日々のことを徒然に

地域や仲間とのふれあいの中で何かを発信出来るよう学びます

テレビ放送開始記念日

2025年02月01日 | 回想

 「2月1日はテレビ放送記念日」という案内を聞いた。日本のテレビは戦争による中断を経て1948(昭和23)年に戦後初の公開実験が行われた。そして1953(昭和28)年の今日、いよいよ本放送が始まった。これまで70年歴史を築いた。この間の進歩は目を見張るものがあり、残っている技術課題は料理番組の匂いと味をどう伝えるかという。民放では8月に日テレが本放送を始めた。

 70年前に住んでいた所ではテレビ電波は届かないと信じられていた。1960年の秋、電気店を営む父の知人が我が家は「高台にあるから映るかもしれない」と受信テストをしたら映った。それは瀬戸内海を超えたNHKの電波だった。だから近所では初めてのこと、次第に広まっていった。

 テレビを見始めて「もう少し早ければ」と母はこぼしていた。それはその年の5月に同居していた母の義父、私の祖父が亡くなっていたので、祖父に見せたかった、よくこぼしていた。テレビは東芝製、当時のテレビを検索したら写真の物があった。確かに右側のダイヤルを回してチャンネルを合わせた。1から12まであった。
 
 テレビを初めて見たのは中学3年の修学旅行で1955年、京都で泊まった旅館だったような記憶が残っている。この時ダイヤル式固定電話も初めて見たように思う。こうした見聞が修学旅行の価値の一つかもしれないが、時代錯誤と言われそうだ。最近TVをあまり見なくなったのは関心を引く番組が少なくなったからだろうか。

 (今日の575) チャンネルを手回しするため立ち上がる
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掘りコタツ

2025年01月27日 | 回想

 今夜から冷え込むという。明日朝には市街地でも2㌢の積雪が予想されている。夏には熱中症予防、冬は凍死予防でエアコンの使用が勧められる。諸物価高騰にあわせ国の補助も途絶え光熱料も高くなっているが簡便なエアコンは欠かせない。室内暖房のストーブ時代が懐かしい。

 日曜日夜のTVの「ポツンと一軒家」をよく観る。一軒家で自然と共生される生活への工夫や人生観に家族関係など毎回有意義な番組と思っている。そんな一軒家でよく登場するのが五右衛門風呂、薪ストーブ、掘りこたつ、いろりなどどれも寒い時期には欠かせないものが残っており、現実に利用されている様子が映像紹介される。その中で掘りコタツは懐かしい。

 父は60年前に建てた家に掘りコタツを設けた。冬になると丸い練炭一つで一日中足を入れれば暖かく過ごせた。3交替の夜勤を終え帰宅した冬場、睡眠には欠かせない暖房だった。ストーブ用燃料の高騰対策としては掘りコタツは1番と思うが、練炭があるだろうか。練炭には怖さがある、それは一酸化炭素中毒、これは死に至るので注意は欠かせない。

 練炭の代わりに風呂を沸かした残り火を使ったこともあった。暖房に使用しない時期は、掛蒲団などを除いて台はテーブル代わりになった。足が下ろせ、畳の部屋しかない我が家でくつろげる場所だった。30年前に自分で建てるときに掘りコタツのイメージは全く起きなかったのに、今になって懐かしいのは歳のせいかも。

 (今日の575) 掘りコタツ蜜柑をおいて冬ごもり
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常備薬

2025年01月26日 | 回想

  我が家には定期的に医師が処方し薬局で受け取った薬がある。ほかに常備薬として切り傷や手荒れなどつける「生活常備薬」と銘打つ薬を置いている。使い切ったので新しく補充したら、容器が小さくなっていることにおどろいたが、勘違いで、大中小各種の容器があり、使う側のことを考えてあるようで嬉しい。 

 母が存命中は越中富山から定期的にやって来る薬売りの置き薬が常備薬だった。置き換えに来ると1年くらい過ぎた薬は持ち帰り、持参した薬と入れ替える。そして、使用した分の薬代を清算する。記憶にあるのは、その時には必ず紙風船を何個か土産のように置いて行った。持ち帰った薬はどうなるのかは知らない。

 そのころは、薬の入った行李を何段も重ね、それを大きな大きな黒い風呂のような布に包み、自転車の荷台に乗せて家々を回っていた。旅先の話をしながら、いや聞かせながら薬を入れ替えるのを見ていた。近所で時々見かけるが今もそんな置き薬の姿が残っているようだ。ただ、時代は変わり自転車は軽自動車に変わっている。

 富山の薬売りについてこんな記述がある。富山藩2代目藩主前田正甫が江戸城に参勤した折、腹痛になった大名に「反魂丹(はんごんたん)」を服用させたところ驚異的に回復したとされ、この事件がきっかけとなり「越中富山のくすり」の名が日本全国に広る。当地吉川藩は和紙を財源として重要ししたが、富山藩は薬を藩財政の重要な位置づけとした。国債漬けの日本、財政の好転策は何だろう。

 (今日の575) 薬草を洗って干して常備薬
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山上り

2025年01月21日 | 回想

 2階のベランダに出ると、街並みの向こうの見慣れた山、その山の端にかかる雲の上部が、その昔、出張の新幹線からちらっと見えた記憶にあるような、遠く離れた雪をいただくアルプスの峰のように見え、なんだか懐かしくスマホで撮った。

 写真には家の屋根や電線、TVアンテナなどが写っており記憶の景色とはかけ離れている。あんな山頂から見渡せる風景はどんなだろうと空想したことを思い出す。今は高感度のTV映像が各地の高山からの映像を映し出して見せてくれる。特に最近はドローンの進化で目線とは異なる位置からの山岳風景が撮られており、見る者を楽しませる。

 同級の知人夫婦は今も全国の山歩きを楽しんでいる。アルプスは年齢的に卒業したというが、年賀状にはいつも山の風景が刷られている。今年は九重山の秋の様子だった。登山という経験は私にはない。子どものころ父について薪用の雑木とりで、道のない急な斜面を上り下りした。今は散歩で200㍍ほどの城山にゆっくりと登るというより坂道を上るが、回数は大幅に減った。

 これまで上った最も高い山は厳島神社のある宮島の弥山、それは標高535㍍で「初代内閣総理大臣伊藤博文は、日本三景の一の真価は頂上の眺めにあり、と絶賛した」と言われる。そこに職場の仲間と弁当を持って原始林の中を麓から歩いて往復した。今はロープウェイもあり便利らしい。定かな記憶はうすれているが、晴れた日で眺めの良かったことは覚えている。

 (今日の575) 人生の高い山越えいつになる
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切手シート1枚当たる

2025年01月20日 | 回想

 今年の年賀はがきの当選番号が決まった。今年は年賀の出状を昨年の半数近くに減らしたことで当選は期待していなかったが、3等下2ケタ当選番号のうちの1枚が当たった。商品はお年玉切手シート(写真、これは見本でネットから)で組み合わせは例年通りだが、値上げに伴い110円と85円各1枚となった。

 お年玉付き年賀状はがきの発行はSNSの普及拡大や値上げの影響などから大幅な減少で、25年用は10億7千万枚といわれる。元日の配達枚数はこれまでの中で最も少なかったと報道されていた。発行枚数が減れば当選確率はどう変わるのだろう。昨年は切手シート3枚の当選だった。

 年賀状の歴史は古く、普及したのは郵便制度が軌道にのった明治中期と言われる。お年玉付き年賀はがきが発行されたのは昭和24(1949)年からだ。郵政職員だった父は、夕食を終えたからご近所や知り合いの家庭を回り販促活動をしていたということを母から聞いた記憶がある。

 今年は大阪・関西万博が開催されることから、1から3等以外に万博のペアチケットが当たる特別賞も設けられた。番号は下5桁で3本ある。1等は現金30万円など、2等はふるさと小包など、が当たる。1度下4桁の2等が当たったことはある。

 (今日の575) 賀状からあんなこんなが蘇る
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鏡開きの真似

2025年01月11日 | 回想

 使っている手帳に今日11日は「鏡開き」と載っている。広辞苑では「正月11日ごろ鏡餅を下げて雑煮・汁粉にして食べる行事」とある。もうひとつは 酒好きの方向きに「祝い事に酒樽のふたを開く」とありこの方が喜ばれるだろう。祖母は鏡餅で善哉を作っていた。そのころは家族も多く大きな鏡餅で作っていた。

 母も受け継いだが、次第に家族がへり普通の餅を使うようになった。私が結婚してからは妻が続けている。今は広辞苑に載っている通りの善哉か汁粉を作っているが、夫婦二人では小さな鍋で済む。子どもころの見ていた大鍋はどこかに消えている。

 鏡開きで思い出すのは息子が剣道を習っているころ。近くの公会堂が練習場だった。鏡開きの日は子どもらは練習、母親らは隣の炊事場で善哉、大きな鍋で作り、練習が終る頃に炊き上がるように準備していた。父親には善哉会への案内は届かなかったように思うが、鍋や食器類の運搬にだけ声掛けがあった。だから味の記憶はない。

 今朝も最低気温はマイナス、朝方は少々風もあり体感温度は低い。我が家の今年は汁粉だった。所用で出かける私の都合に合わせ、妻は朝食後まもなく作り始め、熱いうちに頂いて徒歩で出かけた。内からの温もりで所用を済ませられた。

 (今日の575) 餅を喰う焼いた焦げ跡香ばしい

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今日は良寛忌

2025年01月06日 | 回想

 たまたま調べたいことがあり、古い本に載っていたことを思い出し取り出した。1991年3月の発行なので34年前の古い本、私的には捨てがたい800頁ほどの1冊で、薄いクリーム色の紙はあせた様子もなく生き生きとしている。用を終え、この本の下段のある出来事カレンダーの今日をみた。

 「良寛忌」が目に付いた。江戸時代後期の曹洞宗の僧侶・歌人・書家などであり、諸国を行脚されたことなどよく知られている。1831年忌日とある。ほかに昭和60年の東海・関東地震で大阪で16年ぶり進度、1㌦が200円台突破など、米国では1987年日本の貿易黒字減らし法案がだされた。面白くよんだ。

 これは別資料で、今日は「世界の戦争孤児の日」という。こうした日のあることを初めて知った。これは、フランスのある団体によって制定され、「戦争によって親や親戚などの保護者を喪った子ども達=戦争/戦災孤児が社会的に弱い立場に置かれ、人権が保障されていない問題を知り、考えるための日」とある。「戦争という負の連鎖を断ち切り、全ての人の権利が保障される世界にするため、私たちにどんなことができるのか一緒に考えませんか?」と問うている。

 昨年のマイブログを繰ってみた。小寒の入り。山裾の道で、真っ青な空を背景に枯れた葉をつけた大きな枝が陽を浴びていて、枯れた木も山の風情の一つ、と言いながら、枯れ葉の功罪を書いている。書いていれば何か残る、ブログもいいことがある。ブログトラブル今日も回復待ちで、控えの原稿を残している。

 (今日の575)争いを好まず出家諸国行く
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献血・輸血の重要性

2025年01月05日 | 回想

 世の中は明日が仕事始め。なのに献血を呼びかける採血車3台が並んでいる。世の中の活動再開に先駆けて仕事中、人の命を繋ぐに欠かせない仕事、年始だ何だと言ってはおれないのだろう。頭が下がる。ここでは日曜日に採血車が定期的に来ていつも3台並んでいる。今日は人出の影響か、採血する人の姿は見かけなかったが、いつもは何人も見かける。

 採血は何十回しただろう。回数を重ね日赤から何回か記念品などを頂いことがある。最初の経験は献血と言わず「預血」という時代から始めた。それは知人の手術で必要だった。しかし、予定した手術で預血カードが不要になり、手持ちしていた。近所で輸血が必要な人から相談があり、カードを使ってもらった。

 姪が野犬に追われ小川に転落、頭蓋骨の手術を受けることになった。輸血が必要、それも鮮血輸血という。諸検査を受け私の血液を提供することになった。手術中は隣の部屋で待機。いざその時はベッドを高くしヘッド差を利用し床面で採血、スート抜けていくのが分かった。

 現役のころの休日の話もある。休日出勤で仕事をしていたら独身寮の管理人から「寮生が入院、病院から緊急輸血の要請が来た」と連絡が入った。人事課員の私は3つの独身寮に連絡し、血液型を問わず在室の全員に病院への急行を依頼した。多くの寮生が駆けつけ手術は成功した。献血年齢を大昔に越えたが、輸血の重要性は認識しており、手術の成功例から献血の重要性を改めて思いなおす。

 (今日の575) 献血が出来る健康幸せだ
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ミカンのころ

2024年12月22日 | 回想

 ミカン、みかん、蜜柑、どれを使うのが正しいのだろうか。辞書では「蜜柑」となっている、が、使い方は、使う人のその時の気持ちや状況などによって使い分ければいい、私はほかの言葉でもそう思って漢字や仮名に使い分けしている。まさか文意から未刊に未完に味感などと間違いは起きないだろう。

 今はそんなミカンの季節で県内にはブランド品の「大島みかん」がある。極早生は9月下旬から10月、早生は11月、中生・普通は11月下旬から1月、高糖系は12月から2月中旬まで出荷、品種によって異なっているが、いつの出荷の物でも美味いことに間違いなしだ。

 若いころ、大島大橋など夢のころの話し。職場責任者の実家が大島のミカン農家、ということで誘われるままにミカン狩りで何度かお邪魔した。ミカンは食べ放題、昼食は地元料理を腹いっぱい、土産はもぎたてのミカンを持てるだけ、帰りは連絡船乗り場へ見送りしてもらう。ミカン狩り料金はご両親へのわずかなお土産だった。スーパーなど無い時代、買う時は近くの小売店時代の古いお話し。

 初めて公開するミカン狩りの極秘情報。好き放題に採ったミカン山は出荷用のミカンを収穫するミカン山で、観光農園のそれとは別という。出荷用の山は陽当たりや潮風の向きなど商品としての厳選に耐えるので、素人さんは絶対に入れないということだった。さて、今もそんな区分けがあるのだろうか。

 (今日の575) 指先がミカン色して一休み
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しち・ご・さん

2024年11月15日 | 回想

 「七五三」と書いて「しち・ご・さん」と読む。ずいぶん昔に教えられたがつい「ひち・ご・さん」と言っている。祝儀に用いる数の中の三つをとったもの、いう意味もある。そうだが、庶民的には「男子は3歳と5歳、女子は3歳と7歳とに当たる年の11月15日、つまり今日は氏神に参拝する行事」の日に当たる。

 我が家の七五三は孫の3歳の時が初めて。今から20年以上前になる。これが孫新聞創刊号の記事になっている。創刊後からそのころの様子がわかる。少し早く10月19日(実際は2歳10カ月)に済ませている。着物はママの選んだ物で初めて着たこと、平仮名が読めます、ママとパソコンで楽しく遊んでいます、11月にはパパとママと3人でディズニーランへ行きます。着物姿と赤い自転車に乗る写真を載せている。

 先日の日曜日に、親子とも着飾って手を繋ぎ氏神様への長い石段を、1段1段ゆっくりとした歩調で上っていく2組を見かけた。この神社は車で社殿の傍まで行けるが、こうして一足一足踏みしめて上ることが、先々で何かを生み出す糧になるだろう、どこのどなたか分からないのに、そう思いながら後ろ姿にエールを送った。

 写真館で撮った孫3歳の宮参りの記念写真、それを見ながら嫁から聞いた話を思い出す。小学校入学、7歳の宮参り、小中高大の各卒業式など記念写真の時期には必ず誘いがあったという。そうか、カメラが普及した今ならではの商い術だと思った。待っていては何もやってこないのだ。

 (今日の575) 石段を上る親子の七五三
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