2014/9/10、TOHOシネマズ六本木ヒルズ。
スクリーン7は642席と同館最大。(他に車いす席2)
スクリーンサイズは8.4m×20.2mとかなり大きい。
割り当てられた席はC-38、39で自分では絶対選ばない場所。
スクリーンをかなり前方ななめ横下から見る。
映画泥棒のキャラクターがいつもよりかなりスマート。
ここでの試写会は3回目だが、前にはP列だかQ列だかの
やはりとんでもない席が当たっていてあまりいい印象がない。
(この項、後述)
**
役所広司、岡田准一、堀北真希、原田美枝子。
*
檀野庄三郎(岡田准一)はちょっとしたことから同僚の水上信吾(青木 崇高)と
喧嘩の挙句、刃傷沙汰を起こしてしまう。
家老の中根兵右衛門(串田知美)は、切腹を赦す代わりに
庄三郎に向山村に幽閉されている戸田秋谷(役所広司)の所へ行くよう命じる。
戸田秋谷は7年前、大殿の側室と不義密通、お付きの者を斬り殺した犯人。
本来であれば即刻切腹だが、藩の歴史書である家譜を作成中であったため、
大殿は10年の猶予を与え、家譜を完成させるよう命じたのだ。
完成まで残すところ、後3年。
庄三郎は早速向山村の秋谷の屋敷に向かう。
出迎えたのは娘の薫(堀北真希)と妻の織江(原田美枝子)
庄三郎は表向きは清書係だが、実は秋谷の監視役で切腹まで見届けることを早々と告知する。
一切の動揺を見せず、淡々と武士としての生活を続ける秋谷に、
庄三郎は事件の真相を知りたいと考えるようになる。
**
物語は淡々と進む。
お家のため、全てを受け止めて、散っていった男の生き様を描いている。
ただ、サムライとは、武家とは、何なのか。
当時の価値観、人生観、身分制度を含む藩士の生き様を
すべて受け入れないと物語の真髄は見えてこない。
所作は見事。
近年の時代劇はチャラチャラした現代風の描写を排し、
本当に当時こうであったろうと思わせるものがある。
ただ、それは、我々の思考や行動とは一線を画し、
自身がそうありたいか、なりたいかとは別物。
*
映画の作りは同じ「記」の入った「剣岳、点の記」を思い出した。
監督は全く違う撮影監督出身の木村大作だが、
一人の男の生き様を描いた「記録」としての類似点があった。
調べたところ、小泉尭士監督作品には「明日への遺言」があった。
どうやらこの監督は全体を俯瞰してみることよりも
一人の人物を掘り下げることが主眼で、
謎解きのエンタメ性を排し、出来事を積み上げていくことで
観客に思いを伝えようとしているようだ。
エンタメ性を重視するのであれば、家譜作成の過程で
自身が巻き込まれたお家騒動の真相を探るうちに、家老の陰謀を解き明かし、
悪徳商人ともども家老を成敗しつつ自分は死んでいく方が面白い。
この時代の全てが止むを得なかったとは思わないが、
この時代の制度や価値観を否定するつもりもない。
侍がどう生き、どう生きようとしていたかは十分に伝わった。
*
武士にとって「名誉ある死」と「不名誉な死」は雲泥の差であり、
切腹は死罪だったとしても名誉ある死。
死ぬことがある意味最後のご奉公である武士にとって、
お家を守るための死は覚悟の死であったろう。
役所広司が役目を終えて死を選ぶ物語には「最後の忠臣蔵」がある。
武士の役目やその終わり方の描き方は実によく似ている。
今作でも死ぬところまで描くことによって秋谷の物語を完結させるのかなと思ったが、
死に行くところでフェードアウト的な終わり方だった。
*
ただ、一つ気になったのは、お美代の方の出自。
わざわざ出自を捏造せずとも、実在する武家の養女にすればよかったのにと思った。
「超高速参勤交代」では、
「遊女を側室にするのはいかがなものか」と問われた
藩主、内藤政醇(佐々木蔵乃介)は明るい調子で
「それは大丈夫だ。既に武家の養女にした。」と即答している。
スクリーン7は642席と同館最大。(他に車いす席2)
スクリーンサイズは8.4m×20.2mとかなり大きい。
割り当てられた席はC-38、39で自分では絶対選ばない場所。
スクリーンをかなり前方ななめ横下から見る。
映画泥棒のキャラクターがいつもよりかなりスマート。
ここでの試写会は3回目だが、前にはP列だかQ列だかの
やはりとんでもない席が当たっていてあまりいい印象がない。
(この項、後述)
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役所広司、岡田准一、堀北真希、原田美枝子。
*
檀野庄三郎(岡田准一)はちょっとしたことから同僚の水上信吾(青木 崇高)と
喧嘩の挙句、刃傷沙汰を起こしてしまう。
家老の中根兵右衛門(串田知美)は、切腹を赦す代わりに
庄三郎に向山村に幽閉されている戸田秋谷(役所広司)の所へ行くよう命じる。
戸田秋谷は7年前、大殿の側室と不義密通、お付きの者を斬り殺した犯人。
本来であれば即刻切腹だが、藩の歴史書である家譜を作成中であったため、
大殿は10年の猶予を与え、家譜を完成させるよう命じたのだ。
完成まで残すところ、後3年。
庄三郎は早速向山村の秋谷の屋敷に向かう。
出迎えたのは娘の薫(堀北真希)と妻の織江(原田美枝子)
庄三郎は表向きは清書係だが、実は秋谷の監視役で切腹まで見届けることを早々と告知する。
一切の動揺を見せず、淡々と武士としての生活を続ける秋谷に、
庄三郎は事件の真相を知りたいと考えるようになる。
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物語は淡々と進む。
お家のため、全てを受け止めて、散っていった男の生き様を描いている。
ただ、サムライとは、武家とは、何なのか。
当時の価値観、人生観、身分制度を含む藩士の生き様を
すべて受け入れないと物語の真髄は見えてこない。
所作は見事。
近年の時代劇はチャラチャラした現代風の描写を排し、
本当に当時こうであったろうと思わせるものがある。
ただ、それは、我々の思考や行動とは一線を画し、
自身がそうありたいか、なりたいかとは別物。
*
映画の作りは同じ「記」の入った「剣岳、点の記」を思い出した。
監督は全く違う撮影監督出身の木村大作だが、
一人の男の生き様を描いた「記録」としての類似点があった。
調べたところ、小泉尭士監督作品には「明日への遺言」があった。
どうやらこの監督は全体を俯瞰してみることよりも
一人の人物を掘り下げることが主眼で、
謎解きのエンタメ性を排し、出来事を積み上げていくことで
観客に思いを伝えようとしているようだ。
エンタメ性を重視するのであれば、家譜作成の過程で
自身が巻き込まれたお家騒動の真相を探るうちに、家老の陰謀を解き明かし、
悪徳商人ともども家老を成敗しつつ自分は死んでいく方が面白い。
この時代の全てが止むを得なかったとは思わないが、
この時代の制度や価値観を否定するつもりもない。
侍がどう生き、どう生きようとしていたかは十分に伝わった。
*
武士にとって「名誉ある死」と「不名誉な死」は雲泥の差であり、
切腹は死罪だったとしても名誉ある死。
死ぬことがある意味最後のご奉公である武士にとって、
お家を守るための死は覚悟の死であったろう。
役所広司が役目を終えて死を選ぶ物語には「最後の忠臣蔵」がある。
武士の役目やその終わり方の描き方は実によく似ている。
今作でも死ぬところまで描くことによって秋谷の物語を完結させるのかなと思ったが、
死に行くところでフェードアウト的な終わり方だった。
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ただ、一つ気になったのは、お美代の方の出自。
わざわざ出自を捏造せずとも、実在する武家の養女にすればよかったのにと思った。
「超高速参勤交代」では、
「遊女を側室にするのはいかがなものか」と問われた
藩主、内藤政醇(佐々木蔵乃介)は明るい調子で
「それは大丈夫だ。既に武家の養女にした。」と即答している。
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