晩年のイエスは、一切れのパンを突然何百ものパンにして大勢の飢えた人々を救ったり、感染力が強く当時の人々に恐れられていた天然痘と云う病気の人の中に入って看病もした。だが自分は感染しなかったり、随分神のような奇跡をおこなっていたので、そんな人を十字架に架ける王様もいないだろうに、とおもわれる。
岩波新書の「キリスト教入門」に少しそのことに触れた部分があって、やっと合点した。最初に①イエスはユダヤ教徒であり、ヨハネによって、ユダヤ教徒としての洗礼を受けている。さらに、大工であったイエスは安息日に宣教活動をしながら村々を歩き、公会堂で人々に布教活動を始められたようである。ところがイエスは必ずしもユダヤ教を布教したのではなく、もっと広い視野で許し愛することの大切さを教えられたようである。
そこで、イエスを憎んだのは当のユダヤ教の宣教師たちであったようだ。こうした対立状況の中でイエスは処刑される。つまりイエスを十字架に架けたのはユダヤ教の宣教師たちということになる。
何しろ2000年も前のことで、イエスは文字を持たないユダヤ古語を話していて、弟子たちもそうであったので、記録に乏しく、残された記録も音写か意写かもわからない状態のようである。
だから、諸説あって学問的研究よりも、今日的利害関係に普く(あまねく)拡大してしまって収集がつかず、更なる研究が待たれる状態のようである。宗教的な研究ではなく、歴史的一人の人間としてイエスを研究する立場を「ナザレのイエス研究」と云うのだそうだ。(T)
←前庭のチュウリップ
それにしても、ユダヤ人には頭が下がる。沢山の民族が入り乱れるヨーロッパにあって、何処の民族とも融合してしまうこともなく、自分たちの宗教と民族を守り、よく勉強し、今世紀最大と云われる科学者や経済学者を生み出し、今彼らはアメリカで民族の花を咲かせている。
アインシュタイン《相対性原理)ダーウイン《進化論》マルクス《経済学者)などみなユダヤ人と聞いている。選民思想と云うか、自分たちの民族は神によって選ばれた民族であり、神を裏切ると恐ろしい仕打ちが待っている、としんじているようだ。
一方我が国は、アマテラス大御神から天皇につながる相当古い神話(古事記)を持つ国として其れを大切にしてよいと思うのだが、ヨーロッパの失業者や、小規模農民が移り住んだアメリカの真似をして民族の誇りを投げ捨てた御粗末な国になってしまった。世のオピニオンリーダー達よ、アメリカ崇拝はもうやめてくれ!第二次世界大戦に突入した間違いを民族の誇りに向けた自虐的平和論はもう沢山だ。(瘋癲老人、憂国論)(T)
3分咲きの白梅