遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉287 小説 踊(ストリッパー)子(完) 他 禅家の言葉他

2020-03-29 15:11:37 | つぶやき
          禅家の言葉 他(2020.6.23日作)

   風に柳
   水面に月
   の  
   やわらかさ
   
   形があって
   形が無い
   ------
   人の命に
   貴賤はない
   どんな命も
   家族 肉親に取っては
   最上 最良 の
   命
   ------
   生きながら  
   死人となりて
   なり果てて
   思いのままに
   する業ぞ
   良き    (禅家 無難)
   ------
   人は生きる上に於いて
   余計な事は考えるな
   物事の本質に従え
   その事 今 直面している
   その事の本質は何か ?
   食事をする
   運動をする
   仕事をする
   それぞれが持つ
   その本質は何か ?
   そのものが要求している
   根本のものは ?
   その本質を見極め
   その本質に沿って
   自分を動かす それが
   人の生の基本の基本
   基本的 行動原理


          --------------


          踊(ストリッパー)子 (完)


 電車は徐行と共に池袋のホームに入って来た。車窓の流れがゆるやかになるのを確認した女性はゆっくりと席を立った。
 池袋駅は彼の降りる駅でもあった。彼はそれでも女性の動きにそれとない視線を向けたまま、座席に座っていた。
 女性が彼の方に注意を向ける事はなかった。彼は女性の背中を見ながら席を立った。
 女性はドアが開くとそのまますぐに電車を降りた。彼は他の二人の乗客に続いて電車を降りた。
 彼がホームに立った時、女性は駅の東西に分かれた出口に繋がる地下道への階段に向かって歩いて行った。それは彼が帰宅の時に何時も辿る道筋でもあった。彼は少しの間、女性との距離を保ちながら歩いていたが、女性がその階段に足を掛けた途端、急にこのまま何事もなく、今、せっかく、華やかな、あのF座の舞台上に見る水町かおるが眼の前にいるのにと思うと、みすみす話し掛ける機会を逃がしてしまう事が惜しい気がして来て、焦りにも似た思いが生じた。その焦る気持ちと共にだんだん少なくなる階段が切羽詰まった思いで彼を大胆にしていた。彼は思い切って心を決めると小走りに女性の背後に近付き、横に並ぶとそのまま声を掛けていた。
「あのう、F座の水町さんじゃないですか ?」
 女性は突然、背後から近付いて来た男に声を掛けられ、一瞬、ひるんだような気配と共に身構えるような素振りを見せたが、彼を見るとためらう様子も、恥じらう様子もなく落ち着いた声で、
「ええ」
 と答えた。
 それと共に彼が、さっき眼の合った自分の前の座席にいた男だと理解したようだった。
 彼はその女性の落ち着いた様子になんとはない安堵にも似た思いを抱いて、更に大胆になって気安く話し掛けていた。
「おれ、水町さんのファンなんです」
 女性はそれを聞いて、
「有難う御座います」
 と言ったが、それ以上の特別な感情は見せなかった。
「これから劇場へ行くんですか ?」
 彼は更に話し掛けていた。
「はい」
 女性は短く答えた。
「あのう、ちょっとお茶でも飲みませんか ?」
 普段、工場にいてほとんど誰とも言葉を交わす事のない彼に取っては、信じられない大胆さだった。
 水町かおるはだが、
「でも、時間がないので」
 と穏やかに言った。
 その時二人はもう階段を降り切っていた。
 水町かおるが向かうのは東口だった。
 彼の出口は西口だった。
 二人はそのまま別れたが、水町かおるはその時、軽く会釈した。
 その夜は土曜日だったが、彼は改めてF座へ行く事はしなかった。彼の気持ちの中には水町かおると言葉を交わしたという事への高揚感と共に、なんとはない満ち足りた思いの幸福感があってそれで充分だった。

 次の土曜日、彼は前の週の土曜日と同じ帰りの電車に乗った。水町かおるとまた会えるのでは、という期待の上での事だった。
 だが、水町かおるに会う事はなかった。
 更に次の土曜日、また次の土曜日と、同じ時刻の電車に乗った。それでもやはり水町かおるとの出会いはなかった。
 彼がF座へ足を運んだのは月が変わって初めての土曜日、出し物の変わった最初の土曜日だった。 
 水町かおると出会ってから何週間目かの事で、あれ以来、初めて舞台の上に見る水町かおるへの期待感に心が昂った。
 彼が扉を開けた時、既に舞台は始まっていた。少しずつ衣装を脱いでゆくヌードの舞台が展開されていた。彼は座席の後方、座席の中に突き出た円形舞台の近くに席を取った。
 水町かおるの舞台までにはまだ、しばらくの間があった。
 彼はその間、既に見馴れた他の踊子たちの舞台にはそれほどの興味も持てなくなっていた。ただ、多彩で華やかな照明の中に浮かび上がる踊子たちの様々な肉体を美しいとだけ思って見つめていた。その舞台を初めて眼にした夜のあの興奮も血の騒ぎも覚える事がなかった。
 そんな踊子たちのステージが幾つか続いた後、ボードビルの舞台があり、水町かおるはやはりフィナーレ前の舞台に登場した。
 その夜の水町かおるは黒の幾重にも重ねられた薄物の衣装に身を包み、耳には大きな銀色の耳輪が光り、揺れていた。貴婦人を思わせる、胸元の大きく開いた優雅なドレスの下に透けて見える彼女の肉体が、時折り、照明の具合で鮮明に映し出されてその白さを強調した。手には深紅の羽の扇が握られていて、例の淋し気な頬と細い鼻筋の美しさを巧みに演出した。
 彼はそんな水町かおるをその夜、殊更、美しいと思った。そしてその美しさを持つた人と自分が現実に言葉を交わしたのだと思うと、何かしら信じられない夢の世界に引き込まれてゆくような感覚を覚えて、その陶酔感に浸っていた。

 全く思いも掛けない事だった。
 水町かおるはその時、不意を衝かれたような驚きと戸惑い、困惑の表情を一瞬浮かべた。それからふと、気を取り直したように自分に立ち返ると、一瞬浮かべた戸惑いと困惑の表情を振り払うような強い表情と共に激しい勢いで顔をそむけた。ーー中央ステージで十数分間の舞台を終えたあとの事だった。
 その時、水町かおるは客席の中の通路舞台を進んで来た。両側から観客席の男達の視線を浴びながら踊り進んで来た水町かおるは最後に、座席中央の円形舞台に辿り着くき、そこでまた、新たな舞台が展開された。
 その時だった。彼女が踊りながらかざした大きな赤い羽根扇の陰から覗いた彼女の視線が、偶然、客席の後部、円形舞台の近くにいた彼の姿を捉えていた。
 総ては一瞬の間の出来事だった。彼はその時、水町かおるがそむけた顔の中に彼の顔を確認した事に依る彼女の不快感と嫌悪感、更には、軽蔑、蔑みにも似た冷笑が微かに浮かぶのをはっきりと眼にしていたーーー。
 水町かおるが再び、彼の方に視線を向ける事はなかった。彼女はただ、彼を無視したように何食わぬ顔で舞台を務めるとやがて正面舞台中央へと戻って行った。

 その夜彼は、ただ激しい屈辱感と寂しさだけを抱いてF座を出た。
 水町かおるの一瞬、彼から視線をそむけた時の、あの、淋し気な頬に浮かんだ微かな、軽蔑を含んだとも言えるような冷ややかな冷笑的笑みが、脳裡に絡み付いていて消えなかった。しかもそのあと、まるで彼など歯牙にも掛けないといった風にも見えたあの舞台姿が更に彼を打ちのめしていた。
 彼のF座通いはその夜を限りに終わっていた。

 彼が勤めていた神田の工場を辞めて池袋の住まいを出たのはそれから半年程が過ぎてからだった。
 水町かおるとの間の出来事が直接的原因ではなかったが、水町かおるへの興味もなくしていた。あの冷笑的、皮肉的な笑みが彼の脳裡から消える事はなかった。屈辱的出来事として彼の心を強く支配していた。
 それでも遠い故郷で幼い頃から貧しい生活に耐えて来た彼は、生きる事に於いては真剣だった。キャバレーのボーイ、運送会社の店員、食品会社の配達員、化粧会社の販売員、そして、ようやく落ち着いたのが、現在の電気器具製造、販売の会社だった。その間には同棲から入って式も挙げない結婚もした。
 池袋F座がレジャーだバカンスだ、と騒々しい世相の中で経営不振からキャバレーに転向したという噂を聞くか、あるいは新聞、ラジオかで知ったのは、それから何年後の事であったのか、今では思い出せなくもなっている。ただ、その時彼は、その噂を、色あせた花びらを見るような思いで聞いていた事だけを鮮明に覚えている。
 水町かおるが何処へ行ったのか、むろん知る由もなかった。
 
              完



          --------------------



          hasunohana1966様

          フォロー有難う御座います
          拙いブログに御目をお通し戴まして
          心より御礼申し上げます
          わたくしも早速、hasnnohana1966様
          のフォロワーとして登録者させて頂きます
          以前にも拝見させて戴いておりましたが
          横文字はちょっと苦手で、敬遠するようなところも
          ないではありませんでしたが、深い御知識に   
          感嘆しておりました
          これからもより良い文章をお書き下さいませ


          takeziisan様

          いつも御支援有難う御座います
          御礼申し上げます
          相変わらず見事なお写真、毎回
          楽しみに拝見させて戴いております
          これからも宜しくお願い致します
          と申し上げては御負担をお掛けする事に
          なるのでしょうか ?
          漱石、「それから」いいですね
          「心」「行人」など共にわたくしも好きな作品の一つです
          
          


   
   
   
   
    

 
 


 
 
 

 
 

遺す言葉286 小説 踊(ストリッパー)子(3) 他 雑感五題

2020-03-22 12:52:02 | つぶやき
          雑感五題名(2018ー2020・2月)

 
   Ⅰ テレビ番組の中でのコメンテーター
     分かり切った事を後生大事に
     大真面目に言う能力を持った人
     テレビ番組の中でのリポーター
     報道の名の下に正義を振りかざし
     必要のないものまでもほじくり出す
     人の心の痛みの分からない偽善者

   2 現代は拡散の時代
     自己を取り巻く環境は日毎に拡散してゆく
     そんな中で大切なのは
     自己の中心点を明確にして置く事だ
     自己の世界を持たない人間は時代の中で霧散し
     自分を見失ってゆくだけだ
     国家についても言える事

   3 美しい日本語とは耳に心地良いものだ
     美しい言葉は各地にある その地方地方に根差し
     その生活 環境の中で生まれた発音 抑揚 意味などで構成され
     それが混然一体となった言葉は美しい

   4 学校とは人間形成の場であり その中で
     知識も習得するものであり そこから自ずと
     学校というものの姿が見えて来る
     知識を詰め込むだけでは学校とは言えない
     それは知識缶詰工場だ

   5 昼と夜 光りと闇
     世界はこの二つの極によって形成される
     光りを求めるだけで 真の闇
     闇の深さを知らない人間の頭脳では
     真の思索は出来ない
     現代社会の軽薄さ それは人工照明の光りの中で
     真の闇を見つめる事のない所から来ているのではないか




         ----------------------
     
       
     
         踊(ストリッパー)子(3)

 F座通いは続いた。月毎に変わる出演の踊子たちや演出が彼の興味を誘って止まなかった。時には浅草の演芸場などで活躍する、売り出し中のボードビリアンなども舞台の色として出場する事もあって、飽きる事はなかった。
 彼に取ってはまた一つ、別の楽しみも増えていた。F座専属の踊子たちの他に月毎に入れ替わる踊子たちの名前を覚える事だった。幕の降りた後、彼はわざと遅くまで座席に着いていて、一番最後の人々と共に劇場を出るようにした。ウインドーに飾られた新し踊子たちの姿を思い描きながら名前を確認するためだった。その踊子たちの名前と舞台上に見た肉体の美しさを胸に抱きながら夢うつつの内に自分の部屋へ帰ると一人の行為に耽った。
 水町かおるの名前を知ったのもそうした事の結果だった。F座通いを始めてほぼ一年近くが過ぎていた。
 始めて彼女を見た夜、水町かおるはフィナーレの前のステージを一人で踊った。豪華な衣装や羽根飾りに半裸体の身を包んでの、いわゆるセミヌードの舞台だった。その舞台に彼が一目で魅了されたのは、まず、彼女の持つ、独特の愁いを含んだように見える淋し気な頬と、細い鼻筋の美しさだった。彼女は他の踊子たちが持つはち切れるような肉体の美しさとは違って、何処か華奢な感じを抱かせる細身の体型で、それでこそ、豪華な衣装や羽根飾りがその色白の肉体に似合うように思えた。
 彼はその夜、彼女の姿と名前を確認するためにだけ、一番後になって劇場を出た。その時、ウインドーに飾られた写真とその下に書かれた名前で知ったのが " 水町かおる "だった。
 彼のF座通いはその夜以来、水町かおるを見るためにだけ月に一度、出し物が変わる度毎の定期的な習慣となっていた。水町かおるを見るためにだけ、足を運んでいたと言えるかも知れなかった。
 その水町かおるの美しさは、そんな状態の中でも彼の期待を裏切る事はなかった。初めて見た夜と同じように彼女はいつもラストステージの前に一人、セミヌードの豪華な衣装で踊ったが、何処かに愁いを含んだようにも見える淋し気な頬に浮かぶ微かな微笑みの変わる事はなかった。正面舞台から客席中央、中程まで延びた円形の小さな舞台に至るまでの狭い通路舞台を進んで来る時には、客席の男達の視線が両側から一斉に彼女に向けられたが、そんな時でも彼女の表情は変わる事なく、その静かな笑みと共に、何処か言い知れぬ虚しさに満ちた虚無の影を引きずっているようにさえ見えた。
 彼のそんな風にしてのF座通いがそれからどれ位続いたのか、今の彼には記憶も曖昧になっているが、当時の彼に取っては、水町かおるの何処となく愁いを含んだようにも見える表情が、中学校卒業と同時に東京へ出て来て、小さな町工場で働きながら四畳半一間の部屋で友達も無く、一人暮らす彼の孤独と一つに溶け合って、彼の心を引き付けていたのに違いないようにも思えるのだった。

          3

 それは、単なる偶然だったのか。或いは、何かの引き合わせ、とでも言えるような力が働いていたのだろうか。その日、彼はいつもの土曜日と同じように、午前十一時に仕事が終わると珍しく寄り道もしないで帰りの電車に乗った。山手線の昼のガランとした車内の座席の一つに座ってホットするのと同時に電車は動き出した。池袋へ向かう電車の次の駅は秋葉原だった。それは何時もと変わらない事で、彼はただぼんやりと電車が停まった階段下のやや暗いホームの辺りを見つめていた。
 始め、彼は確信が持てなかった。ほとんど化粧のない顔。職業柄、想像される派手さの少しもない装い。むしろ地味なぐらいに見える袖なしの白いワンピース姿に黒革のハンドバッグ、左手に何かの入った紙袋を抱えるようにして持っていた。その極、ありふれた身なりの女性から、あのF座の舞台上に見る華やかな装いの水町かおるを即座に思い描く事は出来なかった。ただ一つ、彼の注意を引いたのが女性の持つ、何処か淋し気な気配を感じさせる頬と、細い鼻筋の美しさだった。その女性を見た瞬間、オヤッ、と眼を見張ったが、すぐに如何にも地味なその装いと共に水町かおる ? というその思いは打ち消されていた。
 女性は二、三の乗客の後に乗り込んで来ると、正午も近い昼間の空席だらけの車内で彼が座っている前の座席に席を取った。
 女性はそのまますぐに両手に持った荷物を自分の横に置くと、紙袋の中から週刊誌を取り出してページを開き始めた。
 彼はその間ただ、瞬間的に水町かおるを思い浮かべさせた女性に何気ない視線を向けていた。
 女性は無論、そんな彼に気付くはずはなかった。すぐに開いた週刊誌のページに眼を落とし始めた。
 電車は幾つかの駅を通過していた。彼は熱心に週刊誌に眼を落とし続ける女性にそれ以上は興味も持たずに眼を閉じ、電車の振動に身を委ねていた。
 車内放送が次の停車駅、大塚を告げた。次が彼の降りる池袋駅だった。彼は閉じていた眼を開け、車窓の外に流れる風景を確認した。女性はなお、週刊誌に眼を向けたままでいた。
 やがて電車は大塚駅で停車し、再び動き始めた。彼はホームの柱を後ろにずらしながら少しずつ加速する電車の振動音を何気なく聞いていた。間もなく池袋駅だった。
 彼は降りる心構えで車窓を過ぎ行く風景に眼を向けていた。その時、今まで熱心に週刊誌に眼を落とし続けていた女性が初めて、周囲の状況を確認するように視線を上げ、ゆっくりと車窓の外を見渡した。同じように車窓の外を見つめていた彼の視線と女性の視線がその間、一瞬、交叉した。
 彼に取っては別段の事ではなかった。ただ、それだけの事にしか過ぎなかった。
 女性に取ってもそれはまた、格別の事ではないらしかった。女性は静かに交叉した彼の視線から視線をそらすと、開いていた週刊誌を閉じて紙袋の中に入れ、次の池袋駅での下車の準備に取り掛かった。
 その瞬間だった。彼は突如として意識の総てを覆った決定的、確信的な思いに捉われていた。水町かおる ! やっぱり、水町かおるだ。 
 最初に女性を眼にした瞬間、湧き起こった疑念が再び彼の意識の表面に躍り出て彼の心を揺さぶっていた。
 女性は池袋駅で降りる !
 池袋はF座のある場所だ。
 水町かおるに間違いない。
 何処か淋し気な気配を感じさせるあの頬。細い鼻筋の美しさ。それらは総て水町かおるが備えたものだった。
 彼は一気に高まる確信と高揚感と共に、息の詰まるような胸苦しを覚えていた。
 水町かおるが今、眼の前、手を伸ばせば届く距離にいる ! 水町かおるに間違いない !
 
 




 
 


 

遺す言葉285 小説 踊(ストリッパー)子(2) 他 その中で人間は ?

2020-03-15 12:35:05 | つぶやき
          その中で人間は ?(2020.3.10日作)

   その果てさえ知れぬ 広大な宇宙の中で
   この地球が生まれて 何年になるのだろう
   人の命が生まれて 何年になるのだろう
   そして今 こうして人間が生きている

   その人間はやがて
   何処へ行くのだろう
   人は生まれて死んでゆく
   人が生まれて死んでゆくように
   この地球が生まれた時から
   地球の終わり その死は
   決定付けられたものなのだろうか ?
   地球が終わりを迎える日
   その時 人類 人間は
   どのような時間
   どのような人の生を
   生きているのだろう ?

   日毎に縮み 暗くなってゆく太陽
   日毎に冷え 凍ってゆく地球
   やがて 訪れる闇 
   漆黒の闇 闇 真性の闇
   漂う暗黒
   その中で 人間は ? 


          --------------------


          踊(ストリッパー)子(2)

 彼の前を過ぎて行った女はホームの外れ近くまで行くと、電車が停まる最後部かと思われる辺りで足を止めた。そこでようやく目的の場所に辿り着いたという様にふと、肩の力を抜いた安堵の気配を見せて、電車の影のない線路の辺りに視線を向けた。だが、それも一瞬の間で、そのあと女は何気ないといった様子で今、自分の歩いて来たホームの方角に視線を戻した。
 彼はその間、自分の意識の中を駆け巡る何か分析出来ないものの影を執拗に追い続けながら、ずっと女の姿を見守っていた。女は無論、そんな彼の視線など意識したわけではなかったのだろうが、何気ないといった様子で振り返った女の視線と彼の視線がその時、偶然、明かりの乏しい夜のホームの上で鉢合わせをした。
 彼は狼狽した。慌てて、女の姿を追い続けていた視線をそらしたが、女は遠く離れた場所の暗いホームの上で出合った二つの視線を別段、気にする様子もなくて極めて自然に視線をそらした。
 が、その瞬間だった。彼は、はっきりと理解した。
 " 水町かおるだ ! "
 女が眼の前を通り過ぎる時に見ていた、遠目にも明らかに見て取れる細い鼻筋と何処か淋し気な翳を宿した頬が、図らずも彼に一人の女の面影を思い浮かべさせていたのだった。
 彼はなぜか、胸の鼓動の速くなるような軽い心の昂ぶりと共に再び、自分の思いの齟齬のない事を確かめるかのように視線を女の方に向けていた。
 あるいは女もまたその時、彼の上に過去の何かを認めていたのだろうか、再び視線を彼の方に向けた。
 二人の視線の再び合う事はなかったが、それでも彼はその時、女の再度、彼に向けた視線の中に、強い緊張感と共に狼狽の気配の走るのを明らかに見ていた。と同時に女はハッとした様子の何かに気付いた印象の強烈な拒否の姿勢で彼の方へ向けていた視線を暗い線路の上の空間に戻した。
 彼はその様子から、明確、決定的に確信した。女が「水町かおる」である事に間違いはない。そして女も、俺が誰かに気付いた !
 女はそれから二度と彼の方へ視線を向ける事はなかった。強い拒否の姿勢で彼に背を向けるようにして未だ最終電車の来ない暗い線路の向こうを見つめていた。
 やがて電車が入って来た。彼は何人かの後に続いて乗り込んだ。女の姿も車内に消えた。彼はだが、女が居ると思われる最後部の車両へ行って、昔のように再び声を掛ける気にはなれなかった。おそらく、二十何年振りかの出会いに違いなかったが、彼には女の、依怙地とも思えるような強い拒否の姿勢を見せた背中と共に、かつての輝きを失った女の崩れた姿が彼の気持ちを押しとどめていた。


          2 


 当時、彼は東京へ出て来て五年程だった。中学を卒業すると貧しい実家の家計を支えるために集団就職で東北から上京した。
 彼が働く鉄工所はネジや鋲などを造る小規模の会社で神田にあった。住まいは知り合いの紹介で借りた池袋の古い木造アパートの、西陽だけがよく当たる一室だった。日々の生活はほとんど、その会社と住まいとの往復で明け暮れた。午後五時までの仕事が終わると後片付けをして、そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ帰った。帰りがけに住まいの近くの店で買ったパンと牛乳と、有り合わせの果物などで腹を満たして食事とした。
 鉄工所での友達はなかった。工員のみんなが彼の父親に近い年齢の者たちばかりで、話し相手にもならなかった。彼はそれでも真面目に働いた。兄妹の多い実家の事を考えれば、贅沢などは言ってはいられなかった。
 唯一の趣味は映画を観る事だった。休みの日はほとんど、映画を観る事で過ごした。そのあと、繁華街の軽食の店や喫茶店などでみつ豆などを食べのがささやかな楽しみだった。
 始めてその劇場、F座へ足を運んだのがどんな動機だったのか、何時だったのか、定かな記憶はなかった。以前にも映画を観ての帰りなどにその前を通る事はあっても、ウインドーに飾られた裸体姿の女たちに気恥ずかしさを覚えて、立ち止まってそのウインドーの中の写真を見る事にさえ出来ないでいた。それがいったい、どんな動機で、何がきっかけでその劇場の入り口をくぐっていたのか ?
 始めてその劇場の入り口を入って内部の世界を見た時の強烈な刺激と衝撃は彼を一瞬、混乱させた。自分がいったい、どんな世界に迷い込んだのか、理解不能の状態に陥れた。総てが豪華で華麗でそれでいて俗っぽく見えた。耳をつんざくような強烈な音楽と共に、舞台上で繰り広げられていた裸の女たちの踊りが彼を興奮と混乱の極みに誘った。ライトの光りを浴びた女たちの裸体は彼がこれまでに一度たりとも眼にした事のない世界の美しさだった。彼は座席に着いてからも次々に繰り広げられる裸の女たちの卑猥に満ちた踊りや動き幻惑され、極点にまで沸き立つ血の騒ぎと興奮に耐えきれずに遂には、座席に座ったままで自分の下着を汚していた。
 その日以来、その劇場の世界は彼に取っての想像を超えた新しい世界となった。映画の世界さえが白々しい一枚の絵の世界でしかないように彼の眼には映った。
 
 
 
 
 
 
 


 



 




 

遺す言葉284 小説 踊(ストリッパー)子 他 わたしが書くもの(2)

2020-03-08 12:30:20 | つぶやき
          わたしが書くもの(2)(2020.2.20日作)

   わたしが書くもの
   それが詩であっても詩でなくても
   いっこうに構わない 少なくともわたしは
   誰にでも分かる言葉で 誰にでも分かるように
   わたしの思い わたしの心
   わたしが生きて来た人生 その途上で得た
   知識 経験 見て来た事などを
   書き残し 伝えてゆきたい

   わたしの書くもの
   豪華絢爛 技巧を凝らし 飾り立てた   
   紳士淑女の衣装のような言葉ではなく  
   丸太の小屋のような言葉で小さな
   丸太の小屋を作ってゆきたい

   その作られた小屋が
   貧相貧弱なものであるのなら
   わたしが生きた人生の軽さ 貧しさを示すものであり
   重厚 堅固なものであるのなら
   わたしの人生の深さ 充実を示すものとなるだろう
   
   わたしは わたしの書くものに
   責任は持てても 判定を下す事は出来ない
   わたしはただ 誠実に
   誰にでも分かる言葉で 誰にでも分かるように
   重さと豊かさを備えた堅固な
   丸太小屋を作りたいと願うだけだ


          -------------------

          踊(ストリッパー)子(1)

             1
 最終電車が来るまでには、まだ、しばらくの間があった。
 上下線四本のレールを挟んで二つのホームが物わびしく、倦みはてたような影を宿して夜の中に横たわっていた。
 何処かの消し忘れられたネオンサインが、そんなホームの暗い屋根を時折り赤く染めた。
 上り線のホームに比べて下り線のホームには、既に夜半を過ぎたというのに、これから郊外の自宅へ帰ると見られる人達の姿が思いの外、多かった。誰もが空しい、疲れたような影を引きずりながら、不機嫌そうに黙り込みがちだった。中には、競馬新聞に眼を落す人、煙草の赤い小さな火を点滅させる人、酔って柱に体を持たせ掛け、今にも崩れ折れそうになっている人、などと居たが、そんな男達の姿に混じって女の姿も見られるのは、大方がバーやキャバレー勤めの帰りに違いなかった。女同士、今日の客達の噂話しでもしているのだろうか、小声で盛んに話し込む者達、恋人か共働きの亭主と一緒に帰るのかとも思われる者達、あるいは一人ポツネンと、うそ寒そうにハンドバッグを抱えて佇む者、さしずめ夜の最終電車を待つホームは、人生の辛苦を生きる者達の吹き溜まりといっような趣きがあった。
 彼は先ほどから待ちくたびれ、苛立っていた。早く家へ帰って眠りたかった。体中が重い疲労の中に沈んでいた。四十二歳、改めて自分の年齢を意識した。若い頃、少なくとも二十代の頃には夜中の一時、二時は平気だった。それが最近ではめっきり体力が衰え、仕事仲間との付き合いさえが億劫になり、ほとんど、夜間の外出を控えるようになっていた。歳月の流れが実感された。こんな夜半過ぎまで飲む事などここ何年かない事だったが、それがひょんな事から三人の仲間と飲む事になり、久し振りの酒場の雰囲気にハシゴを重ねたあとの帰りの侘しさだった。改めて彼は、妻や五歳の娘、三歳の息子の子供達と過ごす日常の生活の何気ない穏やかさを身に沁みて貴重なものと感じていた。
 下の環状線を走る電車がホームに入って来て停まる音がした。それと共に、程なくして階段を登って来る人の姿もちらほら見られて、彼の立つホームにもまた人の数が増した。彼は疲れ切った神経で、倦みはてた視線をそれらの人々に何気なく向けていたが、その時、思いもかけず、ふと、視線の片隅に入って来た一人の女の姿に気を取られ、注意を向けていた。
 別段、その女に注目していた訳ではなかった。偶然、眼に入っただけの存在にしか過ぎなかった。
 女は普段よく見られる、ありふれた二流三流どころのバーかキャバレーのホステス、あるいは居酒屋の女、といった風情で華奢な体つきをしていた。酔ってはいないらしかったが、酒の火照りを夜気に醒まそうとしているらしい様子が見て取れた。ハンドバッグと風呂敷き包みのようなものを両手に持って、泥臭い派手な和服をしどけなく着崩れさせ、気だるそうに投げ遣りな歩調で歩いて来た。
 彼は依然として、倦怠と疲労の入り混じった視線でなんの気なしにその女を見つめていたが、いかにもしだらな女の様子に苛立つ神経を刺激されて、思わず嫌悪の感情と共に視線をそらしていた。自身が女のしだらな様子に感化されてしまいそうで苛立った。
 が、その時だった。彼は思いがけず、自身の脳裡をまるで雲が大地に影を落として走り抜けるように、一つの影が走り抜けるのを意識した。と同時に彼は、反射的に、一度そむけた視線を再び女の方に向けていた。 
 女は細い鼻筋の寂しげな頬をした小柄で華奢な体つきをしていた。彼の前を通る時にも別段、彼を気にする様子もなく、例の気だるそうな歩調で歩いて行った。
 彼はなお、眼の前を通り過ぎて行った女の後ろ姿に視線を送り続けていたが、自身の意識の中を走り抜けものが何んでったのか、なお、分からないままだった。
 

   続く


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          takeziisan様
          KYUKOTOKKYU9190様

          有難う御座います
          お二方のブログ、ここに入った限り
          毎回拝見させて戴き、楽しませて
          戴いております
          有難う御座います

          KYUKO様 ディスクジョッキー
          今回、ちょっと元気がありませんか ?
          引き続き御健闘、御期待致します
          それにしても現代曲、実にお詳しいですね
          私にはいずれもチンプンカンプンの分野なのですが

          takeziisan様 アートブレイキーとジャズメッセンジャズ
          懐かしいですね。「危険な関係のブルース」何度聞いたか
          分かりません。LP盤で持っています。
          相変わらずのお写真、楽しませて戴いております
          それにしても、早春には黄の花が多いのですかね。



遺す言葉(283) 小説 サーカスの女(完) 他 愛しい人たち(1)

2020-03-01 12:46:58 | つぶやき
          愛しい人たち(1)(2020.2.20日作)


   伊澤よし 享年九十五歳
   わたしの母方の祖母
   遠い昔 慶応の末
   小さな山村に生まれ 十里離れた
   九十九里の海に近い農村に嫁いで来た人
   晩年 十年程は緑内障のために失明
   暗闇の中に生き それでもわたしの母の介護の下
   生涯の終わりは穏やかだった 後年 わたしは
   その祖母が 祖父の再婚相手だった事を知り
   ふとした 秘密を盗み見てしまったような 
   小さな驚きに囚われた

   穏やかな人だった
   運の悪い人だった

   祖母の連れ合い
   わたしに取っての祖父は
   早くに亡くなった わたしは
   その人の顔を知らない
   祖母は祖父に付いては多くを語らなかった
   酒のため 財産を潰し 自身も
   酒のために亡くなった・・・・・・
   誰からともなく聞いていた

   祖父の祖先は平家方の武士だった
   名字帯刀も許されて 広大な土地を持ち
   にある墓地や 寺の土地も寄付した家柄だった
   の人たちからは 屋号に「殿(どん)」を付けて呼ばれていた
   それは わたしたちが居た頃も続いていた
   堀田の殿様が下った折りには
   裃(かみしも)姿で出迎え の子供たちには
   学問を教えていた

   それらの事はだが すべて
   わたしたちが物心付いた時には
   過去の栄光 過去の物語と化していた
   広大な所有地
   大人一人が一抱えするような大黒柱を持った
   大きな家 それらは影もなく
   六百坪足らずの敷地に
   八畳一間 六畳一間 台所を持っただけの
   小さなトタン屋根の家に変わっていた
   総ての財産を酒で無くして祖父が死んだ後
   祖母が一人 農家の仕事を手伝いながら
   日銭を稼ぎ 建てた家だった
   --わたしの母を含め 四人の子供たちは
     没落した家を それぞれに離れていた
     他にもいた三人の子供たちは
     幼くして亡くなったーー
   以来 祖母は一人で生きて来た

   そんな祖母とわたしは 第二次世界大戦の末期
   何年か ? あるいは何か月かを
   二人だけで暮らしていた
   その頃 銚子にあった母の嫁ぎ先 父の実家も苦しく
   母も父を助けて働かなければならなかった

   わたしの心に残る祖母の面影
   その面影は多分 その時期に より強く より深く
   わたしの脳裡に刻み込まれたものに違いない
   
   愚痴を言わない人だった
   芯の強い人だった
   過去へのこだわり 大きな家を没落させて
   祖母に苦労を強いた祖父への恨みなど
   一切 口にしなかった 
   すべてを自分の胸に納めたまま 何も語らず
   すべてを悟ったように 静かに
   晩年の日々を生きていた
    ーーそれにしても 祖父がそれ程までに
   酒に溺れた裏には いったい
   何があったのか ?
   自身の生まれ 生い立ちへの 
   言葉には出来ない重圧 に  
   押し潰されでもしたのだろうか ?ーー

   慶応生まれの昔の人 そのため祖母は
   読み書きの出来ない人だった それでいながら  
   聡明な人だった 晩年 失明してからは
   母と二人だけの生活を余儀なくされたが
   母の外出中にも留守を誤り無く守って
   その日の出来事 訪ねて来た人の誰彼を
   逐一 報告した
   失明する以前 母が一度
   父とわたしが暮らす東京へ誘ったが
   --東京大空襲で被災したわたしたち一家は
   戦後しばらく 母の実家に身を寄せていたーー
   祖母はその誘いを受け入れなかった
   「おらあ ここで死んだ方がいい」
   苦労の末に建てた家への愛着だったのか あるいは
   馴れない土地 東京での生活が不安だったのか それとも
   過去の栄光を胸に その栄光と共に
   この地に眠る覚悟だったのか
   祖母の口からは それらについても一切
   語られる事はなかった

   祖母の葬儀の日 かつての祖先が寄付した
   墓地の一角には
   杉の巨木に絡んで 白藤の大きな白い花が
   幾つもの見事な房を見せ 小ぬか雨に濡れていた
   祖母が横たわる白木の柩は両端を
   麻ひもで吊るされ 深く掘られた
   穴の中へ少しずつ
   降ろされていった やがて
   麻ひもが外され 柩は
   穴の底に残された
   遺族の手によって土が掛けられ 
   それから後は の人たちが手にしたシャベルで
   土が掛けられた その間も
   小ぬか雨は 止み間もなく降り続いていた
   五月の樹々の緑がその雨に濡れていた



          ----------------------


          サーカスの女(完)

 信吉は息を呑んでいた。
 女は美しかった。ドレスからむき出しの両の肩、その白い肌に触れる豊かに波打った黒い髪。細面の深い顔立ちに形の良い唇。
 口紅の赤が濡れたように光っていた。
 眼にはアイシャドーと付けまつ毛。ドレスの胸元からのぞく二つの胸の隆起は、信吉の眼には眩しく大胆だった。
 女は全体的にほっそりとした感じで、その白い肌が信吉には陶器の人形でもあるかのように思われた。
 女は静かな微笑みと共にマイクに近寄った。
 信吉はただただ、魂の抜けたように女の動きを見守っていた。ふだん見馴れた女たちとは異なる女性がそこにいた。殊に、女の何処か愁いを帯びたように見える顔立ちが信吉の胸を打った。華やかで美しく、それでいて翳りがあった。
 女はやがて、アコーデオンの伴奏と共に歌い出した。細い艶やかな情感のこもった声だった。

   " 赤い夕陽が砂漠の果てに   
    旅を行く身はラクダの背(せな)に "

 その唄は信吉も知っていた。岡晴夫が歌うのを何度か聞いていた。好きな唄の一つだった。
 だが信吉はその時、女の歌うその唄に、かつて聞いた事のないような感動と共に、胸に沁み入るような感覚を覚えていた。細面の何処か愁いを帯びたようにも見える美貌の女の身の上が、その唄と一つに重なってゆくように思えた。果てしない旅をゆく身・・・・・・。

   " 男一匹 未練心はさらさらないが
    なぜか寂しい日暮れの道よ "

「あんだ、こんなとごろ(所)にいだのが」
 突然、忠助の声が聞こえた。
 振り返ると忠助と高志が傍に来ていた。
「サーカスやってのが ?」
 高志が言った。
「いま、入れげえ(入れ替え)だ」
 春男が言った。
 高志は中を覗きに行った。
 すぐに戻っ来た。
「へえって(入って)みねえが ?」
 信吉は言った。
「駄目だあ。おらあ、金がねえよ。すっからがんだあ。将棋ば二番やってまげ(負け)じまっただあ」
 高志は言った。
「将棋ばやってだのが」
 義雄が言った。
「ああ、あんチキショウ(畜生)、やげにつえだ。ちょこちょこってやって、二番まげだだ」
 高志は悔しそうに言った。
「入場料、大人三十円で、子供十五円だってよ」
 忠助が入り口の料金表を見て言った。
「あんつう(なんて言う)歌手だあ」
 高志が櫓(やぐら)の上で歌う女性を見て言った。
「春風京子だってよ」
 良二が言った。
「ふうん、聞いだ事がねえな」
 高志は言ったが、それでも女の唄に聞き入るように見つめていた。
 女は更に別の唄を歌っていた。

  " 村の一本橋 恋の橋
   渡っておいで 月の出に "

 二葉あき子の唄だった。女は軽い弾むようなリズムで歌った。
 その唄が終わると開幕のベルが鳴った。
 呼び込みの男は一層、声を張り上げた。
「さあさあ、始まり、始まり !」 
 テントの中で拍手が起こった。
 入り口から覗くと舞台には、一輪車に乗った男女が次々に出て来て、華やかな衣装が証明にキラキラ映えた。
「こっがらでも見えっでねえが」
 高志がほくそ笑んで言った。
 舞台では一輪車に乗ったピエロ達が次々に出て来ていた。すると、大きく開いていた入り口が閉ざされ、中が見えなくなった。入場者は小さな入り口からテントを押し分けるようにして入った。
「チェッ」
 と春男が言った。
「ケチりやがってよう」
 義雄が悔しそうに言った。
「いぐ(行く)べえや」
 高志が諦めたように言って、みんなはその場を離れた。
 境内の粗方のものは見ていた。陽の翳りぐわいで午後の時間が分かった。
「そろそろ、けえっべえ(帰る)が」
 高志が言った。
「そうだなあ。はあ、二時ばすぎ(過ぎ)だっぺえ」
 忠助が言った。
 みんなはそのまま、境内へは戻らなかった。裏の道を辿って帰路に付いた。
 信吉はサーカスが見たかった。夢のような女の面影と哀調を帯びた世界がまだ脳裡に残っていた。
 他の者たちは信吉には無頓着だった。なんとなくふざけ合いながら畑の中の細い道を辿って歩いた。
 信吉はふざけ合う他の者たちとは裏腹にだんだん無口になっていた。朝から歩き通しだった疲労のためばかりではなかった。それはみんなも同じ条件下にあった。疲労感は彼等に帰りの道が果てしなく遠いもののように感じさせていた。ただ、信吉は、そんな中でもみんなと離れて独り、サーカスの世界を頭の中に描き続けていた。華やかでいながら、何処か哀調を帯びた世界。そして、あの美しい女。
 サーカスは金毘羅が終わると、今度は何処へ行くのだろう。あの女は今度はどんな所であの唄を歌うのだろう。出来ればあの女の近くにずっと居たいという思いが信吉を苦しめた。
 信吉達がへ帰り着いた時には日は暮れていた。家々が暗闇の中にあった。どの家もが木の間がくれに灯りを点していた。

          5

「あんだ。今頃まで遊んでいだのが。さっさとけえって(帰って)くればいいによお」
 母が言った。
 夕飯の支度が出来ていた。八畳の座敷に食卓が出ていた。
 茶碗や煮物、お新香などが電燈の光りの下にあった。
 祖母が一人、その前にちょこんとかしこまって座っていた。
「父ちゃんは ?」
 信吉は釜屋から座敷に鍋や釜を運んでいる母に聞いた。
「今、風呂にへえって(入って)るよ。父ちゃんが出だら、すぐへえってしまいな」
 母は言った。
「おらあ、へえんねえ。腹へった」
 信吉は言った。
「昼飯も食わねえでいだのが ?」
 母は言った。
「食ったよ」
 信吉は言った。
 縁側の踏み台へ行くと竹の皮で出来た鼻緒の下駄を取った。草履を脱いで裸足になり、井戸端へ行った。
 井戸端では釣瓶で水を汲み、下駄に乗せた裸足に釣瓶からの水を浴びせ掛けて洗った。水は冷たかった。
 縁側に戻ると腰を掛け、雑巾で濡れた足を拭いた。
 座敷に上がると奥の間から床を取り終えた姉の道代が出て来た。
「信吉ったら、足がまだ濡れでっでねえがよお」
 と言った。
 信吉は取り合わなかった。
「かあちゃん、こづげえ(小遣い)ののごり、仏壇の上さ置くど」
 鍋釜を運び終わって土間にいた母に言った。
「婆ちゃん、お茶ば入れでやっがい ?」
 道代が祖母の耳元で言った。
「ああ、有難うよ」
 祖母は言った。
 風呂から上がった後の祖母は血色が良かった。皴だらけの顔がつやつやしていた。

「あじょうだった(どうだった)金毘羅は ? 人が出だがい」
 母が聞いた。
「うん、いっぺえだった」
 信吉は御飯を口に運びながら言ったが、怒られたように元気がなかった。
 実際は、父も母も怒りはしなかった。父も母と同じように、
「いづまでほっつき歩いでっだよお」とは言ったが、それだけだった。
 信吉は三杯目の御飯だった。食欲だけは旺盛だったが、気持ちは晴れなかった。
 疲れもあった。体中の力が抜けていくような感覚の疲労感を覚えていた。それに、あの夢のようなサーカスの世界の余韻がまだ頭の中から消えていなかった。
 だが現実は、早くもそんな夢のような世界を遠い世界のものとしていた。眼の前には何時もと変わらない世界。何時もと変わらない電燈の灯り。何時もと変わらない食卓の茶色い漆の輝き。そして、父と母、姉の道代と祖母。
 信吉はそんな中で無意識のうちにサーカスの女の事を思い続けていた。
 年は二十三か四だろうか。スラリとした体に、はっきりとした輪郭の細面の顔立ち。両の肩から胸元にかけての透きとおるような肌の白さ。
 女は今もあの舞台で歌って居るのだろうか?
 信吉は夜のサーカスの舞台を思い描いた。
「御飯は ?」
 母が言った。
「いんねえ」
 信吉は箸と茶碗を食卓に置いた。
「お茶が ?」
 母は言った。
「いんねえ」
 信吉は言った。
 ラジオでは「今週の明星」が始まっていた。
 テーマ曲に乗せてアナウンサーの「今宵また流れる歌の調べに乗せてお送りする今週の明星」という声が聞こえた。
 信吉は食卓の前を離れた。
「すぐ風呂にへ(入)えってしまいな」
 母が言った。
「へえんねえ」
 信吉は言った。
「信吉はまだ、あに(なに)ば怒ごってっだや。そんなに腹ばたでるもんでねえだよ」
 祖母が勘違いをして突拍子もない事を言った。
「怒ごってだねだい」
 道代が祖母の耳元で言った。
 祖母はその言葉が聞こえたのか、聞こえなかったのか、
「男の子っつうのは、気持ぢばでっかぐ持だねえどいげねえど」
 と、諭すように言った。
 道代はもう何も言わなかった。
「風呂さへえんねえって、おめえ、一日中歩いで来て真っ黒だっぺよお」
 母は咎めるように言った。
「井戸端で足ば洗ったよお」
 信吉はそう言うと、さっさと次の間に行った。
 電灯を点けると寝床の前でズボンを脱ぎ、寝間着に着かえた。
「道代、煙草ば取ってくんねえが」
 まだ晩酌を続けている父の声が聞こえた。
「煙草 ? 何処にあっだ(ある)がい」
 姉が言った。
「仏壇の上がな」
 父が言った。
 信吉は布団の中に入ると、頭から掛布団を被った。いつも聞く「今週の明星」も聞きたくなかった。暗い中でただ、あのサーカスの女の事を考え続けていたかった。
 
             完