遺す言葉

つぶやき日記

遺す言葉 258 新宿物語 5 ナイフ 2 純愛 他 アメリカンハンバーガ

2019-08-31 15:04:45 | つぶやき
          アメリカンハンバーガー(2019.8.18日作)

   なんという便利さ
   なんという無神経さ
   なんという粗雑さ
   なんという巨大さ
   なんという乱暴さ
   なんという下品さ
   最低部類の料理
   アメリカンハンバーガー
   まるで豚の餌のようだ
   それでも
   アメリカという国は
   嫌いじゃない
   自由で大雑把で
   どこか神経質
   尊大な国
   アメリカ

   (アメリカントランプは嫌いだが)



          ----------


 (8)

 俊一は帰宅して部屋へ入ると同時に、雰囲気がいつもと違う事を敏感に感じ取った。
 テレビも点いていなかった。
 いつもは食事をしている由美子が、両腕に頭を乗せ、うつ伏せになって背中を見せていた。俊一が帰った物音を聞いても、顔さえ上げなかった。
 俊一は不安を覚えた。
 妊娠している体に何か異変があったのか ?
「どうしたんだよ、何処か悪いのか ?」
 気遣って聞いた声には怯えが混じっていた。
 背中を見せた由美子が死んでいるわけではない事は、微かに体を震わせて泣き始めた事で分かった。
「どうしたんだよ。具合が悪いのか ?」
 由美子の傍へゆき、背中に手を置いた。
「俊ちゃんの嘘つき ! なぜ、わたしを騙したのよ。なぜ、貧乏なんて平気だって言ったのよ」
 顔を上げて振り向いた由美子は、猛然と食って掛かった。
 一晩中、泣き明かしていたのではないかと思われる程に、やつれを見せていた。
「どうして、俺が嘘つきなんだよう」
 俊一は訳が分からずに、呆気に取られて言った。
「だって、そうでしょう。あんたの家は大きな医院で、あんたはお医者さんになって、その跡を継ぐんだって言うんじゃない。それなのに、なんで貧乏なんて平気だなんて言ったのよ !」
 涙まみれになった顔で由美子は、怒りに満ちた視線を俊一に向けると一気に言った。
 俊一は息を呑んだ。
「誰が、そんな事を言ったんだよ」
 それだけを言うのがやっとだった。
「誰が言ったって、あんたのお母さんよ。あんたのお母さんが昨夜(ゆうべ)、わたしの所へ来て話してくれたわよ」
「ここへ来たのか ?」
 すぐには信じられなかった。
「そうじゃないわよ。わたしのいるお店へ来て、仕事が終わったあと、近くの喫茶店へ行って、話してくれたのよ」
「おふくろ、一人だったのか ?」
「男の人と一緒だったわよ」
「どんな奴だった ? 五十歳位の男か ?」
「違うわよ。四十歳位で、興信所の人みたいだったわよ。その人、わたしの両親の事や、妹がおばあちゃんの所にいる事や、わたしの妊娠の事まで知っていたわよ」
「それで、おふくろはなんて言ったんだ」
「あんたと別れろって言ったわよ。いろいろ、お金が必要だろうから、その分は持つからって、分厚い封筒を出して、あんたは今、休学しているけど、すぐに医科大学の試験を受けなければならないんで、遊んでいる暇はなんだって」
「それで、金は受け取ったのか ?」
「そんなお金、受け取れる訳ないでしょう」
 由美子は怒りに満ちた口調で言った。
「心配すんなよ。俺たちは俺たちだよ。おふくろの言った事なんか気にしないで、今まで通りにやっていこうよ」
「俺たちは俺たちだって言ったって、生まれも育ちも違っていて、どうやって上手くやってゆくのよ。今まで、一緒にいられたのも、あんたがわたしみたいに一人ぼっちだと思ってたからよ。病院があって、最新型のベンツを乗り回しているような親がいる家の子と、わたしみたいな孤児(みなしご)同然の人間とで、どうやって上手くやっていけると思ってんのよ。あんたは貧乏ぶって、一人ぼっちぶってるけど、いざという時には、いつでも帰って行ける家もあるし、両親もいるわ。それに比べてわたしなんか、家もないし、両親も行方知れずなのよ」
 由美子は涙に濡れたままの顔の厳しい視線を俊一に向けて、きっぱりと言い放った。
「いいか、由美子。俺は家を出たんだよ」
 俊一は自然と昂ってくる感情を懸命に抑え、諭すようにして言った。
「なんで出たのよ。奈木医院の御曹司が、家を出なければならない理由なんてある訳ないじゃない」
「俺はあの病院を継ぐ気もないし、医者になる気もないんだ。だから出たんだよ」
「そんなの、お坊ちゃん育ちの我がままよ。いつか気が変われば、きっと帰ってくわ」
「そんな事ないよ。俺には俺の生き方があるんだよ。親に押し付けられた生き方なんてうんざりだっていう気がするんだ。そのために、どんな事があっても、自分で責任を取る覚悟は出来てるんだ」
「だからって、そんな事、わたしになんの関係があんのよ」
「関係ないわけないじゃないか。俺達には子供まで出来てるんだぞ」
「子供なんて、堕胎(おろ)せば済む事だわよ。まだ、三か月で、手遅れにはならないわよ」
「よく、そんな事が言えるな。由美子は俺が嫌いなのか」
「嫌いよ。嘘つきなんて、大っ嫌いよ !」
 なぜ、由美子がそこまで激怒するのか、俊一には理解出来なかった。
 あるいは、二人が生まれ育った環境のせいか ?        
 頼る人もいない孤独な日々の中でようやく見つけたと思った、同類とも思える相手が、思いもかけない裕福な世界に属していた。
 由美子に取っては、自分と同類と思っていた俊一に出会った喜びと期待が大きかった分だけ、裏切られたという思いもまた、一層、強いものになっていたのかも知れなかった。
 だが、だからと言って、俊一には、今以上に出来る事はなかった。自身が生きて来た過去が由美子の前では、もはや、取り返しの付かない過誤であった、とでも言うのだろうか ?
「いいかい、由美子、落ち着けよ。俺は由美子には何も悪い事はしてないんだぜ。俺の母親が由美子になんて言ったか知れないけど、母親が言った事なんて、忘れろよ。俺達には関係ないよ。俺たちは俺たち二人でやっていこうよ」
「わたしだって、忘れたいわよ。でも、お坊ちゃん育ちのあんたなんかに、一人ぼっちのわたしの気持ちなんて分かるはずがないわよ」
「そんな事ないよ。俺はいつでも由美子の傍にいるよ」
「それでも、あんたはいつだって、良家の影を引き摺ってるのよ。親から見捨てられて一人ぼっちのわたしなんかとは、根っこから違ってるのよ。あんたのお母さんが言う
ように、一緒に暮らしていたって、土台、無理な話しなのよ」
「バカ、そんなに自分をいじめるんじゃないよ」 
「バカでもなんでもいいわよ。あんたはもう、本当の事を知る前の俊ちゃんじゃないわよ。ここを出て行ってよ」
「やだ ! 出て行かない」
「あんたが出て行かないんなら、わたしが出て行くわよ。どっちにしたって、あんたのお母さんが、わたしとあんたを引き離しに来るわよ。あんたが家へ帰るまで、何回でも来るから、よく考えておくようにって、お母さん、言ってたから。わたしたちがここに居る事もお母さん、知ってたわ」
 俊一は母親への滾(たぎ)るような憎悪を覚えた。力なく俊一は言った。
「おふくろの事は俺の方でなんとかするよ」
 由美子はそれでも、俊一の言葉を受け入れなかった。

 諍いのあった翌日、由美子は普段と変わらない時刻に支度をして家を出た。
 俊一は冷却期間を置けば、いずれ、由美子も冷静さを取り戻して、再び、元通りの生活が出来るようになるだろう、と考えた。 
 その日、俊一はいつもの通り、午後六時過ぎに歌舞伎町の由美子が働く店に立ち寄った。
 だが、由美子の姿はなかった。

 

 


 

遺す言葉 257 新宿物語5 ナイフ(2) 純愛 他 雑感五題

2019-08-24 15:45:42 | つぶやき
          雑感五題(2019.7--8月作)

   信仰とは 単純に神に帰依するものではない
   自身の内面に築かれた基準に従い
   それを忠実に生きる事だ
   宗教ばかりが 信仰の対象ではない
   -----
   他力本願的な神など 存在しない
   自分の心の中に見据えた
   自身が信じ得る対象物
   それが神だ
   信仰とは その対象に向かって
   自身を生かす事だ
   -----
   宗教とは
   神という仮面を被った悪魔 とも
   なり得るものだ
   -----
   教養とは良識である
   良識とは他人を思い遣る心である
   知識があっても
   他人を思い遣る心のない人間を
   教養人とは言わない
   -----
   商人は利益を得る事を 卑下すべきではない
   得た利益を どのように使うかが問題なのであり
   商人の価値は それによって決まる
   -----
   この世を生きるという事は
   つまり 人生は
   おもちゃ箱を 引っ掻き回すようなものだ
   その中で 宝石を探り当てる者もいれば
   我楽多を掴む者もいる


         ----------


 (7)

 時刻はこの前、来た時とほぼ同じ時刻だった。再び、牧子が訪ねて来た。
 牧子は自動ドアを一歩入った所で、レジにいる俊一を囁くような声で呼んだ。
「お兄ちゃん」
 俊一が思わず顔を上げると、牧子は手招きした。
 俊一はまたしても不意打ちを受けた思いで少し不機嫌になった。
 一人の客の支払いが済んだあとでレジを出ていった。
「お母さんが来ているの。ちよっと来て」
 牧子は俊一に顔を寄せるようにして小声で言った。
 俊一は息が詰まった。咄嗟に言葉が出なかった。体が堅くなっていた。
「今、車の中で待ってるわ」
 牧子は素早く言った。
「おまえ、しゃべったのかよ」
 思わずなじる口調になって、俊一は言った。
「だって、黙ってる訳にはゆかないでしょう」
 牧子も俊一の口調に対抗するように強い口調で言った。
「駄目だよ。今、レジを離れられないよ」
 レジにいた相棒は、この前の先輩とは違っていた。
「お客さん、いないじゃない」
 牧子は、なおも強硬に言った。
「いつ来るか分からないだろう」
「忙しくないんだから、あの人に頼めばいいでしょう」
「そんな事、出来るかよ。仕事なんだぞ」
「じゃあ、お母さん、呼んで来るわ」
「バカ、余計な事、すんなよ」
「じゃあ、来てよ」
 牧子は引かなかった。
「なんだって、余計なお節介をすんだよ。俺の事なんか、放っておけばいいだろう」
「そんな訳にはゆかないわよ」
 牧子は怒って、また言い返した。
 俊一は胸元から全面を被っている前掛けを外して、レジの傍へ戻ると、同じ年頃の相棒に、
「わりいけど、用事が出来たんで、ちよっとそこまで行ってくっから」
 と言って、レジスターの下へ前掛けをしまい、牧子の待つ店の外へ出た。
 牧子の後に付いて歩いて行くと、この前、二人の少女たちが立っていた場所に、見覚えのあるベンツが停まっていた。
 車内灯を点した運転席に母がいるのが遠くからも確認出来た。
 俊一はなおも押し黙ったまま、牧子の後に付いて行った。
 車の傍へ来ると牧子は、ドアを開けて運転席の隣りに座るように俊一を促した。
 俊一は黙ったまま、牧子の指示に従った。
 母は、隣りに座った俊一に顔を向けたが、何も言わなかった。
 俊一はふと、このまま連れ去られるのでは、と恐れた。
 牧子はまだ、ドアの外に立っていた。    
 もし、牧子が後部席に着いて、そのまま車が走り出したらいつでも飛び出せるようにと、ドアノブに手を掛けたまま身構えた。
 牧子が後部席に着いてドアを閉めた。
 母はだが、車を発進させる様子はなかった。
 それでも、ドアを閉めて車内と外の世界とが遮断された瞬間、母は、今まで抑えていた感情を抑え切れなくなったかのように、激しい口調で言った。
「俊ちゃん、あなた、いったい、どうしたの ? 何も言わないで家を出ちゃって。お父さんやお母さんが、どんなに心配したか分かっているの ?」
 俊一は黙っていた。
 母は続けた。
「あなたこのまま、お家(うち)へ帰りなさい」
 母の激しい口調にも、俊一の感情は冷え切ったままだった。
「いや、帰らないよ。帰るつもりはないよ」
 と、静かに言った。
「帰らないって言ったって、こんな所で働いていて、いったい、どうするつもり?」
 母の激しい口調はまだ治まらなかった。
「どうもしなさい。このまま、ここで生活してゆくよ」
「こんな生活をしていて、将来、どうなると思うの ? 進学の事や、病院の事はどうするの」
「そんな事、俺には関係ないよ。俺には今の生活が一番合ってるんだよ。だから、放っておいてくれよ。自由にしておいてくれよ」
「あなた、たった二度の試験の失敗で少し、弱気なっているだけなのよ。もう一度やり直せば出来るわよ。だから、お家に帰って、もう一度、やってみなさいよ」
 母は諭すように言った。
「だけど、出来る出来ないの問題じゃないんだよ。俺には今までのような生き方が好きになれないんだよ。そんな生き方が、幸せだとは思えないんだ」
「だったら、今の生活が幸せだって言うの ?」
「そうさ、今、俺は今まで生きて来た中で一番幸せさ」
 母の眼差しが鋭くなった。
「誰か、女の人でもいるの ?」
「そんなのいないよ !」
 俊一は吐き捨てるように言った。心臓を突き抜かれたような思いで動揺した。
「今、何処に住んでるの ? 誰か、女の人といるの ?」
「そんなのいないって言っただろう。俺が何処に住んでいようと、俺が俺で生きてるんだから、それでいいだろう」
 母は黙った。俊一の心の奥を探るようにじっと見つめた。
「じゃあ、どうしても帰らないって言うのね。お父さんにそう言ってもいいのね」
 母は心を決めたように言った。
「帰らない」
 と、俊一は言った。
「そう、じゃあ、行きなさい。わたし達も帰るから」
 感情も顕わだった母は何処にもいなかった。静かに言った。
 俊一は母のその言葉と態度の豹変ぶりに、思わず、心の凍り付く感情を覚えた。同時に背筋に冷たいものの走るのを意識した。
 俊一は母の言葉に促されるようにドアを開け、外へ出た。
「お兄ちゃん !」
 牧子が強い口調で俊一を諭すように言った。
 母は、そんな牧子の言葉も聞こえないように、俊一が出たあとのドアを閉めた。
 ベンツはすぐにエンジンの音を響かせた。
「お兄ちゃん !」
 再び牧子が、車のドアを開けて言った。
 車はそんな牧子の言葉を後に残したまま走り出し、瞬く間に夜の中に消えて行った。
 俊一は一人残され、路上に立っていた。
 走り去った車が小さくなるのと共に、多少の感傷が生まれたが、後悔の気持ちはなかった。これでよかったんだ、と思った。
 久しぶりに顔を合わせた母の心を傷つけてしまった事を思うと、心が痛んだ。それでも仕方がないんだ、と自分に言い聞かせた。俺は俺で生きてゆく、そう思うと不覚にも涙が滲んだ。

          3

 


 





 
 


遺す言葉 256 新宿物語 5 ナイフ(2)純愛 他 宿命

2019-08-17 15:47:50 | つぶやき
          宿命(2019.8.8日作)

   人は宿命を背負った存在
   この世に生まれる事自体が 一つの宿命 一つの偶然
   自己の力の及ばぬ事
   人は日々 定められた宿命を生きている
   それだけのもの
   人はだが 限定された存在などではない
   無限の可能性を持つ存在
   背負った宿命は誰の眼にも見えぬもの
   今日 行き止まりの道も
   明日は開ける道かも分からない
   今日の幸運も
   明日の不幸を宿したものかも分からない
   すべては未知の世界 背負った宿命が決定付ける
   人の力で可能な事は 今を 生きる事
   自己の限界を求めて 生きる
   結果を問うのは愚かな事
   充実した今 この時こそが
   人の求め得る 至上のもの
   結果は宿命のみが知る


         ----------


 (6)

 ドアの外に立っていたのは妹の牧子であった。              
 牧子は今にも泣き出しそうな顔をしていた。
 時刻は午後十一時に近かった。
 牧子がなぜ今頃、こんな所にいるのか、俊一にはすぐに理解出来なかった。
「ちょっと、すいません」
 俊一は相棒の先輩に挨拶すると、慌ててレジを離れていった。
 入り口に近づくと自動ドアが開いて、自然に牧子と向き合う形になった。
「なんだよ。なんで今頃、こんな所にいるんだよ」
 口調は乱暴だったが、妹を気遣う優しさもまた、滲み出ていた。
「お兄ちゃんこそ、なんで、こんな所にいるのよ」
 牧子は怒って言った。と同時に、今まで堪えていたものが一気に溢れ出たかのように泣き出した。
「こんな所で泣くなよ、バカ。見っとも無いだろう」
 俊一は店内にいる先輩の視線を気にして言った。
 牧子もすぐに冷静さを取り戻して、懸命に溢れ出る嗚咽を堪え、手の甲で涙を拭った。
「なんで今頃、こんな所にいるんだよ」
 俊一は改めて穏やかに牧子に問い質した。
 牧子が両親の眼を盗んで、深夜近くの新宿、歌舞伎町を歩き廻るなど、考えられもしない事だった。
「お兄ちゃんが此処にいるって、友達に聞いたんで、だから来てみたのよ」 
 泣き止んだ牧子は、俊一を咎める強い口調で言った。
「こんな夜遅くに、一人でか ?」
 牧子の身を心配するように言った。
「一人じゃないわよ。向こうにお友達がいるわよ」
 牧子は顔を横に振りながら、相変わらず厳しい口調で言った。
 牧子が首を振った方角を見ると、薄暗い闇の中に、牧子と同年配と思われる二人の少女がいた。二人は何かを話し合っている風で、俊一が見た事には気付かなかった。
「お父さんや、お母さんには言って来たのか ?」
「言ってないわよ」
 牧子は投げ付けるように言った。
「お父さんや、お母さんは、俺がここにいるのを知ってるのか ?」
「知ってないわよ」
 牧子の感情も次第に治まって来たようで、幾分、冷静さを取り戻していた。
 俊一は、牧子がこんな夜遅くまで出歩いている事が心配になって聞いた。
「こんな遅くまでいて、大丈夫なのか ?」
「大丈夫よ。お母さんには、友達の誕生パーティーでお泊りするからって言って来たから」
「じゃあ、これから友達の所へ行くのか ?」
「そうよ」
「お父さんや、お母さんはどうしてる 。怒ってるだろう ?」
「怒ってるっていうより、心配してるわよ。心配していて、お母さんは一時、具合が悪くなっちゃったわよ」
 牧子はまた、涙声で言った。
「で、今は元気になったのか ?」
 俊一もさすがに心配になって聞いた。
「元気じゃないわよ。毎日、蒼い顔をして、お兄ちゃんがどうしているのか心配してるわよ」 
「お父さんは ?」
「お父さんは、今度の事では何も言わないけど、すっかり、無口になっちゃったわよ。--お兄ちゃん、家へ帰りなさいよ ! お兄ちゃんのせいで、家の中がめちやめちゃよ。家の中でみんなが黙ってるんで、咲さんだって気を使っておろおろしているのよ」
「俺は帰らないよ」
 俊一は力なく言った。
「なぜ ? なぜ、帰らないの ! 大学へ行きたくないから ?」
「そんなんじゃないよ」
「じゃあ、なぜ帰らないの !」
「今の生き方が、俺には一番合ってるからだよ。今の生活なら、自由にのびのびと息が出来るんだよ」
「自由でのびのびしてるかも知れないけど、将来の事はどうするのよ。病院の事や、家の事はどうするの ? そんな勝手気ままなことばかり言っていて」
「そんな事、考えたくもないよ。そんな事を考えると息が詰まりそうで、イライラして来るよ」
「勝手よ。自分勝手よ。少しはお父さんや、お母さんの事を考えてあげたらどうなの よ ?」
「大きな声をだすな。バカ ! 人が見てるだろ !」 
 俊一は激した牧子をなだめるように言うと、店の明かりの乏しい暗がりへ連れて行った。
 牧子はまた、昂る感情と共に声を出して嗚咽した。
 俊一はそんな牧子を再びなだめるように、穏やかな声で言った。
「俺はもう、人の事を考えるのは沢山なんだよ。いつからか知らないけど、俺はずっと人の事を気にしながら生きて来たっていう気がするんだ。学校の先生や、お父さんやお母さんに尻を叩かれながら、競走馬のように脇目もふらずに、夢中で走って来たっていう気がするんだ。そして、その結果が、惨めな敗北さ。しかも、二度までも。もう、沢山だっていう気がするよ。何が、何処で、どうなってしまったのか分からないけど、お父さんの跡を継ぐ事も、医者になる事も、今、考えてみれば、本当に自分で望んでいた事だったのかっていう気がしていて、夢中になる事が出来ないんだ。だから今はただ、自分自身に還って、本当の自分の気持ちを生きてみたいって思うだけなんだ」
「それだって、自分の将来の事だけならともかく、家の事や、家族の生活までめちゃくちゃにしちゃって、自分勝手よ。我がままなだけじゃない」
「確かに、我がままかも知れないけど、俺には、俺の人生があるっていう気もするんだ。だから、今はただ、その自分の人生を見付けて生きてゆきたいって思うだけなんだよ。そして、その結果がどうなっても、それは自分自身の責任でどうしようもないって思うのさ」
「じゃあ、どうしても家へは帰らないつもり ?」
「うん、帰らない。帰りたくないんだ」
「お父さんや、お母さんになんて言ったらいい ?」
「とにかく、俺が気持ちが落ち着いて、お父さんや、お母さんに、ちゃんと話せるようになったら、俺の方から電話をするから、それまでは、俺の事を話しちゃ駄目だよ。俺がここにいる事も話しちゃ駄目だ」
「いつまでも心配を掛けていて、平気なの ?」
「平気じゃないけど、今は駄目だ。とにかく、お父さんやお母さんには、心配しなくても、お兄ちゃんはお兄ちゃんなりに、頑張ってるみたいよって、言っておいてくれればいいよ」
「そんなに、お兄ちゃんの都合よくばかりは言えないわよ」
「駄目だ。とにかく、今は駄目だ。俺がここにいる事も絶対に言わないでいてくれよ」
「勝手な事ばかり言ってるんだから」
 牧子は怒って言ったが、ふと、友達を待たせてある事が気になった風で遠くを見た。それから、
「わたし、もう行くはわよ。お友達が待ってるから」
 と、突き放すように言った。
「帰るのか。気を付けて帰れよ。タクシー代、やろうか ?」
「いいわよ。お友達と一緒だから大丈夫よ」
「じゃあな、気を付けて帰れよ。お父さんとお母さんには絶対に、今夜の事は言っちゃ駄目だぞ」
 俊一は暗がりに立ったまま、後ろ姿を見せて夜の中に遠ざかって行く牧子の姿をいつまでも見つめていた。

 それから、八日目の事だった。





 
 
 
 


 

遺す言葉 255 新宿物語(5) ナイフ(2)純愛 他 演技の見本帳 映画 東京暮色

2019-08-10 17:33:22 | つぶやき
          演技の見本帳 映画 東京暮色(2019.8.2日作)

   久し振りに再見した映画
   小津安二郎監督
   東京暮色 昭和三十二年製作
   まず 出演者の豪華さに圧倒される
   小津組の常連 原節子 笠智衆
   他に
   杉村春子 山田五十鈴 浦辺粂子 
   長岡輝子 有馬稲子 山村聰 
   宮口精二 中村伸郎 信欣三
   名だたる名優たち
   脇役陣も 藤原釜足 田中春男 高橋貞二 始め
   演技巧者揃いの多士済々
   作品は例によっての小津調 端正な画面 と
   静かな語り口のストーリーが展開される
   眼を奪われるのは 名だたる名優たちの演技
   まずは冒頭 飲み屋の女将
   浦辺粂子が見せる 常連客の上客 と
   一見の客とに対する対応 応答 その
   微妙な差異 ちょっと見には分かり得ない
   演技の揺らめきとも 受け取られ兼ねない
   態度の違いによる 見事な演じ分け 更に
   杉村春子による例の 飄々とした演技
   その中 見せ場は
   トイレに向かい走る時の 後ろ姿の絶妙さ
   言いようのない可笑しさに 思わず
   吹き出したくなるーーこれも小津調のユーモアーか
   作品の中心になるのは 笠智衆 と
   原節子 有馬稲子姉妹との親子関係 この中
   原節子が父 笠智衆に向き合う様々なシーンに於ける 演技
   ためらい 戸惑い 喜び 哀しみ 他 怒り 各場面で見せる
   正面 クローズアップ あるいは 背中で見せる表情 その
   美しさ 切なさ 哀しさ 困惑 等々
   見事の一言に尽きる 背中の演技は
   山田五十鈴も見せる それでも この作品の圧巻は
   ラストシーン近く 汽車の窓から顔を出し 混雑する
   駅のホームに娘の原節子の姿を探し求める かつて
   二人の娘を捨て 他の男へ走った母
   山田五十鈴が見せる 眼の演技
   期待と不安のない交ぜになった微妙な
   眼球の動きと 輝き その変化が主人公の内面
   気持ちの全てを表現し し尽くす 結局
   娘の原節子は現れない 発車を知らせる汽笛と共に
   北海道へ旅立つ連れの男 中村伸郎との 何気ない遣り取り
   その中で見せる 寂しさの演技もまた 見事の一言
   千九百五十七年 既に五十年以上も前に制作された
   この作品に満ち溢れる名優たちの豊かな演技
   今日現在 この国 日本の映画 演劇界に於いて
   これだけの演技を見せてくれる俳優 役者達は
   存在するのだろうか NHK大河ドラマに代表される
   ーーもっとも 大河ドラマは見た事もなく 数秒の
     コマーシャルの中でのみの知識ではあるがーー 
   大声で怒鳴り散らし 大げさな表情 身振り で 表現するだけの
   大味な演技が幅を利かせる昨今 いったい それは
   時代と共に進化した結果なのか それとも
   退化した事による 結果 なのか ?


          -----------


 (5)

「帰りたくなんかないよ。家の事なんか忘れちゃったよ」
 由美子が食べていた夏みかんの半分を手にして口へ運びながら言った。
「お父さんは何をしている人 ?」
「関係ないだろう」
 俊一は夏みかんの酸っぱさに顔をしかめながら、テレビの画面に視線を向けて言った。
「俊ちゃん、ちっとも家族の事や家の事を話してくれないからさ」
 探りを入れるような由美子の口振りに、俊一は違和感を覚えた。
「家の事なんか思い出したくもないよ。家は家、俺は俺、関係ないよ」
 不機嫌に言った。
「本当に、そう思ってるの ?」
「どうしてだよ。どうして、そんな事を言うんだよ」
「俊ちゃん、あたしとよく似てると思ってさ」
 安心したように由美子は言った。
「うるさい親なんて、大っ嫌いさ」
「お父さんやお母さんがうるさいの ? それで、もう、家へは帰らないつもり ? 今みたいな生活をしていて、将来の事が心配にならない ?」
「心配なんかしてないよ。どうにか生きてゆければ、それでいいじゃないか」
「でも、もっといい生活をしたいと思わない ?」
「思わないよ。俺には今の生活が一番いいんだ。由美子はもっといい生活をしたいのかよ。誰か金持ちのパトロンでも見つけて、左うちわで暮らしたいのか」
「ううん、そうじゃないけど、俊ちゃん、もしもね。もしもよ。わたしたちに子供が出来たらどうする ? 産む方がいい ?」
「えっ ! 子供が出来たのかよう ?」
 俊一は驚いて聞いた。さすがに今、この時点では受け入れがたかった。
「そうじゃないわよ。だから、もしもって言ったでしよ」
 由美子は慌てて否定した。
「驚かすなよ」
 俊一は苦笑いと共に安堵したように言った。
「驚いた ?」
「驚いたよ。今、俺たちに子供が出来たら、どうしようかと思ってさ」
「お金もないしね」
「そうだよ」
「でも、何時かは欲しいって思わない ?」
「何時かはね。何時かは欲しいよな。それまでに一杯貯金をしなきゃあ、どうしょうもないけどな」
「部屋もこんなに狭いしね」
「うん」
「俊ちゃん、本当にあたし達の子供が欲しいって思ってるの ?」
「なんでだよ。なんでそんな疑い深い眼で見るんだよ」
 俊一を見つめる由美子の眼に見る見る間に涙が満ちて来た。それが溢れて頬を流れ落ちた。
 由美子は二度三度すすり上げてから手の甲で流れ落ちる涙を拭った。
「本当の事を言うとね、わたし、子供が出来たみたいなの。いつもと違うの。一緒に働いているお店の子に聞いたら、妊娠したんだよ、って言われちゃったの」
「本気かよ ! 嘘字じゃないだろうな。病院へ行って診て貰ったのか」
 俊一は正真正銘、息を呑んで言った。
「ううん、まだ病院へは行ってないけど・・・・。俊ちゃんがなんて言うか心配だったから」
「で、由美子はどうなんだよ。産みたいのかよ」
「俊ちゃんが産んでいいって言うんなら、わたし産むわ」
「当たり前だろう。なんで俺が駄目だって言うと思ったんだよ」
「だって、さっきも言ったでしょ。わたしたち、お金もないし、こんなちっちゃな部屋だし、どうしようもないと思ってさ。それにわたし、両親もちゃんとしていないから、子供を産んでもどうしたらいいのか分からないから、心配なんだもん」
「関係ないよ、そんな事」
「貧乏でも平気 ?」
「平気だよ。その分、一生懸命働くよ。産んでしまえば何とかなるさ」
「でも、わたし、両親が前にも言った風で、面倒見てくれる人もいないんだよ。それでも平気 ?」
「親なんか関係ないって言っただろう。俺たちは俺たちだよ。なんとかやっていけるよ」
 由美子は相変わらずすすり上げながら、手の甲で流れ落ちる頬の涙を拭っていた。
「いいか、もし、妊娠だって分かったら、絶対、無理すんなよ。その分、俺が働くからさ」
「どうして、こんな生活なのに、そんなに子供が欲しいの ?」
「そんな事、俺に分かるかよ。でも、俺と由美子との間に子供が生まれるなんて、夢みたいだと思わないか ?」
「うん、思う」
 由美子の妊娠に間違いはなかった。その瞬間から由美子は、一人の少女から大人の女に変身していた。一つ一つの身のこなしや顔の表情に、今までには見る事も出来なかった、大人の女の艶めかしさが漂うようになっていた。        
 俊一はそんな由美子の変化に眼を見張る思いだった。由美子と出会ってから九か月が過ぎていた。
 俊一は時折り、ふと、今の自分の生活が、何か別の世界の出来事ではないか、と思ったりした。一年前にはこのような生活など考えられもしなかった。考えてみた事もなかった。A大医学部を目指しての試験勉強だけが全てだった。その背後にはいつも父と母の顔があって、重苦しい荷物を背負ったような日々だった。
 それに比べて今現在の生活は、自由の花園に開放されたような毎日だった。自分を束縛するものは何もなかった。総てが自身の意志と気持ちで決定された。無論、それで生じる責任は、自分で負わなければならなかった。しかし、それさえもが今の俊一には、心地良いものに感じられて、何に対する不満もなかった。
 俊一は由美子が働けなくなった分だけ、更に働くようになった。肉体的には厳しさが一層増したが、二人の間に生まれて来る子供の顔を思い浮かべると、ひと時の辛さだと、自分を納得させる事が出来た。

 俊一は最初、まったく気にも留めなかった。高校生ぐらいの女性が、自動ドアを開けて入って来る事は極めて当たり前の事だった。
 俊一がいささかの疑念を抱いたのは、その女性がドアの向こう側にいて、一向に入って来る気配のなかった為だった。店内を覗かれているようで、いい気分ではなかった。睨み返すようにして、再び、その女性を見つめて俊一は息が詰まった。

 





遺す言葉 254 新宿物語5 ナイフ(2) 純愛 他 一本の道

2019-08-03 21:36:20 | つぶやき
          一本の道(2018.8.3日作)

   今は
   小さくたっていい
   キラキラ輝かなくたっていい
   人の眼に触れなくたっていい
   声高に叫ばなくたっていい
   -----
   それでも                            
   変わる事なく
   歩いて行く
   一本の道
   -----
   それが稔りとなって
   やがて
   いつかは
   人の心を捉えるだろう
   -----
   遠い 遠い
   一本の道
   変わる事なく
   歩いて行く道
   希望の道


      ---------ー

 (4) 
 俊一は自分の家の事は話さなかった。父の事も母の事も、由美子が両親に憎しみを抱いているようには口に出来なかった。かと言って、両親の期待を裏切り、無断で家を出た事を後悔している訳でもなかった。心の中の空白だけが色濃く意識された。
 由美子はだが、恐らく、俊一に自分と同じ境遇を重ねて見ていたのに違いなかった。夜が白み始める頃、新宿駅で別れる時には、安心し切った様子で心を寄せて来た。
「じゃあ、またね。明日来る ?」
 と言った。
「うん、行くよ」
 そんな事の積み重ねの末に、二人の同棲生活が始まった。
 その日、俊一が仕事が終わって帰った時には、午前八時を過ぎていた。
 由美子はテレビを見ながら狭い台所でテーブルに向かい、トーストと牛乳の食事をしていた。
「お帰りなさい」
 俊一の顔を見ていつものように言い、すぐに言葉を継いだ。
「ねえ、昨日話していたナイフどうした ?」
「どうしたって 、どうもしないよ。まだ店が開いてなかったもん」
「何処のお店?」
「駅へ行く道の途中に金物店があるだろ」
「知らないわ」
「おれも知らなかったんだ。昨日、歩いていてなんの気なしに気が付いたんだ」
「それで、そのナイフ買うの ?」
「まだ決めてないよ」
「幾らぐらいするの ?」
「値段は見なかったけど、結構、高いと思うよ。すっごくいいナイフなんだ」
「でも、そんなナイフ、何に使うの ?」
「何に使うっていうわけじゃないけどさ、ほら、人間って、何かを見て、すっごく欲しくなる事があるだろう、あれだよ」
「女の人がネックレスなんか見て欲しくなる、あれ ?」
「うん、まあ、そういう事かな」
「そんなにいいナイフなの ?」
「そうさ、凄いナイフさ。まるで宝石みたいに輝いてるんだ」
「値段も、結構、高いんじゃないの ?」
「高いと思うよ」
「高くても買うの ?」
「分かんないけど、今日また、見てみようと思うんだ」
 あのナイフが自分のものになったどんなに素晴らしいだろう、と俊一は改めて夢想した。平穏で幸福な現在の日々に、改めて、豊かな色彩が添えられるような気がした。
   その日も俊一は駅へ向かう途中、金物店に立ち寄った。
 ナイフはショーウインドーの中に、昨日のままに置かれていた。
 誰にも買われなかった事に安堵したが、このまま飾られていたら、何時かは誰かの眼に触れて、買われてしまうに違いないと思うと、安心出来ない気がした。
 周囲の商品を圧倒して豪華に輝いているナイフが、誰の眼にも留まらないでいるはずがない、と考えた。
 値段の掛かれた小さな紙片は裏返しになっていて、数字は見えなかった。
 俊一は心を決めると、思い切って店内に入って行った。
 店の奥では、薄暗い畳二枚分ぐらいの板の間に座布団を敷いて、六十代半ばぐらいかと思われる男が鋏を研いでいた。
「すいません」
 俊一が声を掛けると男は顔を上げた。
「あのう、ウインドーに飾ってあるナイフ、幾らぐらいするんですか ?」
 男は品定めをするように俊一を見てから、
「ああ、あれね」
 と言った。それから再び、眼鏡越しに俊一を値踏みするように見つめて、
「あれは高いよ。五万円だよ」
 と、突き放すようにして言った。
 若造には土台、無理な話しだと言ってるようだった。
「五万円もするんですか」
 俊一もさすがに息を呑む思いで、溜め息交じりに言った。
「うん、北欧からの輸入品でね、三本あった内の残り一本なんだ」
 店の男は俊一の溜め息交じりの言葉に、少しは同情するかのように静かに言った。
「あれ、取って置いてくれませんか」
 俊一は思い切って言った。
 店の男は何処か思い詰めたような気配のその言葉に、怪訝そうな顔をして俊一を見た。それから、
「取って置いてくれって言われてもね。そう言っておいて来ない人が幾らでもいるんでね」
 店の男は渋る気配で言った。
「給料までお金がないんで、それまで三千円ぐらい内金しても駄目ですか」
 男はそれで幾分、納得したようだった。
「まあ、それならいいけどね」
「明日、間違いなく三千円持って来ますから」
 店の男は明日と聞いて、また渋い顔をした。
「お願いします。明日、必ず三千円持って来ますから」
「もし、明日来なかったら、約束はなかったものとするよ」
「ええ、いいです。明日の今頃、きっと来ます」
 ナイフはそんな経緯(いきさつ)の末に俊一の手に入った。
 ずしりとした重みと、柄と刃の接点にある、金色の金具の中央に象嵌されたサファイア色の押し釦との調和がまた、一際、見事だった。俊一は自宅に持ち帰り、初めて自分の手で触れて見た時、しばしの間、息を呑む思いで見詰めていた。
「やだ ! 人の方に向けないでよう」
 由美子は、俊一が自分の目の前でナイフを手にしていた時、突然、サファイ色のボタンを押されて刃が飛び出したのを見て、思わずのけ反り、叫んでいた。
「凄いナイフだろう。かっこいいだろう」
 俊一は声を弾ませ、いかにも自慢げに言った。
「その白いきれいな柄は、なんで出来てるの ?」
 由美子もナイフが持つ華やかさと豪華さには魅せられたようで口にした。
「何かなあ。まさか象牙じやないだろうな。多分、何かの動物の骨だと思うよ。それに、この彫刻が凄いだろう。二匹の蛇が絡み合って、喧嘩をしてるんだ」
「五万円もしたんだもんね」
 由美子も納得顔で言った。
 俊一はそのナイフを外出時に持って出歩く事はしなかった。貴重品を扱うように、由美子の箪笥の鍵の掛かる抽斗へ仕舞っておいた。
 仕事から帰るとまず一番に俊一のする事は、その抽斗を開け、ナイフを取り出して手にする事だった。                           
 ナイフは紫色のビロード布を張った木箱に納まっていて、豪華な宝物の輝きを放っていた。

          2

「ねえ、俊ちゃん。あんたさ、東京に家があってさ、時々でも、家に帰りたいと思う事ない ?」
 由美子は休みで家にいた。
 俊一が眼を醒ました時には、午後二時近かった。
 台所のテーブルでテレビを見ながら夏みかんを食べていた由美子は、俊一が傍の椅子に腰を下ろすと聞いた。