えられないまでの昂ぶりはなかった。幾分かの余裕と共に、スクリーンの人物の動きに合わせていた。
 良次はその夜、三度射精した。二本の映画が終わる頃には、一日中歩き廻っていた疲れと共に、いつの間にかうとうとしていた。
 最終の上映が終わり、映画館を出た時には明け方になっていた。十月初旬の早朝の冷え込みが、心のうそ寒さと共に身に染みた。
 一番電車が出る時刻なのか、ぞろぞろと駅の方へ歩いて行く若者達の姿が眼に付いた。
 良次は、また昨日の牛丼屋へ行って飯を食おう、と考えた。

 食事のあと、良次は駅の方角へ向かって歩いた。
 駅前へ来ると、広場の植え込みを囲むコンクリートの縁に、何人かの若者達が所在なげに腰を降ろしているのが眼に入った。
 良次は近付いて行くと彼等と同じように腰を降ろした。なんとはない疲労感があった。駅前広場から見通せる新宿通りに焦点の定まらない視線を向けたまま、ぼんやりしていた。
 新宿通りは、昨夜の人込みが嘘でもあったかのように静まり返っていた。深閑としていて人通りもなかった。
 昨日ナイフを盗んだデパートの建物はどれなのか、林立するビルの間に探してみた。                               
 デパートの建物は、前景の建物に遮られて見る事が出来なかった。    
 諦めると良次は、改めて、ズボンのポケットの中のナイフに気持ちを向け、ナイフを取り出した。
 おおよそ十二、三センチかと思われる柄の、二匹の蛇の絡み合う彫刻が相変わらず見事だった。 
 柄の尻に定価が小さく貼り付けられてあるのに気付くと、慌ててはがした。
 様々に豪華品が並ぶ展示場の棚の上では、さほどにも思えなかったナイフだったが、改めて自分の手の上で見詰めて見ると、意外な程の重量感と共に、その華やかさに心を引かれた。そっと刃を開いて見ると、研ぎ澄まされた見事な白銀の輝きの中に、うっすらと浮かび上がる黒味を帯びたハガネの波型模様が不気味にさえ見えた。ナイフの鋭さがその波型模様によって一段と際立っているようだった。

 良次には思い出したくない記憶だった。ナイフの刃の白銀の輝きの中に浮かび上がる血の赤だった。義父を刺した時の記憶は、良次の胸の奥、深くに眠っていた。それが白銀の刃の輝きの中に鮮やかに浮かび上がって来た。
 良次は思わずその輝きから眼をそらした。
 俺が悪いんじゃない !                                 
 激しい嫌悪感と共に、口に出して呟いた。と同時に良次は、あの時はただ夢中で、恐怖心もためらいの気持ちもなかった事を改めて思い出した。逮捕された時にはむしろ、開放感のような晴れやかとも言えるような感覚に捉われていた。後悔の気持ちは欠けらもなかった。
 良次は今にして思う。あれは自分自身の強い意志による、初めての行動だった。
 事件のあと良次は、家庭裁判所と少年院での生活に不満を抱いた。良次を取り巻く総ての者達が、良次をそこへ追い込んだのだ、という思いだけが強かった。祖父母、母、義父、そしてずっと昔に別れた父。
 良次はただ、彼等の間で翻弄されて来た。良次の記憶に残るものと言えば、沼津の海に近い祖父母の古い家、養護施設、少年院の生活だけだった。
 良次自身が好んでそうして来た訳ではなかった。自分を取り巻く何かが勝手にそうしただけの事だった。
 良次は、自分の行動に責任を取る事は出来ても、自分をそんな行動に追い込んだ者達の責任まで取る事は出来ない、と思った。
 そう思うと良次は気持ちの落ち着きと共に、ようやく、ナイフをしまう気になった。刃を閉じたナイフをポケットに入れると立ち上がった。
 何処へ行くという当てもなかった。何かが勝手に俺を運んで行く、そんな思いだけが強かった。生きているという事の総てがどうでもいいように思えた。
 結局、人の運命なんて、自分の力ではどうにも出来ないのではないか。
 良次は、新宿通りをデパートの方へ歩いて行った。
 デパートが開店していない事は分かっていた。デパートへ行くつもりはなかった。
 地下鉄への入り口を見付けると降りて行った。
 最初の日に歩き廻った地下商店街がそこにあるのかと思った。
 商店街はなかった。
 向かい合った二つのデパートの地下一階への入り口が、シャッターを降ろしたままになっていた。地下街が動き出すにはまだ早いようだった。
 改札口には駅員の姿もなかった。また、地下道から地上への階段を上った。
 地上へ出てみたものの、やっぱり行く所はなかった。
 再び、明治通りと新宿通りの交差する角に立っていた。

 (6)

 何十分、何時間、良次はその角に立っていたのだろう。心に何もない人間は、永遠に一の場所に留まるより他に出来る事はないようだった。     
 気が付いた時には、良次の周囲には人の流れが出来ていた。       
 先程までは見る事の出来なかったバスも動き出していた。         
 良次は人々の流れの中で立ち尽くしている事の不自然さを感じ取っていた。人々の動きにはじき出されたようにその場を後にした。
 人波に押されるように良次は歩いた。歩きながら、この膨大な人の群れはいったい、何処へゆくのだろう、と考えた。それぞれの誰もが、目的を持って行動しているのだろうか。
 良次には、人々の誰もがそれぞれにはっきりとした目的を持って行動しているのが不思議に思えた。
 だが、彼等は多分、皆、それぞれに目的を持って行動しているに違いなかった。なぜなら、彼等の誰もがそれぞれに幸福そうで、生き生きとしいるように思えたからだった。良次のように浮かない顔をして当てもなく歩いているような人間は誰一人、いないようだった。
 良次は結局、また、歌舞伎町へ足を向けていた。
 歌舞伎町へ来るとゲームセンターへ入った。時間潰しに出来る事といったら、それぐらいしかなかった。
 コンピューターゲームの機械に向き合うとゲームに没頭した。
 心は醒め切ったままで熱くなれなかった。
 所持金の一万円を使い切る事だけに暗い情熱を燃やした。
 ゲームで使った金は八千円と少しだった。一万円を使い切る前に情熱をなくしていた。なんとなく、自分にはもっと他にやらなければならない事があるような気がして、落ち着けなかった。それがどんな事であるのかは、よく分からなかった。
 ゲームセンターを出た時には、それでも午後の二時になっていた。その足で牛丼屋へ行くと食事をした。
 牛丼屋を出るとまた、人出でごった返す歌舞伎町へ足を向けた。
 一番街からセンターロード、サクラ通り、東通り、さらに区役所通りへと足を延ばした。
 何か仕事を見付けなければ・・・・ふと、そんな事を思った。
 だが、どうやって仕事を探せばいいのか分からなかった。
" 喫茶店(サテン)とかよう、立食のラーメン屋、美容院なんてのが一番いいんだ。身元なんてきかねえからよう "
 少年院にいる時、誰かが言っていた言葉が蘇った。だが、良次には見ず知らずの店先へ行って、働かせて下さい、という勇気はなかった。
 何処かに店員募集の張り紙でも出ていれば一番いいんだが・・・・良次は区役所通りの人影も疎らな路上にただ立っていた。
 ここまで来ると繁華街を少し外れて、さすがに人通りも少なくなっていた。
 良次は行き場のない心を抱いたまま、区役所の建物の傍へ行き、玄関に通じる石段に腰を降ろした。
 そこで通り過ぎる人の姿や車の流れを見ていた。

 良次はようやく重い腰を上げると、今度は靖国通りを横切り、再び、新宿通りへ向かって歩いて行った。
 路地を抜け、デパートの横を通って行った。
 その間、良次は、自分の心の中に浮かんで来た一つの思いに心を凝らし、街角や喫茶店の前に屯する若者達にも眼を向けようとはしなかった。
 新宿通りへ出ると初めて足を止めた。そこで良次は通り過ぎる人の群れを見詰めていた。良次の心にはこの時、仄かな光明のように一つの光りが見えて来ていた。良次は無意識のうちにズボンのポケットの中で、ナイフを探っていた。
 ゲームセンターで気になっていたものがなんであったのか、おぼろげながらに見えて来た気がした。
 良次の気持ちは落ち着いていた。                     
 良次は藤木幸造の顔を思い浮かべた。
 藤木幸造はその時、なんて言うだろう。
 良次には藤木幸造の驚く姿が見える気がした。
 誰でもよかった。良次には自分の振り下ろすナイフの刃を確実に受け止めてくれさえすれば、誰でもよかった。
 
 良次は眼の前に浮かび出た一人の若い女性の胸元めがけ、思い切り、刃を開いたナイフを振り下ろしていた。
 ナイフの刃が肉に食い込む重い感触が良次の全身に広がった。良次の心に抑え切れない歓喜の感情が湧き起こった。
 自分の意志で実行した一つの行為が今、完全に遂行されていた。自分が自分である事の確かな感触が初めて得られた気がした。
 逃げようとは思わなかった。むしろ良次は、多くの人々の眼が今、自分にそそがれている事の確かな感触を覚えて、言い知れぬ満足感の中にいた。
 
 
 
           完