遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 13 人はなぜ 人を殺してはいけないか

2014-09-28 16:42:27 | 日記

          人はなぜ 人を殺してはいけないのか(2011.1.25日作)
              -殺人に関する三つの観点ー

               すでに大分以前のことになるが
               テレビの深夜番組で 中学生だか高校生だかに
               人はなぜ 人を殺してはいけないのか と問われ
               居並ぶコメンテーターの誰もが 明快に答えられなかった
               という事で 話題になった事がある しかし
               この問い掛けには次の三つの観点から答える事が出来る




          Ⅰ 権利論的観点


   生き物はすべて 生きる権利を持つ

   あの命も一つなら この命も一つ

   この世に生まれた限りに於いて 命はすべて平等だ

   俺にはこの世を生きる権利があるが

   あいつにはない などとは 誰にも言えない

   わたしにこの世を生きる権利があるのなら

   あの人にも生きる権利がある

   あいつは気に食わないから殺してしまえ

   もし そう思っているあなたがいて

   その殺人を正当化するのなら

   そう思っているあなた自身

   あいつは気に食わないから殺してしまえ

   そう思われ 殺されても仕方がない

   という事になる

   人は そんな事の連鎖を防ぐために

   法律を作り 人を殺す行為を

   防止しようとして来たのではないか

   人は人であり この世界に生きる限りに於いて

   その法律を守り 従うのは

   当然の義務であり 従って

   人は人を殺してはならない 

   という事になる



          Ⅱ 道徳論的観点



   しかし 人は究極 何かを殺さなければ

   生きては行けない

   世の中の生き物すべてには生きる権利がある・・・・

   だからといって人が 動物 植物 あるいは他の

   すべての生き物の命を絶つ事をためらうのなら

   人自身が生きてはゆけない

   人は自身が生きるために 他の生き物の命を絶つ

   人に限らず 生きる物すべては

   他者の命を犠牲にしなければ

   自身が生きてはゆけない そして

   それを自覚出来るのは この世界で

   人間しかいないであろうし それが人間 人の

   知的生物としての証しであり

   それを自覚出来る人間は せめて

   自身と同じ種に属す人を殺す事だけは

   避けなければならない それでなくても人は

   他の多くの生き物の命の犠牲の上に生きている

   生き物なのだ


          Ⅲ 存在論的観点



   そうして人が生きるとい事は

   自身一人ではどうにもならない とい事だ

   人は一人では生きられない

   他者がいて始めて 自身の生が可能になる

   他者無くして自己はない 自己があるとい事は

   最小限 二人の人間 その存在を

   必要とするという事だ さらにまた

   二人の人間はそれぞれに 二人の人間

   その存在を必要とする この人間社会は

   そんな連鎖の中で 始めて可能になる

   連鎖が途絶えた時 人の社会は崩壊する

   人の社会の崩壊

   人を殺すとい行為は

   崩壊への道を自ら歩む行為であり  

   人の社会が崩壊してもかまわない

   もし そう考える人間がいるとしたら それは

   そう考える人間の勝手な思い込みであり

   そう考える人間の 傲慢さ以外のなにものでもない

   他者にその考えを強いる権利など 誰にもない

   自己は他者ではない

   人はそれぞれに独立した存在

   他者になり得るなど

   誰にも出来ない

   他者に自己の考えを強制する事など

   誰にも出来ない      

 

   


   


              


遺す言葉 12 つながるもの

2014-09-21 13:41:38 | 日記
          つながるもの(2010.2.2日作)



   人が生きるという事はーーーー

   心を伝えるという事であり

   心を伝えるという事は

   自分自身を生きるという事であり

   自分自身を生きるという事は

   人として生きるという事であり

   人として生きるという事は

   自身の務めを果たすという事であり

   自身の務めを果たすという事は

   日々を生きるという事であり

   日々を生きるという事は

   時の中に姿を刻むという事であり

   時の中に心を刻むという事は

   思い出を残すという事であり

   思い出を残すという事は

   人の心の中に生きるという事であり

   人の心の中に生きるという事は

   人に働きかけるという事であり

   人に働きかけるという事は

   人を動かすという事であり

   人を動かすという事は

   人を変えるという事であり

   人を変えるという事は

   人を造るという事であり

   人を造るという事は

   人を生み出すという事であり

   人を生み出すという事は

   人が生まれるという事であり

   人が生まれるという事は

   人が生きるという事であり

   人が生きるという事はーーーー

   ーーーーー

   心は思い出の中に宿り

   世代から世代へと繋がってゆく

   



   

 

  

   

遺す言葉 11 老女は言った

2014-09-14 14:21:10 | 日記
          老女は言った(2010.3.24日作)



   その老女はわたしに言った

   「相手の方が 宜しくお願いします

   と言ったら

   こちらこそ 宜しくお願いします

   と答えるのです

   相手の言葉をおうむ返しに ただ

   宜しくお願いします

   と同じ言葉を繰り返すだけでは

   会話に深みも余韻も生まれて来ません」

   その老女はわたしに言った

   「注(そそ)ぐなどと言ってはいけません

   お酒などは注(つ)ぐと言うのです

   ビールを注(そそ)ぐ

   お茶を注(そそ)ぐ

   そんな言い方には 

   言葉に対する繊細さが まったく感じられません

   大海に注(そそ)ぐ川

   原野に降り注(そそ)ぐ雨

   そそぐ という言葉の響きには

   どこかに大きな景色があり

   注(つ)ぐという言葉とは違って

   別の響きが感じられて

   ビールの味も お茶の味も濁って来ます」

   その老女はテレビを観ていて言った

   「あの政治家はやたらに

   させて戴きます

   なんて言ってるけど あれは本来

   やります と言うべきなんです

   政治家は国民一人一人に代わって

   物事を実行するために選ばれたのです

   それをやたらに

   させて戴きます なんて言うのは

   政治家としての自覚も 覚悟も 責任も

   忘れているとしか思えません

   政治家は させて戴きます と言う前に

   やらなければならない立場にいる人間なんです」

   その老女はわたしに言った

   「そんなに語尾を上げて話をするものではありません

   日本語には 語尾が小さく自然に消えてゆくところに

   話し言葉としての美しさがあるのです

   それをやたらに 「があ」とか「でえ」などと

   語尾を持ち上げ 強調して言うのは

   日本語が持つ 言葉の響きの美しさを

   忘れているとしか思えません

   そんな言い方は下手な演説家や

   下品な煽動家などに任せておけばいいのです」

   その老女は テレビの歌番組を観ていて言った

   「なんで あの人は <か>を<クワ>と言ったり

   さを<スア>と言ったり

   崩れて 濁った言い方をするのかね

   外国人の覚束ない日本語の言い方を真似して

   それが格好がいいとでも思っているのかしら

   あんな言葉の使い方をすると その人の教養が疑われるね

   もっと教養のある大人たちが

   どうして 直してやらないのかしら」

   -----

   言葉に対して妙にうるさかった老女は

   もう いない 同時に

   この国の言葉はますます乱れて

   かつての日常会話の中にもあった

   小津安二郎の映画や

   川端康成などの文章に見られる

   美しい言葉遣いは もはや幻となって

   この国から失われてゆくだけのものなのか

   日々 変転 時代の移り変わりと共に

   言葉もまた 変わりゆくのが

   言葉の持つ宿命なのだ と言って

   済まされるものなのだろうか?

   

   

   

   

  


   

   

遺す言葉 10 巨大な走者(ランナー) 

2014-09-07 13:36:32 | 日記
          巨大な走者(ランナー)(2010.9.28日作)



   彼は巨大な肉体を競技場に現し 猛烈な勢いで走っている

   彼が競技場に姿を見せてから その巨大な肉体と 存在の若さが常に持つ

   溢れる熱気のままに周囲を圧倒して走っている

   周囲の者たちは 彼の巨大な肉体が巻き起こす風に吸い寄せられるかのように

   その風力圏に引き込まれてゆく

   -----

   やがて彼は 巨大な肉体の内部に眠る膨大なエネルギーを駆使して

   十位の走者を抜き去り 七位の走者を拭き去り 五位の走者を抜き去り

   三位 二位の走者までも抜き去って いつの日にか

   首位を走る走者をも抜き去るだろう と観客達は見ている

   ーーーーー

   巨大な彼の走る肉体は驚異 賛嘆の的となり 観客達の多くは

   称賛と喝采を彼の背中に送る

   彼自身もまた 湧き起こる称賛と喝采に酔ったように自身を深め

   周囲を走る走者たちも眼中にないかのように 他走者の進路にまでも踏み込んで

   漲る力のままに走ってゆく

   -----

   観客席の観客達は 始め 彼の規則も無視した走法に

   事の次第が呑み込めず 呆気に取られ 戸惑い 見守っていたが やがて

   余りにも無謀のその走法に眉をひそめて舌打ちをし出した

   ちょっとあれは 規則違反なのではないか?

   もう少し 規則に沿った走り方をしなければ!

   しかし 今では周囲の者たちがその走法に手を焼いても

   誰もが彼の巨大な肉体が巻き起こす風力圏から抜け出せなくなっている

   あの走り方をどうにかしなければ 何を仕出かすか分からない

   闇雲に走り続ける彼の暴力的走法に ハラハラしながら多くの観客達は

   見守っている

   -----

   もはや彼は誰の眼にも他を寄せ付けない 強者になったようにも見える

   彼自身 競技場に姿を見せると共に 極めて短い時間の内に身に付けた

   自信と共になお 暴力的とも言える走法で走り続けている これこそが

   自分本来の姿である とでも言うように

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   だが 彼自身は理解している

   自分が他走者の進路にまでも踏み込んで走り続けなければならない その訳を

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   彼は身内に多くの親族を抱えている その親族の生活を支えるために彼は

   懸命に走り続けなければならないのだ

   自分が勝利を収め 獲得した賞金で身内の者たちの生活の糧を得る・・・・

   そのためには暴力的と言われても 多少の非難を浴び 悪評をたてられても

   なお 走り続けて勝利を手にしなければならない

   身内の者たちに

   大きな体をしながら 他走者の後塵を拝すとはなんという体たらくだ と

   詰(なじ)られないためにも

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   彼は知っている 自身が抱える弱み 自分が立っている場所の基盤の

   脆弱さを そのため

   他走者の進路に踏み込む暴挙をあえて犯してまでも

   走り続けなければならないのだ 回転を止めれば倒れる独楽と同様

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   更にまた 彼は知っている 今は観客席の観客達の喝采を浴びて

   傍若無人 驚異の眼差しで見られているこの走りも

   永遠に続くものではない という事を 巨大な彼の肉体にも疲労は蓄積し やがて

   呼吸が困難になり 走り続けるのが不可能になる事を

   ーーーーー

   結局 彼が暴力的で 闇雲に他走者の進路も無視して走り続けるのも

   その不安から逃れるための あるいは 

   その不安が顕在化して来る事態への恐怖から逃れるための 必死の行動なのだ

   昔日の 貧しい生活には再び戻りたくはない 自身が抱える親族達が

   一度身に付けた安心 豊かさを維持するためにも

   他走者の進路などは省みずに 必死に走る

   自身の品格 品位 評判などに気を配り 拘わっている暇(いとま)はない

   今はただ 親族 身内のためにも走り続けるより仕方がない

   いわば 彼は哀しい存在なのだ