日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

岩国学校教育資料館 5

2013年02月28日 | しっちょる岩国
                      

 そのほかにも目を引く収蔵品がある。児童生徒の作文や詩集、学校の沿革史、いつつ玉のソロバンや楽器、地図など歴代の教育に関する資料が揃っている。懐かしい計算尺、電卓の出現までは欠かせなかった計算の用具、その検定試験のため頑張ったことを思い出させた。

 かまど、羽釜(はがま)、つり鍋、行火(あんか)、番傘、蓑など、昭和の中頃までどこの家庭にもあった生活用品なども多く展示してある。居合わせた小学校低学年の男の子二人。行火の説明「土で作った箱型の中に炭火を入れてふとんの中をあたためる」を読んで「さっぱり分からん」といいながら、隣の湯たんぽの「ふとんの中をあたためる」説明を読んで「これは家にもある」と喜んでいた。

 行火で布団の中をあたためる、実物を見ても、使ったことのある者でないと実際の理解は難しいだろう。風呂沸かしの後の燠を、家族分の行火に入れていた祖父を思い出した。子どもたちがこうした古い家庭用品を見る中で、新しい発見やアイディアを出してくれたら、この資料館の先人や道具たちは喜ぶだろう。

 学校教育の発祥の地といえるこの資料館、来館者がどの位あるのだろうか。近所にあり「いつでも見れる」という気持ちがつい先に出て足が遠のいていた。地域史から学ぶ、というわずかな字数のエッセイを読んでいる。その中に、歴史の表に出ないところで改革を支えた無名の地方の士は多いとある。ここに並んでいる資料から知らない小さな史実を見つけ出せるかもしれない、と思うと興味は深まる。
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岩国学校教育資料館 4

2013年02月27日 | しっちょる岩国
           

 2階は民族資料展示室と郷土資料室が設けられている。

 民族資料は農耕・収穫用具と生産・製糸用具の2室からなっている。藩政時代に岩国で主産業であった紙漉や織物の道具、農機具などがそのままの形で並ぶ。その数は数百点、酷使に耐え残った品、出番を待っているかのような、人なら「かくしゃく」とした感じのそれもある。子どものころに見かけたもの、使った経験のある品もある。手に触れることはしなかったが、それらには懐かしさを感じる。

 展示のどれもがそれを動かす力は人力や家畜の牛馬で、エンジン音の聞こえる今の田園風景とはかけ離れている静かさだった。樹脂製品万能の現在の農耕器具は、これだけの年代を受け継がれてこれるか、手あせが幾度となく滲んだであろう乾いた柄や握りの木工製品を見ながら思う。こうした品々は読むよりも目にすることで印象に残り記憶できる。「手垢にまみれた」というが、農機具の進歩もここから始まった、そう思わせる展示品が並ぶ。

 郷土資料室、旧岩国藩主吉川家や名誉市民、江戸時代から現代までの岩国出身者の紹介が、顔写真と関連資料で展示されている。子どものころから知っている名前、歴史で習ったようだと業績を思い出す人、岩国検定で学んで知った偉人など岩国の先賢が並ぶ。

 しかし、知らない人のほうが圧倒的に多い。資料はここもガラスケースの中でその中はのぞけないが、黒褐色の表紙などからよく残されている、そして貴重なものだということが伝わる。こうした先人の足跡を知ることも、郷土への思いを深めることになる。そう思うと、この展示場は繰り返し繰り返し訪れないと岩国を知ったことにならない。と顔写真が呼びかけている。
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岩国学校教育資料館 3

2013年02月26日 | しっちょる岩国
           

 教科書展示室の向かいは「藤岡市助記念コーナー」。一歩入ると、どこかの電機企業の資料室かと思わせるのはガラスケースに納められた白熱電球の数々。藤岡市助はこの岩国学校の卒業生の一人、日本に電気、電球灯を普及させたことから「日本のエジソン、電力の父」と評され、岩国が誇る工学者であり実業家でもある。27歳のとき10歳年上のエジソンをその研究室に訪ねている。

 藤岡市助は1857(安政4)年岩国市錦見に生まれる。1865(慶応元)年、藩校の養老館に入る。1875年 旧藩主吉川経健から奨学金を得て工部寮電信科入学。1881年 工部大学校(東京帝国大学工学部の前身)を首席で卒業。銀座木挽町での日本初のアーク灯点灯実験に参加している。この日は電気記念日となっている。同校教授を経て、1890年、同郷の三吉正一と電球製造の白熱舎(後に東京電気から東芝へと発展)創設。電車を発表、浅草凌雲閣にエレベーターを作る
(岩国検定テキスト参照)。

 コーナーには中国地方で初めて路面電車を走らせた資料も多く見られる。岩国電気軌道社長に就任し1909(明治42)年から岩徳線開通までの20年間、錦帯橋近くの新町から新港間を走った。その電車を模したレトロなバスが岩国駅ー錦帯橋間で運行されている。コースは路面電車が走ったと同じ道を路線バスとして運行され、観光岩国のシンボルの一つとして親しまれている。

 このコーナーでは市助に関する資料は約3500点展示されている。ここから全国各地の電気展には貸し出されるというほど、その内容は電気史を知る上で貴重な品物といわれる。最もコーナーにふさわしい備品が目につく。天井から吊り下げられた太いコードに付けられた円錐の白い傘と白熱電灯、これが照明の役を担っている。なんの説明もされていないが、その気遣いに「いいね」と思いながら2階への急な階段を上る。
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岩国学校教育資料館 2

2013年02月25日 | しっちょる岩国
           

 玄関を入ると正面の左側は2階への急階段、安全のためには手すりを持つ事が肝心。ここで学んだころにはなかったと思う。正面右は事務室。玄関を入った右の展示室は「教科書展示室」左は「藤岡市助記念コーナー」と表示されている。入館料は無料。古くても文化財、土足は厳禁。

 教科書展示室に入る。先ず目に入るのは木製の4脚の机と8人分の椅子が置かれている。小学校入学から卒業までお世話になった机と椅子。当時の机は2人用で、低学年と高学年では高さが違った。習字用の硯入れもあった。

 机に学用品を収めるには蓋を開ける。その方法はノートパソコンが真似ている。最先端を誇る電気機器が子どものころの木造机からヒントを得ているかと思うと、なんだか昔の人の知恵の高さや深さを感じる。そんな勝手な過去への賞賛を一人思う。

 学年や学期の変わるとき席替えが行われる。「隣が誰になるか」一喜一憂したことを思い出しながら展示の机に触れる。薄れた塗装に歳月を感じる。

 ここには、この地域で使用された寺小屋時代から現代までの教科書が時代ごとに展示されている。その数およそ6700点とある。古い教科書はガラスのケースに収められており、手にすることは出来ない。小學の文字、カタカナ、初等、右読みの教科書名など今では見れない教科書の歴史を思いながら、国に先駆けて学校教育を広めた藩主の先見の明に、驚きと喜びを感じる。
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岩国学校教育資料館 1

2013年02月24日 | しっちょる岩国
           

 名勝・錦帯橋から歩いて7分ほどのところに「岩国学校教育資料館」がある。1969(昭和44)年、「明治初年の学校建築の中で、様式の特異性において他に例を見ない」として山口県の指定文化財となり、修復して1972年から教育資料館として開館した。

 この建物は岩国学校と称された。明治3年12月、岩国藩知事(旧岩国藩主)吉川経建(きっかわつねたけ)が岩国藩学校条例を制定した。公の小中学校や語学校、女学校などを設置する、武士の子弟ばかりでなく町・農民の子弟も受け入れるなどが含まれていたという。明治政府の学校制度の近代化を図る学制改革は同5年というから岩国は進んでいたことが分かる。

 明治4年1月、再び学制が改められ、対象年齢の引き下げられるなどし、同年2月「岩国学校」が開校した。翌年、英国語学所を設置し、英国人教師を招き英語、算術、代数など教え、明治前半期の多くの人材を輩出させる教育をおこなった。

 開校当初は二階建て、2階を教員詰所、1階を中学生の教室とした。翌年の明治5年6月、3階部分の塔屋が増築された。それはアーチ窓やよろい戸など洋風の雰囲気を持ち、和洋折衷の外観となった。岩国では当時流行した作りだという。

 ここからは多くの人材が輩出された。おって紹介していこう。小学校のころ、1階にはいまでいう保健室、定かではないが当時は養護室があり、2階で音楽を習った記憶がある。久しぶり岩国学校へ立ち寄った。入り口に入館を拒むような2階への急階段、懐かしい。

 
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茶店

2013年02月23日 | 生活・ニュース
           

 「相変わらず硬いことばかり、やわらかい事も載せろ」とブログを読んでの感想を聞かせてくれる。この人のこの感想はこれが初めてではない。「分かった分かった」と返すが、聞いていることが分かっただけで、それへの答えはどうするか分かってはいない。「そんなつもりで書いてはいない」と今回も答える。

 硬いを考えてみると、堅苦しい、頑固、融通がきかない、きびいい、強すぎる、こんな言葉が思い浮かぶ。これらを取り去った内容が書けたら柔らかい内容になるのだろう。

 軟らかいは手ごたえがない、柔らかいはしなやかと少し意味合いが異なるが、どちらも硬いの対語で説明がつく。堅苦しくない、頑固でない、融通がきく、などとなる。こんな書き方が出来ると、人あたりのいい文章として受け入れられるのだろう。

 見たこと思ったことなどをそのまま書いている。自分の表現力不足や感性の鈍さがそうさせているのだろう。名文なら硬くても硬い内容とは感じない。と思いながらも、そんなことばかり考えていては萎縮してしまう。これまでどおり気軽にキーを打つことにしよう。それが自分らしさと思うので。

 と、こんなことを書くのが「硬い」といわれる一つかも知れない。一服しながら余裕を持った書き方を考えてみよう。
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見えないこと

2013年02月22日 | エッセイサロン
2013年02月22日 毎日新聞「はがき随筆」掲載

 偶然出会った知り合いの男3人。近況を語る中、「Oからの賀状が来ない」と心配する思いが、なぜか共通していた。Oは80歳代の女性。Oと3人それぞれの関わりに共通性はない。3人の中で一番若いYが、Oに連絡を取ることを決めた。

 ところがその日、Yが電話する前にOから「ふせていたが元気になりました」と掛かってきた。その驚きがメールで届いた。読む私も驚く。

 まるで3人の会話が聞こえたかのようなタイミング。言葉では表しきれない、心を伝える不思議な媒介が科学を超えて存在した。その謎は誰も明かせない。
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本物の還付通知

2013年02月21日 | 生活・ニュース
           

 官公署の職員を名を騙る詐欺の手口は「還付金があります」「還付金請求の手続きを」などと電話で親切そうな口調で善人を罠にかけて金銭を騙し盗る。くどいほど報道されるが留まることなく続いている。そんな中、今日、還付のお知らせが届いたがこちらは待っていたはがき。

 国民に課せられた義務の一つに納税がある。サラリーマン時代の所得税は給与から控除され月々の納税への関心は高くない。ただ年末調整への関心は「いくら還付があるか」で納税総額にはそれほど気が向いていなかった。

 賞与に続いて年調、これを現金で受け取るとき「一家の主」という実感が湧いた。給与などの振込みは主の自覚を失わせた。これが日本衰退の一因という経営者や識者もいる。バブル崩壊が始まるころと妙に一致しているから面白て強く否定できない。

 年金収入だけの所帯では、ある金額以下は確定申告しなくてよい、となっている。しかし、年相応の医療費などもあり確申は欠かせない。申告は毎年、手計算で確認し国税庁HPの申告コーナーから作成し提出してる。先月の終わりに済ませたら今日「国税還付金振込通知書」が届いた。提出から3週間と3日目。還付申請額どおりの金額が記入されいた。

 実際は知らないが「還付金はなかったものとして、その金額を貯金」という知人がいた。そのまま続いていれば半世紀以上になる。するとその金額は利息を含め相当な額に達しているだろう。さて、そのような積み立てのないわが家、還付金の使途は一応は決まっている。 
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二平葺

2013年02月20日 | 町かど
           

 吉香公園のロープウエー山麓駅そばに「旧目加田(めかた)家住宅」がある。これは江戸中期の18世紀中頃に建てられた中級武士・目加田家(禄高170石)の屋敷で国の重要文化財に指定されている。目加田家の造作には幾つもの特徴がある。その一つに屋根は入母屋造りで両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺(にひらぶき)」と呼ばれる岩国独自の手法が葺かれている。

 両袖瓦は断面が緩いM字状で、重ね合わせの桟を両側に持つ特殊な形の桟瓦で、平瓦と組み合わせて二平葺として葺かれる。重量のかかる丸瓦に代わって17世紀後半の岩国城下で考案されたもの。岩国地方の瓦の産地は岩国市多田地区で、瓦師は西村、白井、平井家であったが1820年頃からは御庄の作左衛門(十時氏)が加わり4家で作られていた。(岩国検定テキスト参照)。

 このことは岩国検定の一員として学び、頭に収めていた。散歩では旧城下町、昔の面影の残る岩国七町もぶらぶらとよく歩く。幾度となく通り過ぎた旧家の門に「二平葺」のあることを発見した。二平葺は目加田家だけのもの、と思い込んでいたが違った。それは文芸評論家・河上徹太郎旧宅の向かいの門。その近くでさらに一カ所二平葺を見つけた。岩国検定の会に所属しなかったら決して気づくことなく、貴重な史料を見逃していたことになる。今さらながら岩国検定万歳だ。

 真白な漆喰壁に囲まれた旧家、そこに二百数十年前の岩国で考案された二平葺が残されている。これからもいろいろな発見があるかもしれない旧城下町、カメラ片手の散歩の楽しみが増えた。
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校歌

2013年02月19日 | 回想
           
 
 青い空を背に錦雲閣の屋根が映えている。そのうえを鳩が群れをなして静かに回る。ふと中学校時代の校歌を思い出した。 

 空に鳩の群れは静かに回り 鮎は集いのぼる 錦の川の緑 
 ふるさとの岩国の 清らかさよ 
 今ぞ大地に踏み立って 知性を磨くは 若い学徒我ら 
 この平和を守る 母校の誇り

 これは岩国中学校入学の前年、昭和27年に制定された校歌の1番。入学式の前日の予行で練習した。音痴の私だが、出だしが妙に気に入り、今も口ずさめる。3番まで通して、故郷の誇りとそこで学ぶ学徒の責任が簡易な言葉で織り込まれている。

 第2次世界大戦が終わってすぐに小学校入学、その後に起きた朝鮮戦争、岩国基地から連日爆撃に向かうB29の機影を目にしていた。中学入学の年の夏、朝鮮戦争は終わり静かな空となったことを子ども心に記憶している。

 藩主も眺めかなわなかった高どころで、平和のシンボル鳩らは何を見ているのやら。
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