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何年か前に「窓ぎわに置いてみるか」くらいの軽い気持ちで買った鉢植えのソテツ、10㌢ほどの背丈だった。特に手をかけなくても背が伸びて来た。日に当ててやる方がいいだろう、これもまた軽い気持ちでほかの鉢と並べていた。ふと気づくと鉢から土がこぼれ落ちているではないか。大きすぎるかな、と思いながら空いている鉢に移し替えた。
よく育つ状況を表現するとき「ぐんぐん」という副詞を使うが、移し替えてから1年余り副詞どうり「背丈と枝がぐんぐん伸びた」と驚いている。伸びを待っていた小さな枝もソテツらしい姿に変化していくのが分かった。移植の仕方が上手かったのかと思いたいが、器を大きくしたことで根が育ったのだろうと悟った。
人の姿も器に例えることがある。「あいつは器が大きい、将来が有望だ」と楽しみに待つ。「私はリーダーの器ではありません」と推薦を辞退する。「親の威光を笠に着ているだけでその器ではない」と人の力を見抜く。このように「器」には物を入れて納めておくという意味以外に、人の大きさや、何事かを担うことが出来る才能やその器量を図るときにも使われる。
己の器はどんなものか、人様から良くも悪くも直接指摘された記憶は無い、ということは目立つ器ではないということで有難い。最近の赤絨毯を踏む人やその周辺で、それにふさわしくない行動や発言、人格などが報じられる。その人らは大理石作りの堂に全く相応しくない器の人物と思っている。私は報道をされるような振る舞いはしない、とソテツに話しかけ戒める。