
小説家・芥川龍之介の名前を知らない人はおそらくいないだろう。龍之介の実父・新原敏三は現在の岩国市美和町生見の出身ということはどうだろうか。明治初めに上京し、元幕臣芥川家の3女と結婚して3子を得た。末っ子の新原龍之介は、幼いころ母が死亡したため芥川家で養育され13歳の時芥川家の養子となった(いわくに通になろう参照)。新原家の菩提樹は美和町の真教寺にあり「本是山中人(もとこれさんちゅうのひと)」の碑がある。
その実父・新原敏三は上京の前、第2次長州征伐(四境の役)で征長軍(幕府)と戦っていたことを知った。史料では新原敏三でなく大村源次の変名で長州藩諸隊のひとつで1864(元治1)年結成の「御楯隊(みたてたい)」に加わっている。御楯とは天皇を守る楯、祖国の楯という意味がある。
1865(慶応1)年の7月、厳島の対岸に位置する松が原を出発し中山峠で従軍した。御楯隊260名余に対し幕府軍、和歌山藩、彦根藩あわせての軍勢はその10倍を超える規模、大苦戦であったが兵卒の奮戦で何とか持ちこたえたという。大村源次こと新原敏三は左足くるぶしに貫通銃創の深手をおう。
「本是山中人」は1917(大正6)年、羅生門の出版記念会で求められて揮毫したという。このころ岩国を訪れており、錦帯橋から父の生誕地に当たる上流を眺め、山の向こうにある父の故郷に思いを致したことばではないかといわれる。また、作品の中で「維新の革命に参じた長州人の血も混じっている」と単なる江戸っ子でないことを書いている。新原敏三は、百姓一揆の先駆け的な例とされる「山代慶長一揆」で11人の庄屋が犠牲となったがその中の一人、生見村庄屋:新原神兵衛の子孫という。